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13 悪い男

 二人を乗せた乗用車のエンジン音が遠ざかっていくと、台風が過ぎ去ったように店はシンと静まり返った。


「全く、アイツは」


 疲れた、と言わんばかりに肩の力を抜いて、弘人はカウンターに入り、銀色の冷蔵庫を開けた。

 手馴れた様子で切り分けられたアップルパイは、フランス料理よろしく大きなパスタ皿に乗せられていて、添えられたフォークも同じくパスタ用の大振りのものだった。おまけに切り口がガタガタといびつで、芙美はぷっと吹き出してしまう。

 けれど、弘人は至って真面目に「何笑ってるんだ?」と不思議そうに首を傾げた。


「ううん、何でもないよ」

「そうか。咲の料理は何でもうまいぜ。男勝りなのに、こういうトコ女らしいよな」


 サイフォンからガラスの容器を抜いて、弘人はふと手を止める。


「そういえば、苦いの飲めるようになったか?」


 町子はいつもカフェオレを飲んでいたから。彼がそれを覚えていてくれたことが嬉しくてたまらない。


 「……まだ苦手だよ」と答えると、弘人は少しだけコーヒーを注いでから牛乳を足し、「どうぞ」と芙美の前に差し出してくれた。

 礼を言って受け取ったカップは牛乳のせいですっかり冷たくなっている。

 「俺は肉を待つ」と、お冷だけを持って向かいに座った弘人を眺めて、芙美は「いただきます」と、表面の網目がツヤツヤと光るアップルパイを口にした。


「本当だ、美味しい」


 「だろ?」と弘人は目を細め、パイが半分ほど減った所で突然「なぁ」と切り出した。


「芙美ちゃん……だっけ」

「ちゃん、はいいよ。弘人に言われると変な感じがする」


 まるで自分以外の名前を呼ばれている気分だった。

 彼に会って、16年分の壁を感じた。「ふみちゃん」は芙美にとってどうしても壁を厚くする要因にしかならない。

 本当は『町子』と呼んで欲しかった。けれど彼にとっての町子は、もうこの世にはいないのだ。


「じゃあ、町子にするかな」


 しかし弘人は突拍子もなくそんなことを口にする。


「そ、それでもいいよ」


 気不味(きまず)さを覚えつつ、嬉しいと思ってしまう。


「わかった。町子、あのな……」


 言葉を躊躇(ためら)って、弘人は人差し指で(あご)()く。

 話辛(はなしづら)さこの上ない内容を待ち構えて、芙美は大皿にフォークを置いた。


 直撃弾はすぐに飛んでは来なかった。その沈黙に押し潰されそうになって、芙美は、


「弘人、薫ちゃんと――」

「芙美」


 先に切り出そうとした言葉を、弘人は早口に遮った。


「あぁ。薫と付き合ってる」


 自分が芙美として生まれ変わったと悟った時から、この恋の結末は予測していた。

 町子として彼の恋人だった時から、薫の気持ちは知っていた。弘人に向けられた視線に込めた想いに気付きながら、見ないふりをしていた。


「……うん。謝らないでね。だって、町子は死んだんだよ? 私に町子の記憶はあるけど、芙美として生きてる。だから、気にしないで」


 自分のことで困惑する彼の表情を見たくなかった。

 三十一歳の弘人が目の前にいるのに、視界の中で十五歳の彼が重なって見えてしまう。


「……ごめんな」


 その言葉は、いらないのに。彼が悪いわけではないのだから。


「いいの。でもね、少しだけ淋しい。ずっと、弘人に会いたかったから」


 この言葉が言えただけで、芙美は満足だった。自分ができる、精一杯の抵抗だ。

 弘人は当惑の表情を見せるが、


「本当に、町子なんだな」


 失恋シーンの筈なのに、彼がそこから滲ませた穏やかな笑みに、芙美は面食らう。


「顔なんて全然違うのに、昔のまんまだ」


 急に涙腺が緩みそうになって、芙美は必死に堪えた。

 優しさなんていらないのに、弘人は立ち上がって芙美の横に移動した。


「強がるくらいなら、泣けばいいよ」


 大分、自分勝手なことを言ってくれる。もう俺のことは諦めろと突き放して欲しいのに。


「諦めさせてよ。その為に、来たんだから」


 自分の気持ちを終わらせたかった。彼に会いたいという感情と同じくらい、それを覚悟してここまで来たのだ。


「悪い男って言うんだよ、そういうの」

「それでも、いいから」


 急に手を掴まれて、引かれるままに芙美は立ち上がる。


「もう泣いてるでしょ?」


 どれだけ涙が出るんだろう。駅で泣いて、咲の前で泣いて、涙なんかすっからかんになった筈なのに、じわりと溢れた滴が頬を伝って床に落ちた。


 薫の顔が脳裏をよぎる。彼の胸を濡らすことは、彼女を悲しませることになる。


「薫の事、今は気にしなくていいよ」

「だから、それは悪い男のセリフだよ」


 うわぁん、と。それ以上抑えることができずに、抱き寄せられた胸で、芙美は彼の最後の温もりを感じながら、子供のように泣きじゃくった。



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