5 記憶をたどって
入学式を終えて慌ただしく日は過ぎ、初めての休日。
実家に帰るというメグを見送ったのは早朝の事。
芙美はクローゼットに昨日用意しておいたコーディネートのハンガーを取り出し、鏡の前でもう一度自分にあててみた。
町へ行くという芙美に世話好きのメグが考えてくれた、命名『お嬢様のアクティブな休日』スタイルだ。寮から駅までは自転車の移動になるので膝上のパンツをはき、上はレースの白いシャツに薄いピンクのカーディガンを合わせている。
今日、弘人に会えるかもしれない――。
芙美に生まれてから、仲間の手掛かりを求めてパソコンで検索してみた事がある。けれど、フルネームや地域を入力しても、誰一人検索に引っ掛かることはなかった。
唯一自分の過去の名前だけが『原因不明の殺人事件』として過去の新聞やニュースの映像に引っかかったのだ。
あの日、町子は類と戦って命を落とした。けれど、記事に残るのは町子の名前ばかりで彼の名前はどこにも見当たらなかった。
ずっと自分が殺してしまったと思っていたけれど、もしかしたら彼は生きているのかもしれない。
仲間に会えたら、全ての答えが出るだろうか。
十六年前に何度か行ったことのある弘人の家を訪ねて。そこに彼が今そこに居る可能性なんて、ゼロに近いのかもしれない。けれど「もし」という思いが衝動を掻き立てる。
「会えますように――」そう願いを声にして、芙美はそっと胸を押さえた。
☆
「お出掛け?」
準備をして下に下りると、玄関の外で掃き掃除をしていた寮母のミナに声を掛けられる。
まだ二十代後半だろうか。料理以外の寮生の管理を全て住み込みでしている。目鼻立ちのはっきりした綺麗な女性で、寮の女神ともてはやされる、男子たちの憧れの的だ。
「はい。駅前まで行ってきます」
「夕飯は食べるんだよね。時間厳守だよ。気を付けて行ってらっしゃい」
箒をくるりと肩に担いで手を振るミナに頭を下げ、芙美は校舎脇にある駐輪場へと向かった。
最寄りの駅まで自転車で十五分。駅と駅の調度中間に学校はある。
昔、学校からすぐ側の線路沿いに新しい駅ができるという噂が立っていたが、十六年経っていまだにそれがない所を見ると、もう望みは薄いのかもしれない。
なだらかな上り坂の向こうにある小さな駅。
昔町子もこの坂に苦労していたことを思い出しながら、記憶と殆ど変化のない田園風景を進んでいく。
口ずさむメロディは九十年代に流行った軽快なラブソング。今ではもう懐メロに分類されてしまうが、歌っている歌手が今も現役で活躍している事が芙美はとても嬉しかった。
駅に着くと、身体が少し汗ばんでいた。
今日の晴天で桜がようやく咲きそうだと、談話室のテレビで見たニュースでアナウンサーが声を弾ませていた。
すぐに来た一両編成の電車に乗り、一駅隣の駅に着く。受験で冬にも一度来ているが、新幹線からすぐ電車に乗り変えてしまい、芙美として駅前を歩くのは初めてだった。
学校周辺の田園風景から一変して、ビルの多い町が広がる。まだ十時前で開いていない店も多かったが、駅構内は慌しい人の数が行き来していた。
併設されたお洒落なショッピングセンターを横目に外へ出て、芙美は「わぁ」と感嘆の声を漏らす。
タクシーのターミナルと小さい商店がある程度だった駅前に、大きなビルがそびえ建っていたのだ。
「いつの間に?」と声が漏れる。昔ここには何があっただろう。記憶を上書きしてしまうほどの存在感。下層の商業スペースには、都会でも見慣れた店の看板が並ぶ。
学校の周りは大して変化がなかったのに、市街地は大分雰囲気が違っていた。
駅前にあった老舗のデパートは建物ごと消え、横には石畳の道路が伸びる。昔小さな店々が活気立っていた雰囲気も一変し、町は町子が知っているより綺麗で静かな町になっていた。
調べてきたメモを片手にターミナルからバスに乗る。弘人の家を訪れる前に、もう一人会いたい人がいた。
そこに彼はいないような気がするけれど。
駅から五分ほどの国道沿いで下り、少しだけ期待を込めて坂を上った。
車一台がやっと通れる細い坂。小さな山の斜面を切り崩した住宅街は、町中でありながらまだ半分の面積に木が生い茂っている。
坂を上りきって、芙美はその光景に「やっぱり」と肩を落とした。町を見下ろす高台に、記憶とは違う建物が建っていた。
町子の家があった場所だ。町子が中学に入ってすぐ、母親が病気でこの世を去り、祖母と弟の三人で暮らしていた家だった。
「夏樹……」
高齢だった祖母は、きっと旅立ってしまっただろう。けれど、五歳下だった弟・夏樹の存在が弘人以上に気掛かりだった。
彼が生まれてすぐに両親が離婚してしまい、母も亡くした家で、町子までがこの世を去った。まだ十歳だった夏樹の事を考えると、早くここに帰って来たいと思っていた。
祖父が建てたという純和風の広い家は、きっと祖母と二人では持て余してしまうだろう。
「仕方ない……よね」
寂しさを感じつつ、そこに建つ流行の洋風家屋を眺めていると、
「この家に御用ですか?」
後ろから声を掛けられ、芙美はハッとして振り返る。
小さな男の子を抱いた若い女性が立っていた。この家に住んでいるようで、片手に持っていた大きなスーパーの袋を玄関前に「よいしょ」と下ろす。
「す、すみませんっ」
不審者に見られたかもしれない。弁解の言葉も見つからずうろたえる芙美に、女はふっと微笑んだ。
その表情に芙美は眉を上げる。
彼女に会うのは初めてでないと――気付いた。