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後編


 七


 翌日、レージェとカイルは揃ってガーディアン邸にいた。

 雪がちらちらと舞っている。

 昼を昼と思わせない曇天を見上げて、カイルがぽつりと言った。

「雪の、こうしてゆっくり降り落ちてくる姿は、奇麗だな。ずっと見ていると、なんだか光っているようにも見えてくる。」

「そうだな。」

「そういえば、今年の初雪は、いつもよりか随分と早かったのだよな。」

「あぁ、早かったな。平年並みなら、十日は後になるのが普通だ。」

「宮廷の魔導師たちがあたふたしていたが、何か悪いことでもあるのか?」

「さて、どうだろうな。十日程度じゃあ何とも。」

「そうか。」

「まぁ、俺の見立てじゃあ、天変地異みたいなとんでもないことは起きんよ。安心してくれていい。」

「ふうん、そうか、それなら安心だな。」

 と、そこで邸宅の扉が開いた。

 どこかやつれた雰囲気の女中が深々と頭を下げる。

「お待たせいたしました、レージェ様、ヴェルメ様。どうぞ、お入りください。」

「失礼する。」

「奥様のところへご案内――」

「ああ、いや、その前に。」

「はい?」

「二、三聞かせてくれ。」

「何でございましょうか。」

 先導しようと背を向けた女中が、こちらへ向き直る。従者らしく腹の前に添えられた手。その中指の付け根に、指輪のように太く赤い線が走っているのが見えた。

「奥方様が倒れられたのはいつだ?」

「十一月八日の夜でございます。」

「最初に気付いたのは?」

「わたくしです。椅子の倒れる音が聞こえましたので、何かあったのかと思い、すぐに駆け付けましたところ、奥様が倒れていらっしゃるのを見つけました。」

「何か気付いたことはなかったか。」

「何か・・・とおっしゃいますと?」

「どんな些細なことでも構わない。奥方様の姿、部屋の様子、普段とほんの少しでも違うところがあれば、思い出してくれ。」

 女中は弱り果てた表情で黙り込んだ。

 見かねたレージェが、

「たとえば――」

 と、助け舟を出そうとしたその時。

「おい、なにを立ち話などしている。」

 吹き抜けとなっている階段の上から、マドラスがしかめ面を覗かせていた。ダークブラウンの髪の中に、こっそりと混ざり始めた白髪が、電灯の光を反射して煌めいた。私服であったが、制服とほぼ変わらないような端正なスーツ姿である。こうしていると、騎士である前に貴族であるという自負がまざまざと見える。

 カイルは、普段からなんとなく感じている気後れが強くなるのを自覚し唾を飲んだ。

「そんなところで呑気にしている暇があったら早く来ないか。」

「申し訳ありません、旦那様! さぁお客様方、どうぞこちらへ―――」

 今度こそはと先導されて、二人は階段を上がった。

 マドラスが腕を組んで、神経質に指先を動かしていた。

「家内はこの中だ。」

「ご様子は如何でしょう。」

「変わりない―――おかしいままだ。」

「そうですか。では早速、お会いさせていただいても?」

 マドラスは黙って扉を開け、室内に入っていった。

 その後をレージェ、カイルが続く。

 電灯が橙色の光を放っている。本来、明るく暖かな色合いであるはずのそれが、仄暗く感じられる。部屋の中心で悠然と座る女性に負け、自ら色を落としたかのようだった。化粧台に備え付けられている奇麗に磨かれた鏡が、男三人の行進を素直に反射した。

「お客様がいらっしゃるとは聞いておりませんわ。」

 女性――ソフィアは、抑揚を欠いた口調で言った。頬が少しこけている他に、さしたる特徴も見当たらない人であった。痩せぎすの体で背筋をぴんと張り座っている姿は、折れてなお雪の上に立っている一枝の糸杉のようであった。黒髪をきっちりと後頭部でひとまとめにしている。薄青の眼光は虚ろに濁りながら、底知れぬ迫力を備えていた。

「当然だ、お前には言っていない。」

 マドラスは平然と言い放ち、半身で振り返った。

「森の魔女殿、これが私の妻だ。」

 レージェが浅く腰を折った。

「お初にお目にかかります。『森の魔女』のレージェと申します。」

 ソフィアは瞳に剣呑な光を宿してレージェを見た。

「森の魔女が、一体何の用で私の屋敷へ来たと言いますの?」

「たいしたことではございません。」

「あら、たいした用が無いのでしたら、早々にお帰りなさい。森に住まう低俗な魔女ごときが、同じ屋根の下にいるなど、考えただけでもおぞましい。」

「申し訳ございません。」

「簡単に言える謝罪の言葉など聞きたくないわ。許してほしいのでしたら、跪いて乞いなさい。難なら、そこの窓から飛び降りて下さっても結構よ。――あぁ、それがいい。それがいいわ。そうしましょう。さ、早く。」

 と、ソフィアは誰もの不意を突いて立ち上がると、するりとマドラスの脇を抜けた。白い指先がレージェの袖口を掴み、窓へ向けて引っ張っていく。

 いち早く正気に戻ったのはカイルだった。

 ――しかし、声を上げる直前、レージェに一瞥されて空気を飲む。

 レージェはことさら焦っていない調子で微笑んでみせた。

「どうかおやめください、奥方様。」

「あなたに拒否権はありませんわ。ここは私の家ですもの。私がすべてよ。」

「ガーディアン様が悲しまれますよ。」

 瞬間、ソフィアの動きが止まった。

 しかしそれは、目の錯覚かと思うほど一瞬のことで、

「生意気ね。魔女ごときに、あの人の何が分かると言うの。もういいわ、あなた、二度と私の前に顔を見せないでちょうだい。」

 言うなり、窓を押し開けて、レージェの背を突き飛ばした。

 カイルは息を呑んだ。

 一連のやり取りはあまりに呆気なく――空中にはためいた黒いジャケットの裾が刹那の内に消える。まるで最初からいなかったかのように、後には何も残らなかった。ただ曖昧な残像だけがカイルの目に焼き付いた。

 カーテンが雪空に翻る。

 一拍おいて、

「おいっ、お前っ! 何をやっているんだ! 人を突き落とすなど―――」

 マドラスが怒鳴りだした。

 カイルは部屋を飛び出して、慌てて階段を駆け下りた。

 騒ぎを聞きつけた女中が真っ青になってやって来る。

「どうかなさいましたか?」

「裏庭へはどこから行ける⁈」

「あちらの扉からです――」

 カイルは一目散に駆け寄って、その扉を開け放った。雪を交えた風が吹き付けてきて、体が火照っていることに気付かされる。裏庭は一面薔薇の木で埋められていたが、そんなものカイルの目には入らなかった。

「レージェ! レージェ⁈ おいっ・・・レージェっ‼」

「―――そんなに何度も呼ばなくとも、」

 がさり、と、薔薇の木を掻き分けて、

「聞こえているよ、カイル。」

 いつもと変わらぬ微笑を浮かべたレージェが無傷で現れる。

 カイルは詰めていた息を吐き出した。

「無事だったか・・・っ。」

「当然だろう。俺を誰だと思っている。」それから、自嘲気味に笑って「森の魔女“ごとき”が、このような場所で死ねるはずがあるまい。」

「二階から飛び降りるなど・・・怖くなかったのか。」

「いや、別に。」

「こっちは怖かった! ――まったく、勘弁してくれよレージェ。心臓が持たん。」

「それは済まなかったな。」

 まったく悪びれていない態度でレージェは肩を竦めた。

「なぜわざわざ落ちたんだ? お前なら振りほどくことも出来ただろうに・・・。」

「ちょっとした確認を兼ねて、だな。」

「確認?」

「あぁ。あともう一つだ。―――なぁ、少しいいか。」

 唐突にレージェが問いかけたのは、カイルの背後で不安そうにこちらを窺っていた女中へだった。

「あっ、はい、何でございましょう。」

「奥方様の部屋にあったあの鏡――新品だったな。いつ取り替えたものだ?」

「つい一昨日のことでございます――あっ、そういえば。」

 と、女中は最初にレージェにされた質問を思い出したらしい。両手を合わせて言った。

「奥様が倒れられた時、その鏡が割れておりました。つい前日までは、罅一つ入っておりませんでしたのに、こう、まるで、蜘蛛の巣のように全面に・・・。」

「そうか。よし―――」

 レージェは満足げに頷くと、カイルに向けて不敵に笑った。

「正体は確定した。今夜中に決着を付けよう。」

「えっ?」

「協力してくれるな、カイル。」

 何が何やらわからぬままに、カイルは「あぁ、うん。」と頷いた。


 八


 その夜。

 マドラスはソフィアを自分の書斎に連れてきた。

「一体、どうされましたの、あなた?」

「部屋の中央に行け。」

「どうしてです?」

「いいから、行け。」

 有無を言わさぬ口調でそう言い切り、顎を動かす。

 ソフィアは怪訝そうにしていたが、やがて指示に従って中央に進み出た。

「―――それで、何がしたいんですの?」

 彼女がそこに立った瞬間。

 キー・・・ン―――と、耳鳴りに似た音がその場にいた全員を襲い、床一面に金色に輝く魔法陣が現れた。

「これは・・・―――」

 魔法陣は二重の円を描いてソフィアを取り囲み、その線上には記号とも文字ともつかない紋様が並び、その更に外側を上下反転させた二つの三角形が取り巻き、六芒星の頂点を通る大きな円が完全にそれらを閉じていた。残った隙間にはびっしりと、唐草紋様(アラベスク)のような文字が詰まっている。力強く辺りを照らした光が、しばらくしてすっかり収まると、上等なカーペットに紋様がそっくりそのまま焼き付いていた。

 ソフィアは、強靭な糸にがんじがらめにされたかのように全身を硬直させ、それきり動けなくなっているようだった。ところが、デスクの裏から出てきたカイルとレージェ――特にレージェの方――を見るなり、激しい怨嗟の声を上げ始めた。

「貴様、森の魔女っ! 私の前には二度と顔を見せるなと言っただろうに、この痴れ者め! その顔、二度と誰の目にも触れなくなるまで、粉々に切り刻んでやろうか! あぁくそ、こんな忌々しい小細工をするなんて、卑怯者が!」

 レージェは涼しい顔で聞き流し、ポケットから薄ピンクの液体が入った小瓶を取り出すと、足元に置いた。

 口の中で、何やらブツブツと唱え続けている。

「その呪文をやめろ! 今すぐやめねば、その喉笛を噛み砕くぞ! いいや、呪ってくれる! この血と髪と両目を以って、貴様など呪い殺してくれる! その呪文をやめろ! あぁ、苦しい、痛い、苦しいっ・・・黙れっ! その呪文をやめろぉっ!」

 ソフィアの声は、幾分か前からしゃがれた男の声になっていた。

 レージェは、我関せずと言わんばかりに悠々と呪文を紡ぎ終え、最後に小瓶の縁を指先で二、三度叩いた。

 直後、ソフィア――の中にいた何か――が、恐ろしい叫び声を上げた。

 それは明らかに人の声では無かった。わざと声帯を擂り潰した狼に無理矢理遠吠えをさせたような、そんな濁声の絶叫だった。

 カイルは瞑りそうになった目をどうにか支え、じっとその様を見ていた。脊椎の辺りからぶわっと恐怖が広がる。鳥肌が密に立った腕を握りしめて、ただ、彼女の苦しみが一瞬でも早く終わることを祈っていた。

 マドラスはほぼ平生と変わらない険しい表情で、一部始終を見据えていた。

 永遠に思えた絶叫は、実際には五秒を数えたほどで、ふと途切れた。ソフィアは不自然に固まった体勢のまま、疲労を滲ませた表情で目を閉じていた。息をしていることだけは遠目にもわかった。

 レージェが真っ黒に染まった小瓶に栓をし、立ち上がった。

「・・・終わったのか?」

 地を這うような声で、マドラスが尋ねた。

 レージェは飄々と答える。

「いいえ、まだです。」

「なんだと?」

「悪魔は奇麗に抜き取りました。けれど、このままでは完全に元通りにはなりません。最後にもう一つ、やらなければならないことがあります。」と、レージェは、懐から古びた短剣を取り出し、「ガーディアン様。これを使って、奥方様の胸の中心を刺してください。」

 これには、マドラスもカイルも絶句した。

 レージェだけが、超然とした態度で続ける。

「申し訳ありませんが、私は結界の中には立ち入れません。入った瞬間、結界はその効力を失い、そうすると、いまだ魔精を体内に残す奥方様がどうなってしまうか、私にも分かりません。入れるのは、ガーディアン様と」――ちらりとそちらを見て――「カイルのみです。」

 乾燥した喉に唾を流して、マドラスはようよう口を開いた。

「貴様、私の妻を殺す気か!」

「ご心配なく。これにはきちんと魔法がかかってありますゆえ、奥方様の命を奪うことは決してありません。これは、聖なるものを傷つけることなく、不浄のものだけを斬り裂くために作られたものです。」

「だっ、だが・・・―――」

「やらなければ、奥方様は今後も冷酷な人間のまま、一生を過ごされることになります。それでもいいのですか?」

「っ・・・。」

 短剣の柄の方を差し出して、レージェが頷いた。

 マドラスは、一度ゆっくりと瞬きをして、腹を括ったらしい。おもむろにそれを手に収めた。

 それから、立ったまま気絶しているソフィアに向き直り、陣の中に足を踏み入れる。

 一歩

 二歩

 三歩―――――そこで、滑り落ちた短剣が絨毯の上で不器用に弾んだ。

 マドラスは立ち竦み、深く俯いている。無理だ、と空気を震わさない声で言い、悄然と首を横に振った。

 カイルは万感の思いでその背中を見詰めていた。

(こう言っては失礼だが・・・ガーディアン様も、やはり人の子なのだなぁ。)

 なんとなく安心するような心持ちになる。

 ところが、同じようにその背をじっと見詰めて、何事か思案していたレージェが、不意に、

「―――ふむ、ガーディアン様に出来ないのならば、仕方がない。」

 不穏な響きを伴ってそう呟いた。

「・・・レージェ?」

「カイル、代わりにやってやれ。」

 淡々と、一瞥すらされずに言われ、カイルは大いに動揺した。

「なっ・・・で、出来るわけがないだろう! ガーディアン様の奥様に刃を突き立てるなど・・・!」

「協力してくれ、と俺が言った時、お前は頷いたな。あれは嘘だったのか?」

「っ・・・。」

 カイルはレージェを睨んだ。

「嘘じゃない・・・嘘ではないが、俺にだって、協力出来ることと出来ないことがある。これは、絶対に協力出来ないことだ!」

「ふぅん、そうか。なら、」

 レージェの、弓張り月のように細まった双眸が、カイルを射竦めた。

「俺の方で勝手にやらせてもらおう。」

「勝手に? レージェ、お前はいったい何を―――」

「安心しろ、そこにお前の意思は無い。」

 と、レージェは、デスクから勝手に万年筆と紙切れを拝借し、そこに何やら――Kyle・Vermeと――書きつけた。それからそれを三つに折り、自分の髪の毛を一本だけ抜いて、きつく巻きつけた。

 紅い目が光る。

「《カイル・ヴェルメ、その名を縛る》」

 冷たい言の葉が夜陰に刻まれた瞬間、カイルは自分の体から自分がいなくなる感覚を味わった。

 それは、重度の立ちくらみによく似た感覚である。手足の先から知覚が消え、一切の音が聞こえなくなる。視界はぐっと縮まり、黒い靄に縁取られる。極端に狭くなった世界には、白やグレーの点が無数に散らばる。どこを見ればいいのやら、と、脳はあっと言う間に混乱に陥って制御不能になる。そして、ふわりと宙に浮いた重心と、不安定に覚束なくなった足元は、高所から落下している真っ最中のように、根源的な恐怖を煽ってくるのだ。

 おぼろげながらも意識が残っているのは、むしろ酷な話であろう。

「《汝の名はこれに在り、我が意のもとに動け》」

 足が動き出す。命令には承諾しか返せない、という原則を叩きこまれているように。

 手が短剣を拾う。鞘から抜く鮮やかな動作は、あらかじめ体に刻み込まれていたものだ。

 腕が必要最低限に振り上げられる。静止している女性の胸を貫くのに、そう距離は要らない。

 ――振り下ろされる。

「やめろ!」

「《止まれ》」

 二つの声が同時に発せられ、短剣が機械のようにぴたりと止まった。

 その刃先の数ミリ向こうにマドラスの背中があった。

 庇うようにソフィアを抱き締めたマドラスが、湿った声で言い募る。

「やめろ、やめてくれ! ソフィアを失うのは、それだけは嫌なんだ! 失うくらいなら戻らなくてもいい! すまなかった、ソフィア・・・! ただ、私の傍で、ずっと、最期まで、生きていてくれるだけで・・・それだけで―――」

 幾ばくも無く嗚咽が勝り、言葉尻が虚空に飲まれる。

 レージェが魔法陣の中に入り、その効力が失われた。ソフィアの拘束が外れ、二人はひと塊になって頽れる。

 今度は別の男が、不自然に硬直して立っている。

 レージェは紙片から髪の毛を切り取って、それを男の胸ポケットに差し込んだ。

「《カイル・ヴェルメ、その名は汝のものにつき、汝だけが保有するものなり》」

「―――っ。」

 名前が返されて、カイルははたと我に返った。視界が徐々に元に戻ってくる。けれど気力は完全に抜け落ちて、カイルは無様に尻を付いた。呆然とレージェを見上げるが、返ってくるのはいつもの微笑のみである。

「さ、これで完全に終了だ。」

 何が何やら分からないでいるカイルの前で、聞いたことのない柔らかな声が、戸惑いを含んで響いた。

「あ、あなた・・・? どうして、泣いてらっしゃいますの・・・?」

「っ・・・ソフィア―――」

 レージェはカイルにそっと目配せをして、音もなく書斎を後にした。


 九


「結論から遡って話そうか。」

 と、レージェは寒空の下、そう切り出した。

 ガーディアン邸の門扉の前である。

 雪はいつの間にか止んでいた。

「奥方様は、雪の女王の支配下にあった。」

「雪の、女王?」

「あぁ。とはいえ、女王と言うのは便宜的な呼称であって、人格は無く、ただのエネルギーの塊なんだがな。冬、雪、氷、転じて時の停滞、合理性などを象徴する、季節を動かす精霊群の一つだ。立冬の夜に南の山頂へ降り立ち、この世に冬をもたらす――そういう役目を負っている。だから、平野部に降りてくることは、まず無い。」

「・・・ならば、なぜ。」

「『立冬の夜には鏡を拭くな』―――迷信じみているからと言って、簡単に切り捨てなどするものではないな。」

 レージェは面白そうに目を細めた。

「立冬の夜は、雪の女王が降り立つ夜だ。鏡は異界に繋がる通路で、それを拭くという行為は、通路を開くということである。通路が開けばそこを通るものがあり、その通り道に迂闊に立っていれば、ひかれても文句は言えまい。」

「―――」

「鏡というものは、総じて、霊的なものやそういう世界と繋がる通路であるとされていてな。東洋の方ではご神体とされる例もあるが、この辺りでは悪魔関連の話の方が多い。なぜかと言うと、鏡とは自分で自分を見る唯一の手法であり、人は鏡を覗く時、同時にそこに希望や絶望、未来への展望、あるいは過去への渇望といった、あらゆる望みを見るものだ。悪魔は、その、鏡に映しこまれた心の揺らぎにつけ込むんだよ。」

「―――」

「今回の件、雪の女王だが、彼女は悪魔ではない。が、鏡と強い関連がある。女性、それもそこそこのお歳の女性が鏡を見る時、そこに映るのは何だと思う?」

「・・・さて。」

「自分の顔だ――盛りを過ぎた、な。昔のように戻りたい、とか、これ以上歳を取りたくない、などと願うかもしれない。すなわち、時の停滞だ。そんなことを思いながら鏡を拭くと、そこに通路が開く。雪の女王はその通路に吸い込まれ、女性の――今回で言うなら、奥方様の、心を通り抜けてこの世に降り立つのだ。」

「―――」

「奥方様の心を介して下界に降り立った雪の女王は、例年通りに役目をこなした。が、如何せん標高が違うのでな。例年以上に効果が出てしまった。結果、十日も早く初雪が観測され、冬眠の支度が済んでいなかった大鼠どもが、水路に大量発生した。」

「―――」

「そして、奥方様の方はというと、雪の女王に触れられ、心が凍り付き、人格が変容。それだけならばあそこまで残酷にはならないものだが、その辺にいた別の悪魔が、ここぞとばかりに取り憑いた所為で、ちょっとややこしいことになった。本来なら春まで待てば自然と治るものなんだが、早急に治す必要が生じてな――」

「・・・それで、あんなことを?」

「あぁ。奥方様はあの状態でもガーディアン様のことを想ってらしたし、あとはガーディアン様が少し素直になるだけで済むと思ったのでね。」と、満足げに微笑して、「これですべては元通りだ。奥方様は今頃、この数日間ずっと悪い夢を見続けていたと思ってらっしゃることだろう。」

「―――」

「ま、凍った心を溶かすのは真実の愛、と、太古の昔からのお約束だからな。」

「なら、壊れた友情を直すのは、どうするのがお約束なんだ?」

 暗い声。

 そこで初めて、レージェはしっかりとカイルを見たのだった。

 カイルは唇を真一文字に引き結んで、不信に瞳を濁らせて、声を荒げた。

「お前は、確かに言っていたよな。ひとの名前を奪っていいように操るのは好きじゃない、悪魔や悪霊のすることだ、と! ならば、なぜやった? なぜ、俺に、俺を使って、ガーディアン様の奥様を――人を、傷付けさせようとした⁈」

 あの時の感覚を思い出すと、カイルは今でも鳥肌が立つ。誰かの意思で自分の体が動くことの、なんと恐ろしいことだろうか。振りかぶった刃の輝きが、マドラスの悲痛な叫びが、脳裏に焼き付いて離れない。そして何より―――信頼していた友人に裏切られたのが、ただひたすらに悲しい。

「ふざけるなよ! ――言い訳があるなら言ってみろ、レージェ!」

 レージェはすべての機能を停止したように口をつぐんでいる。

 重苦しい時がゆっくりと流れて、

 ぽつり、と、

「信頼、していたんだよ。」

 カイルは拳を握り締めて言った。

「森の魔女など、という者もいたが・・・俺は、信頼していたんだ、レージェ。」

「―――」

「・・・それじゃあ。」

 気が付いた時には、カイルは夜に溶けて、いなくなってしまっていた。

 生まれたばかりの小さな月が、雲の切れ間からこちらを覗き見ている。

 嘲笑。

(・・・何もかも、夢だったみたいだな。)

 レージェは白い息を闇夜にこぼして、踵を返した。

 今宵は、一段と冷えている。

(俺は、間違えていたのか・・・? だとしたら、どこから?)


 十


 あれから、一週間が経った。

 カイルは一日の勤めを終え、装備品の点検をしていた。

 胃の辺りがどうにも落ち着かないので、最近はずっとアルコールを摂っていない。摂っていないことがむしろ悪いのかもしれないが、飲みたいと思えないのだからどうしようもなかった。

 何が気に掛かっているかは分かっている。

 すべては、レージェの所為だ。

(・・・いや、所為、というのはおかしいか。)

 要するに、友人と喧嘩した、というだけなのだが、自分は思っている以上に応えているらしい。それも当然のことである。何の気兼ねもなく話せる相手など、レージェを除いて他にいないのだから―――

 カイルは、自分の手が止まっていることに気が付いて、頭を振った。

(しっかりしろ! あんまり気にしたって仕方がないじゃないか! 俺は何も、悪いことなどしていない! ・・・はずだ。)

 作業を再開する。

 ――よくよく考えてみれば、怒りすぎたような気がしなくもない。

 ――けれど、勝手に操られたことには今でも怒りが湧く。

 ――貴重な友人を失うのは惜しい。

 ――が、自分から謝りに行くのは筋が違う気がする。

 ――レージェの方から来てくれればすべて丸く収まる。

 ――とはいえ、あの強情な奴が、果たしてわざわざ謝りに来るだろうか。

 ――そもそも、自分は謝ってほしいのか?

 ――それとも・・・

「~~~メ。おい、ヴェルメ!」

「っ! あ、はいっ! すみません!」

 背後から鋭い声が飛んできて、カイルはびくりと肩を震わせた。再び止まっていた手から点検表が滑り落ちそうになって、寸でのところで持ち直す。

 振り返ると、マドラス・ガーディアンが怪訝そうな顔をして立っていた。

「お前、何を謝っている?」

「あ、いえ、その・・・―――」

「まぁそんなことはどうでもいい。」

 と、マドラスはあっさりと追及をやめ、胸ポケットから一枚の紙切れを取り出してカイルに押し付けた。

「これは・・・?」

「一番街の端にある、クロヌ産ワインの専門店、知っているだろう。そこに注文した物の受取証だ。受け取って、森の魔女のところへ持っていけ。」

「え・・・。」

 森の魔女――その呼称は、カイルが今一番聞きたくないものだった。

 分かりやすく嫌そうな顔をして紙切れに視線を落とすカイル。

 マドラスはニヤリと口を歪めた。

「―――せいぜい、気まずい酒を飲んでくるのだな。」

「えっ?」

「怒鳴るなら時間を選べ。あの夜のお前の声、中まで筒抜けだったぞ。」

「あっ・・・。」

 カイルは顔を真っ赤にして、咄嗟に頭を下げた。

「申し訳ありません、見苦しいところをお見せしました!」

「あぁまったくだ。見苦しいにも程がある。これだから平民上がりは、優雅さに欠けてどうしようもない。」

「―――」

「あの程度で平静を失ってどうする、騎士の恥晒しが。身の程を弁えて振る舞えるよう、もっと精神力を鍛えろ。」

 マドラスは、深く俯いたまま黙っているカイルの頭に向かって、吐き捨てるように言った。

「あの男、森の魔女も、見ていて実に不愉快だった。」

「―――」

「・・・私の青い頃を見ているようでな。」

 カイルは意表を突かれて、ゆっくりと顔を上げた。

 マドラスは、どこかあらぬ方を向いている。

「ああいう傲慢な男は、自分の理想の展開にならねば気が済まないのだ。理想を達成するためなら、何だって利用する。友人だろうが家族だろうが関係なくな。むしろ、下手に気心の知れた奴のことは、何も考えず、馬車馬のように、酷くこき使う。そしてそれを、『自分ならば許してもらえる』と勝手に思い込んでいるのだ。」

「―――」

「百歩譲って、自分が間違っていたことを認めよう。けれど、自ら謝りに行くなどという無様な真似は死んでもしないな。ましてやあの男は魔導師だ。離れたならそれもまた運命、精霊のお導きだ、とでも言って、何もしやしまい。」

 散々な言われようだったが、カイルはなぜか見事なまでに納得してしまい、まったく反論出来なかった。

 脈絡なくマドラスが背を向けて、

「私は別に、」

 と、首だけで振り返った。

「お前らがどうなろうと知ったことではない。が、ソフィア――家内が、やけに気に掛けている。・・・三日以内にそれを届けろ。いいな。」

 言うだけ言い切って、返事を待たずにマドラスは立ち去った。

 カイルは手の中の紙切れを見遣った。

 流麗な字が、最高級の葡萄酒の名を綴っている。知っている名前だが、高級すぎて手を出せず、いつか飲んでみたいものだな、と何度も話していたものだった。

(――――あぁ、一緒に飲みたいなぁ・・・。)

 理由などそれだけで十二分。

 切符のような紙切れを胸ポケットに丁寧にしまい込んで――一週間前から入れっ放しになっている別の紙の縁をなぞり――カイルは、覚悟を決めた。


十一


 あれから、一週間と一日が経った。

 ソファにうつぶせになっていたレージェは、玄関が開いた音を聞きつけ、苛立った仕草で指先を弾いた。

 どこからともなく美しい女性――彼の使い魔――が現れ、恭しく(こうべ)を垂れる。

「お呼びでしょうか、主様。」

「俺は一週間前、お前に何と言った?」

「はい。主様は、お許しになるまで、お客様の一切をお屋敷へ招き入れぬよう、おっしゃられました。」

「ならばなぜ、今、人を入れた。」

「お客様ではございませぬゆえ。」

「客じゃない・・・?」

 レージェは上体を起こして、ソファに座り直した。

「客じゃなければ何なんだ。」

「申し訳ございません。その問いにお答えする術を、わたくしは持ち合わせておりません。」

「一体どういう――」

 いよいよ訳が分からなくなって、声を荒げかけたレージェを制すように、部屋の扉がノックされた。

 レージェは憤然と座ったまま、返事もしなかった。

 しかし、扉は勝手に開かれた。

 入ってきたのは、随分と見慣れた男である。むしろ一週間前に見た時よりも、ガーゼが外れた分、より馴染み深い出で立ちとなっていた。片手にはいつものように葡萄酒の瓶を携えている。何も言わず、彼はローテーブルに瓶を置き、向かいのソファに座った。

 入ってきた方も、迎えた方も、どちらも黙ったままであった。

 やがて――

「・・・お前はもう、二度と来ないと思っていた。」

 レージェが、俯いたまま、誰にともなく呟いた。これは幻覚か、と思ったほど混乱していた。

 幻覚が答えた。

「ガーディアン様にこの間の礼を届けて来い、と命じられてしまってな。仕方がなく、来たんだ。」

「そうか、ご苦労なことだな。」

「まったくだ。」

 そう言ったきり、幻覚は口を閉ざし、じっとレージェを見ているのだった。

 レージェはだんだん落ち着かなくなってきて、そわそわと首の後ろを掻いたり、指を組み合わせたりしていたが、遂に耐え切れなくなって――どうせ幻覚なのだから、と――口を開いた。

「・・・ずっと、どこを間違えたんだろうと考えていたんだが、それがどこなのか、まったく分からなくてな。お前が来るようになったこと自体が間違い――というか、イレギュラーでありエラーで、これで元通りになったのだとも思ったんだが・・・」

 と、曖昧に濁して結論を避け、仕切り直す。

「・・・仕方なし、全部含めて運命なのだと納得した。けれど、酒を飲んでも美味くないし、仕事をする気にもなれないし、精霊の流れもなんだか読みにくいし・・・とにかく、本調子じゃないんだ。」

「―――」

「俺は間違ったことをしたつもりはない。必要不可欠なことを予定通りにやっただけだ。・・・だが、その――」

 レージェは、一段と声量を落として、口の中で言った。

「――少々、配慮が足りなかったことは認める・・・すまなかった。」

 寸の間、緘黙の音が耳を貫いた。

 それから突然、くすりと笑う声が幻覚の方から聞こえて、レージェは顔を上げた。

「一言そう言うのに、随分長い前置きだったな。」

 カイルは、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。

「いいよ、許す。もう気にするな、レージェ。」

 それから、バツの悪そうに髪を掻く。

「というか、その・・・俺も、悪かった。思えば、お前が、必要もなくあんなことをするはずがないじゃないか。だから――一言、謝罪が聞けたら、全部水に流そうと、そう決めて来たんだ。」

「―――」

「次からは、やる前に言っておいてくれよ。こっちにも心の準備と言うものがあってだな――」

「ははっ。」

 レージェは思わず笑っていた。

 カイルが眉をひそめる。

「なんだよ。」

「あぁ、いや、すまん・・・しかしお前、少々優しすぎやしないか? もう少し傲慢であっても、(バチ)は当たらないと思うのだが。」

「なんだそれは。」

 と、カイルが笑う。それから、

「傲慢、か――」

 と、ぽつりと呟いた。

「なぁレージェ。傲慢な態度も、人によってはそれが、自分や、愛する人を守るための鎧だったりするのだな。」

「―――」

「この間のガーディアン様のお姿を思うと、そう感じられて仕方ないんだよ。」

「・・・うん、そうかもしれないな。」

 レージェは同意を返しながら、ひっそりと思った。

(だとしたら、お前は身一つで世間と渡り合っているんだな、カイル――)

 誰もが嘘や建前を振りかざし、傲慢さや鈍感さで身を固めている世の中で、優しさや素直さというものはあまりにも柔らかすぎる。しかし突き詰めた柔らかさは、その性質ゆえに、決して割れず、折れず、生きてゆけるのだろう。その柔軟さが、レージェには――二階から飛び降りて『怖かった』の一言も言えない見栄っ張りな男には――ひどく眩しく見えた。

 レージェは話を逸らすように、唐突なことを言った。

「やはり、俺には王宮など無理だな。人間のあれこれは複雑すぎて、欠伸も出ないよ。魔性のものどもの方が、よっぽど単純で分かりやすい。どうしてもっと分かりやすく、明快に生きられないものか・・・これだから人間なんか。」

「――お前のその物言いも、鎧なんだろうな。」

「・・・ん?」

「本当に人間が嫌だったら、“奇蹟を起こす森の魔女”など、とうの昔に辞めているくせに。」

 レージェは黙り込んだ。

 まったく予想外の指摘だった、と語る間抜け顔に、カイルは笑いかける。

「まぁ、とりあえず飲もうじゃないか、レージェ。前々からずっと飲みたいと言っていたこれを、ガーディアン様がくださったんだ。俺もこの間から、まったく美味い酒を飲んでいないから、本当に楽しみにしていたんだよ。」

「・・・そうか。では、早速――」

 レージェは普段と同じ微笑を浮かべて、指先を弾いた。


 グラスの縁が立てた小さな音も、二人がいつものように談笑する声も、しんと降り積もった雪に吸い込まれて、夜空には心地よい静寂のみが残るのだった。



おしまい     




一昨年の大学祭に出品したものであり、『霊の軍隊と盲目の騎士』の続編(っぽいもの)でもあります。よろしければこちらの方もご覧ください。

感想アドバイス等、ぜひお寄せ下さい。


ありがとうございました。




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