1 すべては夢から始まる
目を開く。
いつも通りの天井を眺めながら、少しだけ思考を回した。
まずは自分の名前から。
「水澄 翔樹十六歳。高校生をしてて、今は夏休み……だよな?」
自問自答しながら、近くに置いてあるメモに目を通す。
「覚えてる、よし」
布団を退けて上体を起こす。
背中は汗でぐっしょりになっており、気分も優れない。
ここ最近よく見る夢ではあるのだが、慣れることはない。まるで別世界のような真っ赤な場所で、人と蟲が混ざりあった化け物相手に大立回りをするだけの夢。自分自身が経験しているわけでもないのに、自然と拳に力を込めていた。
特に、カマキリ人間を真っ二つにした瞬間は、起きた今でも手に残っているようだった。
だんだんと、感覚がリアルになっているような気がする。
最初に見たのがいつだったのかは覚えていない。気がついた時には、あの夢を見るようになっていた。
「はぁ」
ため息を溢し、ぐっと伸びをしてシャツを脱ぎ捨てた。
メモ同様に近くに常備してあるタオルで汗をぬぐっていく。
別にこれが初めてではない。ほぼ毎日似たような朝を繰り返しているのだ。いい加減慣れる。日課と言ってもいいほどだ。
ただし、この日課は、最低でも高校に入学してからになる。その前の記憶が、俺にはないのだ。
記憶喪失。
簡単に説明するとしたらば、その四文字が適切だろう。
俺が覚えている一番古い記憶は、白いベッドと天井だけだ。
自分がどうしてそこで眠っているのかも、何が起こったのかも、自分の名前すら、忘れていた。
正直、どうしたらいいのかまるでわからなかった。犬顔のお巡りさん並みに吠えそうになったほどである。
あの時、妹と名乗る少女。愛が迎えに来てくれなかったならば、発狂して暴れていたかもしれない。あるいは、すべてを拒絶して、自分の殻に閉じ籠っていたことだろう。
どちらを選択してもいい結果にならなかったことだけは確信している。
とは言え、愛が本当に俺の妹であり、家族なのかを問われたら疑問の声を上げざる終えない。俺のことを知っているのは確かで、色々なことを教えてもらった。
どんな学校に通い、友達が居て、両親がどこでなにをしているのか。生年月日、食事の好み、言葉遣いまで、おおよそ俺と言う存在を形成する上で必要なことを全部だ。
しかし、詳しすぎるような気もしている。風呂に入って最初に洗う場所まで指導された時はさすがに驚いて嘘だと叫んだほど。
平然と風呂に突撃したり、無防備な姿を晒したり、危険が多い。
血の繋がった兄妹ってこんな風なのか?
なんて考えたこともあるが、今ではすでに諦めのほうが強い。したいようにやらせるのが一番である。
ここまで、様々なことがあっても、愛が妹で無いことを疑うのは、おおよその直感でしかない。ただ、信じられないだけだ。
もしかしたら、妹でない方がいい。なんてことを思っていたり……いや、考えるのはやめておこう。これ以上は辛いだけだ。
「はぁ」
ため息を溢しながらカーテンを開く。
一瞬、赤い空が出迎えるような気がしたが、そんなことはなく。青空と白い雲がそこにある。
広がる町並みも、夢のような瓦礫と残骸ではなく。ちゃんとした家ばかりだ。まばらではあるが、人が歩いている姿も見えるし、少し遠くでは車の往来も確認できた。
やはり、夢は夢でしかない。どんなにリアルな夢であっても、それが真実になることなどはないのだろう。
「いい天気だ」
服を着替える。
時計を見れば、すでに昼も近づいていた。
愛は、ゲームや漫画に出てくる妹のように俺を起こしに来ることはなかった。そもそも、部屋に入ることすら稀だ。別に入らないようにお願いした覚えはない。愛は愛なりの理由があるのだと納得しているが、たまに思ってしまう。
俺たちは兄妹として間違っているのではないか、と。
正しい兄妹関係などは知らないけど、勉強用に友達から借りた教材では、妹は兄の世話を焼きたがったし、不自然なほどに接触しようとしてくる。あるいは、毛嫌いして近寄ろうとすれば猫のように威嚇されて、攻撃されて涙を見ることになる。
そのどちらでもない。
両極端であることはわかっているけど、どちらにも針が振れていないのはどうしてなのだろうと気になりはする。
俺のことなんてどうでもいい。そう思っている可能性も否定は出来ないので、本人に聞くようなことは出来ない。
今日も今日とて疑問を抱えながら接するしかない。そもそも、俺は愛への対応よりも先にやるべきことがあるのだ。
それが解決しないことには、愛のことをどうするべきかを考えることも出来ない
「記憶探索。頑張らないとな」
失った記憶を思い出す。それが、何よりも先に来る事項であった。記憶が戻れば、愛との接し方も思い出す可能性が高い。
下手に考えて行動するよりもずっとスマートにことが進む。なんてことを思いながら、成果が上がらず二ヶ月が過ぎている。
のんびりし過ぎている気がしないでもないが、町を見ても、人を見ても、授業を受けても、家で過ごしても、まるで記憶を刺激しない。
最初から知らないと言われているような感覚すら思い浮かぶ。
だが、そんなわけはない。
愛の言葉を全面的に信じるわけではないが、色々な人が俺を知っているようなのだ。
学校の友達。先生。町の住人。
片っ端から話を聞いたが、俺を知っている人は多かった。記憶を失う前はそこそこに有名だったようで色々な噂が飛び交っていた。
聞かされても、首を傾げるような内容ばかりで、自分がやった。なんて嘘のようだった。
曰く、町の不良を千人抜きした。だの。
曰く、剣道部で全国大会優勝。だの。
曰く、全校生徒が認めるシスコン。だの。
今の自分では実感の沸かない噂だ。
そもそも、最後のシスコンだけはなんとかならないか奮闘したのだが、どうにも根が深いようでどうすることも出来なかった。
思い出しただけで胃がムカムカしてくる。
そろそろ本格的に起きるか。
「よし」
服を着替え、外に出る。
さあ、記憶探しの冒険。スタートだ。