36 雪のダム
「お父さん、飛行機一本ずらして貴女に会いに行ったのよ」
実家に着いて都子がふふっと笑いながら、そんな話をしてくれた。「もう、ギリギリだったんだから」とご機嫌だ。
駅からバスに乗って十分ほどで、芙美の実家のマンションに着いた。
コンシェルジュのいる高級マンション。白で纏められた無機質なロビーを抜け、十階までエレベーターで昇ると、一番奥の扉が鍵を出すタイミングで開かれた。
「芙美の連れて来るヤツを一目見ないと北海道出張になんて行けない、って。結局今日までずっと心配してたんだから」
男子を連れてこなくて本当に良かった、と芙美は安堵する。
リビングの横にある和室に通されて荷物を置くと、都子は広げてあった新聞を畳み、スタンバイしていたお茶を淹れてくれた。
彼女の好きな近所の和菓子店の羊羹を組み合わせた、都子の定番おもてなしセットだ。小豆餡と抹茶餡を取り分けて、「どうぞ」と勧める。
都子と咲が挨拶程度の自己紹介を交わすと、芙美は一口だけお茶を飲んで、正座した膝の上に両手をぎゅっと握りしめた。
芙美が高校に入ってからまだ二カ月経っていない家は、カレンダーの柄が変わった程度で引っ越した時のままだ。住み慣れた家は本来ならのんびりできるはずなのに、気が張り詰めているせいで、普段濃い目に淹れる都子のお茶の味でさえ良くわからなかった。
「和弘さんは高校生活を何だと思ってるのかしら。そりゃお勉強は大事だけれど、好きな人に夢中になることだって大事なのにね」
和弘の過保護っぷりには、都子も手を焼いている。
昔から芙美を溺愛している所があり、これでも最近は落ち着いた方なのだ。
芙美は杖の話をいつ切り出そうかとタイミングを見ていたが、「でもね」と表情を陰らせ先に話し出したのは都子のほうだった。
「和弘さんも色々あって、心配しているのよ――だからある程度は目を瞑ってあげて」
真っすぐ向けられた都子の視線に、芙美は息をのんだ。
今回ここに来ることは告げてあったが、杖の話や町子の話は何もしていなかった。だから、彼女が先にその話を口にするとは思っていなかったのだ。
「ダムの話をしにきたんでしょ?」
まさか、という気持ちだけで頭が真っ白になる。咲は何も言わず横で目を丸くしていた。
ダムと聞いて、思い浮かぶのは一つだ。芙美もその話をするためにここに来た。
都子はきつく閉じた瞳を開いて、うつむきがちにあの日の話を語り始める。
「間違っていたら、ごめんなさい。あれは、私がまだ若くて、今の貴女くらいの頃よ。和弘さんと付き合ってて、まだ東京に住んでいたの。二人とも金色の髪でね」
芙美を授かったことをきっかけに、黒髪にして過去をアルバムに封印した和弘と都子。何度も聞いた思い出話にダムという言葉が入ったことはない。
「私がね、雪が見たいってわがまま言って、バイクで連れて行ってもらったの。でも、和弘さんってびっくりするくらい方向音痴でしょ? スキー場がある山の方に行きたかったのに、正反対の方向に行っちゃって。それでも雪があったから結果オーライだったんだけど。人気のない山道を走ってたら――ダムに出たの」
町子の記憶と一致する。全身がガクガクと震え出すのを必死に堪えようとするが、抑え込むことができず、咲へ伸ばした手で掌をぎゅっと握りしめた。
振り向いた咲は声を出さずに「うん」と頷いて、もう一つの手をその上に重ねる。
「道路が凍結してて、バイクを降りたの。和弘さんがバイクを押しながら二人で歩いて。そしたらダムの坂を下りた向こうに、人影を見つけて」
「…………」
「何かおかしいって、すぐわかった。遠目に見ても人だって分かるのに全然動かないし、血液の色が見えたから」
「お母さん――」
息が詰まりそうになって芙美は反射的に声を出すが、何を話すことも、自分から名乗り出ることもできず、衝動で前に出た身体を引いて、うつむきがちに視線を反らした。
都子は、はあっと息を吐き出して、両手で自分の頬を抑えた。
「ごめんね。ちゃんと話さなきゃね。雪の中、和弘さんに止められたのを振り切って行ったら、女の子が倒れていたの。白くて可愛いフリフリの服を着ているのに、全身が血だらけだった。何があったのかはいまだに分からないけど、私が行った時には、まだ息があったのよ。でも――助けてあげることは出来なかった」
――「死ぬな」
今でもはっきり覚えている声。
あれは都子の声だった。彼女の口から焦った時に飛び出す、金髪時代の激しい言葉遣い。
涙が溢れる。
ずっと一緒に暮らして来たのに、気付くことができなかった。
咲に差し出されたハンカチで目を覆って、こみ上げる嗚咽を肩へ逃す。
「あの日のことがあるから、和弘さんは貴女が心配なのよ。その子の歳に貴女が近付いて、重ねちゃうのね。でも、和弘さんはそれ以上のことに気付いてはいないわ。ねぇ――芙美、小さい時貴女は、いつも自分が魔法使いだって言ってた。自分は自分じゃない、って。もしかして、それは――」
気付いている。都子の推測は正しい。芙美は強く瞼をこすり、赤くなった目を起こして「そうだよ」と頷くと、都子は「やっぱり」と穏やかに笑った。
「でも、私は有村芙美だよ? お母さんの子供だから」
「そんなの、私が一番よく知ってるわよ。貴女の事は、ずっとそうじゃないかって思ってた。こんなことってあるのね。あんな風に死んでしまったあの子のことが、ずっと気になってた。もう少し早く気付けたら、助けられたのかもしれないのにって思ってたから――今こうして貴女が笑ってくれて、本当に嬉しいよ」
「お母さん――ありがとう」
びしょびしょになった目を拭いて、芙美は咲から手を放し、彼女の言葉に笑顔で答えた。
都子は咲へと視線を移し、
「貴女はあの子の友達だったの?」
「そうです。でも今は、芙美ちゃんの友達です」
「そっか。私ってば、もう、超能力少女みたいね」
自慢げに微笑む都子に、芙美は驚きを通して感心してしまう。
「娘があの高校へ行きたいって言ったとき、ずっとそうじゃないかって思ってたことが確信に変わったの。咲さん、これからも芙美と仲良くしてあげてね」
「もちろんです」と強く返事して、咲は「それと……」と言い難そうに切り出した。
「事件のあった日、他にダムで見た人はいますか?」
「他に? いないわ。あの後近くで男の子の遺体も発見されたんでしょ? 警察にも聞かれたけど、私たちはあの女の子以外誰にも会ってないのよ」
「そう――ですか」
類は大魔女に会うために、あのダムに行った。けれど結局、誰も彼女に会うことができなかったようだ。あの日の死が全部無駄だった気がして、芙美はうなだれてため息を零すが、都子は「それより」と立ち上がると、リビングへ退室してすぐに戻ってきた。
軽い鼻歌を鳴らしながら、後ろ手に何かを隠し、意味深な笑みを浮かべている。
「芙美、今日の目的はもっと別のことなんじゃないの?」
「えっ。何? 目的って……えええっ?」
芙美は咲と目を合わせ、息をのんだ。まさかここですんなりと魔法の杖が出てくるものではないだろうと半信半疑になりつつ、期待が突然高まった。
「咲ちゃん、そんなわけ、ないよね?」
「そんなに人生うまくはいかないと思う」
そんな会話をする二人を前に、都子は「じゃじゃあああん」と効果音を口で奏でながら、二人の前に手を差し出した。
「出ましたぁ! 魔法使いの杖ぇ!!」
「それぇぇえええっ!!」
彼女の手にしっかりと握りしめられた木の棒に、二人は叫び声をあげて立ち上がった。
間違いない。それを探してここまで来たのだ。
正真正銘、町子の杖だ。




