1話「空白の目覚め」
意識が覚醒する。
長いような、短いような眠りから覚めたみたいな曖昧な感覚だった。
躊躇いもなく瞼は開かれ、異様な光景と瞳とを隔絶していた結界が解かれる。
白。白。白。白。
視界に映りこんできたのは一面白の世界だった。
霧がかかったような白ではなく、純粋で、無機質で、透き通るような白だ。
無限の白。果てのない白。
その空間は無秩序な程秩序的に、「白」によって埋め尽くされていた。
この空間で白くないものはといえば唯一、「自分」という存在だけだった。
ひたすらに広がる白の一部に、黒のボロ布のようなものを纏っただけの「自分」が横たえていた。
ここで初めて「自分」は「自分」という存在を認識する。
手を動かしてみる。
「自分」の手が「自分」の思い通りに動く。
足を動かしてみる。
「自分」の足が「自分」の思い通りに動く。
「お...あ...」
声を発してみる。
特に面白味もない男の声が「自分」の口から発せられた後、白い空間に響くこともなく消え落ちていった。
立ち上がって、歩いて、周りを見渡してみる。
広がり続ける「白」に終わりのようなものは感じられない。
壁と思われるものも見つからず、ひたすらに白い床と白い空間だけがどこまでも果てしなく広がっているように感じられる。
「自分」は思考をする。
「自分」は今の今まで何処で何をしていたのだろうか...?
...思い出せない。
この白い空間が何処なのかを「自分」は知らない。
そして、何より、「自分」のことが分からない。
「自分」という存在が何者なのか。
何処の誰で、どんな暮らしを送ってきたのか。
顔も、名前も、何も思い出せない。
少なくとも、「自分」が生まれたばかりの赤子ではないことは自覚しているし、
こうして自分の手足は自由に動かせているのだから、「自分」が「自分」あることに間違いはない。
再び思考を巡らせる。
さほどの時間もかからない内に結論にたどり着く。
「自分」には本来あるべきの「記憶」が無いのだ。
その答えにたどり着き、ふと、得体のしれない恐怖感に襲われる。
自分が何者かも分からない、という漠然とした不安。
ひたすらに広がる見覚えのない世界に自分一人、という孤独。
そんな空恐ろしさが、言い知れぬ恐怖が、こみ上げてくる。
怖い。
背筋がゾクリと震え上がる。
怖い。怖い。
一度抱いた恐怖心が己の中で反芻され、漸増する。
怖い。怖い。怖い。
自分はその恐怖を打ち消す術さえ知らない。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
ただできることがあるとすれば、「自分」の身を「自分」の腕で抱きしめるることで
不安をかき消そうという、ともすれば滑稽にも思える行動だけだった。
分からない。分からない。分からない。
「自分」のことが分からない。
「自分」のことで唯一分かることといえば「自分」が男であるということだけだった。
「自分」は男だ。
ただ一つの手がかり、だが同時に違和感を覚える。
「自分」は男だ。
恐怖が違和感によって一時的に上書きされる。
「自分」は男だ。
違和感の正体にたどり着き、そして思い出す。
「自分」は自分のことを「自分」とは言わないことを。
「お、れ...」
気が付けば自然と声を発していた。
「俺、は...」
必死になって言葉を紡いでいた。
「俺、は...俺...だ...」
絡み付き、まとわりついてくる不安を振り払うように声を発した。
言い聞かせるように、確かめるように言葉を繰り返していると
不思議と恐怖や不安が引いていった。
最後に残ったのは、それでも白いだけの空間と記憶を持たない「俺」だけだった。