8 赤い眼鏡の彼女
小学校の名前が分かると、そこまでの移動は簡単だった。
ターミナルの案内所で路線を聞き、すぐにやってきたバスに乗ると十五分程で最寄のバス停につく。国道から電車の高架を潜り抜けると、すぐに小学校があった。
プール脇に並んだ桜の蕾が少しほころんで白い花を見せている。
この風景をきちんと覚えているわけではないが、足がこっちだよと言わんばかりに芙美をそこに運んでくれる。
通り沿いの小さな喫茶店。白い壁に格子窓の扉、建物の周りには、ケーキをデコレーションするように色とりどりの花が植えられている。
「ここだ」
ふわりと蘇ってきた記憶が一致する。
店から漂うコーヒーの香。扉に提げられたOPENの文字に心臓が高鳴った。
カランカラン――扉を開けると、上に付いた鐘が高い音で芙美の入店を店主に伝えた。
「いらっしゃいませ」
ふいに蘇ったダンディなマスターの声を待つが、聞こえてきたのは女性の声だ。
十六年前の記憶――粟津咲という少女は、町子より一つ年下で、まだ中学生だった。ショートカットでスポーツが得意で、赤縁の眼鏡が印象的で。
魔法を操るのが優秀だった彼女に、町子は色々コツを教えてもらったものだ。
十六年経って、髪が伸びて大人になって。けれど、赤縁の眼鏡は健在で。
「咲ちゃん……」
カウンターに立つ女性の顔を確認して、芙美は再び流れ出ようとする涙を必死に抑えた。
間違いなく本人だった。突然泣き出した客を前に、彼女は慌ててカウンターのボックスからおしぼりを取り出して袋を破ると、バタバタと熱を払って差し出す。
「どうしたの? 大丈夫かい?」
他に客がいなかったのが幸いだ。芙美はほんのり温かいおしぼりを強く目に当てて、もう一度彼女を見やる。
「咲ちゃん」
「えっと……会った事、あったっけ?」
咲は眉をひそめて首を捻る。芙美として会ったことがないのだから、記憶にないのは当たり前だ。止めた涙が溢れそうで、芙美は「ごめんなさい」と声に強く力を込めた。
「町子なの! 私……」
言い切って恐縮する芙美に、咲は「えっ」と組んでいた手を解き、呆然と立ちつくしてしまう。大きく開かれた瞳で何度も瞬きする彼女に芙美は、
「佐倉町子が……生まれ変わったんだよ」
説明する声が上ずってしまう。全身を駆け巡る衝動を抑えるので精一杯だった。芙美になって初めて、誰かに打ち明ける言葉だ。
「何……だって?」
「ずっと連絡できなくて、ごめんなさい」
「町子が生まれ変わった、って。本当、なのかい?」
戸惑いを混ぜた問い掛けに「うん」と答えると、次の瞬間芙美は咲の腕に強く抱き締められていた。
「良かった……本当に。町子」
ふんわりとした甘い匂いと触れた身体の温かさに抑えていたものが弾けて、芙美は少しだけ背の高い彼女の肩をいっぱい濡らしてしまった。
たくさん泣いてようやく落ち着くと、咲がミルクのいっぱい入った甘いカフェオレを出してくれた。表面に浮かんだ三つのマシュマロがゆったりと熱に溶けていく。
「十年前に爺さんが死んじゃってね、私が継いだの。これでも結構繁盛してるんだよ」
そう胸を張る咲の横にあるコーヒー豆の棚には、色鉛筆でカラフルに描かれた手書きのポップが貼られていた。
テーブルごとに置かれた一輪挿しの花や、レースのカフェカーテン、木の台紙に貼られた手作りのメニュー表。それらの一つ一つが絵本から飛び出してきたようで、昔のシックな店内とは大分印象が変わってしまったが、店全体が咲を表しているようで、泣いていた事も忘れてつい和んでしまう。
これから三時を迎えようとしているのに、咲は外に立て掛けてあった二つ折りの黒板を中に入れ、さっさとドアの外にCLOSEの札を提げてしまった。
「ごめんね、突然来ちゃったのに」
「いいんだよ。だって、十六年振りだろ? でもまさか死んで生まれ変われるなんて思ってもいなかったね。大魔女は何も言ってなかったよなぁ」
芙美の向かいで、猫のイラストが入ったマグカップのコーヒーを飲みながら、咲は自分の眉間をグイグイと押した。
「うん。私も自分が町子とは別人に生まれ変わったって理解できたのは、小学校に入ってからだよ。本当はもっと早く来たかったんだけど。私が町子だって、信じてくれる?」
「……そうだね、ただの友人や家族なら多分信じないと思う。でも、違うだろ? 想定外の事が起こるのは、私たちにとっちゃ普通なんだ。だから驚いたけど否定はしない」
「咲ちゃん……」
「鈍くさくて、泣き虫で、でも行動力は人一倍で――ね? 町子そのままだろ?」
否定はできないが、そんな風に思われていたのが少しショックだ。けれど、力を失って記憶しかない自分をすんなり受け入れてくれた事が嬉しくてたまらない。
「会いにきて良かった。本当に、みんなに会いたかったよ」
芙美の頭を撫で、咲は「そうか」と苦笑する。
「弘人に会いに来たんだね」
年下でありながら面倒見の良かった咲には、芙美の気持ちなんてバレバレだ。
照れ臭さに視線を落とし、芙美は深く頷いた。