4 第一印象
☆
清蘭学園学生寮・浅風寮の朝は、六時調度に流れるピアノで始まる。
音大へ進んだ卒業生が残していった音源らしいが、あまりにも静かな曲調のせいで目覚めへの促進効果は乏しい。
芙美が起きかけのまどろんだ意識の中、布団の温もりを堪能していると、洗顔を終えた恵ことメグがタオルを首に掛けて「遅刻しちゃうよ」と急かす。
芙美は朝が苦手だった。
いくら睡眠をとっても、目覚めだけはスッキリしない。
流れるピアノが二曲目に入るが、これも睡眠を助長する緩さだ。いっそのことベートーベンの運命でもかけてもらったほうがパッと起きる事ができるかもしれない。
「ほら、あと三十分だよ!」
朝食は六時四十五分。下のフロアに男子がいるせいで、一階の共有フロアはパジャマ厳禁だ。
『平日の朝食は制服で』と、入所時に渡されたプリントに書いてあった。
「三十分なら、まだ余裕だよ」
顔を洗って、歯を磨いて、髪を整えて制服に着替える。食堂までの移動を考えると、ざっと見積もって十五分あれば余裕だ。
「そんなの、駄目ぇ!!」
のんびりと起き上がる芙美に、メグは腰に手を当てて主張した。芙美がびくりと身体を震わせ怒り気味の彼女を見上げると、メグは既に制服姿でヘアブラシを手にしていた。
「今日はクラスで自己紹介があるんだよ? 最初が肝心なんだから!」
気合充分に髪を両サイドに縛り上げるメグに触発され、芙美はようやくベッドを下りた。
そういえばあまり覚えていないけれど、今朝は町子である頃の夢を見た。
あれは、大魔女に初めて会った時の事だ。黒いローブを身に纏った、絵本に出てくる『魔女』そのものだ。
魔法少女になりたての頃に数回しか会ったことがないのと、黒い姿のインパクトが強すぎて、顔の記憶が全くない。そんな黒い魔女と対面するだけの夢だった。
部屋の隅にある小さな洗面台で顔を洗うとようやく目が覚めてきて、鏡に写る顔に自分が芙美であることを思い出す。昔の夢を見ると記憶が混乱してしまう事があるが、最近は区別が付くようになってきた。
芙美は大きな目が都子と良く似ていた。町子がコンプレックスに思っていた低くて丸い鼻も、彫りの深い和弘のお陰でちゃんと筋が通っているし、トーンの低かった声も気にならなくなった。
ただ、うねうねと癖のある髪はストレートだった町子を羨ましく思うが、総合的に見れば合格点だ。
『神様有難うございます』と、和弘と都子の元に産まれた幸運に感謝しながら、芙美はいつもより二割増の気合で身支度を整えた。
☆
「有村芙美です。名古屋から来ました」
今日一日で、何回このセリフを口にしただろう。
朝、寮母の若い女性から始まり、寮長、クラス、それに授業毎の担当教師への挨拶。最初は『有村』の肩書きにざわめいていたクラスメイトも、父親の仕事が忙しく転勤が多い事、その為に寮のある学校を選んだ事を説明すると、予想以上に皆が納得してくれて、後半はもう誰も騒がなくなっていた。
メグは持ち前の可愛さと早朝から励んだ百二十パーセント増しの気合で、男子の注目を浴びていた。
教師陣は流石私立と言わんばかりに芙美の見知った顔ぶれが多い。十六年の時は過ぎているが、少し老けた程度であまり変わりなく、懐かしさに芙美は心を躍らせた。
同じクラスから寮に入ったのは、芙美とメグ以外に男子が二人だ。全部で五十人程度の寮で、この人数は多いほうだと言う。一人は陸上競技の推薦で県外から来たと言う背の高い人で、もう一人は少し癖のありそうな人だった。
「熊谷修司です」
面倒そうにそれだけ言って、すぐに腰を下ろしてしまう。後ろから三番目の窓際の席で、自分の挨拶以外はずっと外をぼんやり眺めていた。
放課後、寮に帰る彼を見つけてメグがこっそり耳打ちしてくる。
「ちょっと変わってるね。でも、ニヒルな感じがカッコいいかも」
芙美は驚いて、「えっ」と聞き返してしまった。彼女の倍の時間この世に生きているつもりだが、ニヒルなんて言葉を口にしたことはない。
メグは実はもっと古い時代に生きた人の生まれ変わりなのではないかと疑いつつ、芙美は建物へ入って行く修司の背を見送った。