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前編

 

 彼女の夫は、どうしようもなく傲慢な人物であった。

 出会った当初からそうであったが、それを補って余りあるほどの愛情をくれた。だから彼女は、迷わず一緒になることを受け入れたのだ。

 鏡の中で、乾いた肌の女が、乾いた微笑を浮かべている。

 ――あの人は傲慢だ。

 ――けれど、真摯で、誠実で、私以外の誰にも目をくれなかった。

 ――たとえ私に不満があったとしても、浮気や不義など、あの人の矜恃が許すはずない。

 ――そんなことをする前に、面と向かって私におっしゃるはずだわ。

 ――お互いを信頼して、このままゆっくり歳を取れば、それでいいの。

 ――あの人は私を捨てたりなんかしない。

 ――私はあの人の半歩後ろを付いていけばいいの。

 ――そうよ、それでいいのよ。

 左の薬指を飾る、シンプルな銀の指輪を撫でる。宝石は付いていない。この指輪をくれた時、あの人は確かにこう言ったのだ。

『指輪を飾るのは宝石じゃない。何かは鏡でも見て察しろ。』

 照れているのを隠すように、普段よりずっと早口だった。その時のことを思い出して、彼女はくすりと笑う。

 ――意外と、ロマンチストなのよね、あの人は。

 しかし、笑顔が輝いたのは一瞬のことだった。

 ――・・・私は年老いた。

 ――あの人が、昔ほど私に優しくないのも、当然のことだわ。

 ――あの人が悪いんじゃないの、あの人の愛を感じられなくなった、私が悪いの。

 ――そう、だから・・・。

 ――・・・だから、私は・・・。

 ここ最近、毎晩ずっと同じことを考えている。取り留めも無く、結論も出せず、最後は溜め息でいたずらに鏡を曇らせる。そして、これは溜め息ではなく、お掃除のためにわざとそうしたのだ、と言い聞かせるのだ。

 濁った鏡を適当な布で拭う。

 白い霞が奇麗に消えて、先程までと変わらぬ場所に女が映った。

 けれど、それは、彼女でない。

 鏡の中で、艶のある肌の女が、氷のような視線でこちらを見ている。

「っ・・・!」

 背筋に寒気が走り、彼女は勢い立ち上がった。その拍子に椅子が倒れる。

 瞬間、鏡に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、逃げ出そうとした彼女の瞳から光を奪った。


 一


 中央(セントラル)――我々にとっては、欧州(ヨーロッパ)と呼ばれる場所によく似た地域――の、真ん中やや西寄りに、その王国はある。

 さして大きくない、ごく普通の王国である。領土全体は楕円形をしているが、北を森、南を鉱山に挟まれ、平野部は数字の八を横にしたような形をしている。そして、くびれの中心に王都が位置する。

 特徴を挙げるならば――葡萄酒(ワイン)が美味であること。国営騎士団と民営兵団と言う二つの組織が存在すること。地下に、水路と称した抜け道が縦横無尽に通っていること。――それくらいだろうか。

 ここの葡萄酒は本当に美味い。

 噂では、神様や魔女ですらこの味に魅了され、大量に買い込んでいるとか・・・。

 ・・・あぁ、失礼。最大の特徴があったのをとんと失念していた。

 先程、北側に森がある、と述べた。それは中央(セントラル)の中でも最大級の森で、奥へ行けば行くほど暗くなり、月も太陽も地を踏むこと叶わなくなる。誰も好んでは近寄らない最奥部には、冥界へ続く道があると専らの噂だが、何せそこまで行って帰ってきた者がいないため、真偽のほどは定かでない。

 森は、王の居城からほど近くに入り口を開いている。

 道中、中へ踏み込んで幾分も行かぬところに、よくよく見ていなければ呆気なく見落とすような細い横道がある。

 逃さずそこを進んだ者は、やがて小さな洋館に辿り着くだろう。

 それは、『森の魔女』なる人物が住まう館である。

 森の魔物たちはすべて魔女の支配下にあると言われ、恐れを以て敬遠されているのは確かであるが、かの人はお伽話に代表される、人間を喰らうような悪いものではない。何か人智を超えた困り事が生じて、人々がその名を口にする時、そこには畏怖の念と同時に安堵に似たものが含まれる。

 瞬く間に、無償で、すべてを解決してくれる、優しい魔女が味方だ、と。

 その存在こそ、王国最大の特徴であり、正式名称を持たない北の森が『奇蹟の森』と呼ばれる所以なのである。


 二


 さて、うっすらと雪の衣を纏った噂の洋館に、今日も二人の男がいた。

「・・・どうしたんだ、その顔は。」

 開口一番にそう言ったのは、レージェと名乗る館の主である。

 この男は、秋風のような飄々とした佇まいと、新雪のように真っ白ながら若々しい顔をした、美しい男であった。少々長い艶やかな髪は黒猫を彷彿とさせ、いっそ不吉なまでである。最も異彩を放っているのは、その両の眼睛であった――それらはおよそ人間離れした、しかし見事なまでの深紅に染まっている。

 その彼を訪ねて細雪の中、酒瓶を片手にやって来たのは、カイル・ヴェルメという、国営騎士団の青年である。短い栗毛は駿馬を連想させる。暖炉の暖かさに緩んだ目は、レージェと対照的な瑠璃色だ。顔立ちは端整ではないが、精悍で、真面目な気性をそのまま表す良い面構えをしている―――はずなのだが。

 今はそれがほぼ分からなくなっていた。

 というのも、顔の左半分が、顎の先から額にまでかけて、真っ白いガーゼで覆われていたからである。

 カイルは相当腕の良い剣士だ。彼がこんな派手な怪我をすることなど滅多にない。

 レージェは心底驚いていたのだが、まったくそうと思わせない顔付きで言うのだった。

「民兵と喧嘩でもしたか?」

「まさか。民兵と本気でぶつかったら、この程度で済むはずがないだろう。」

「それもそうか。」

 レージェは苦笑した。民営兵団と国営騎士団の仲の悪さは折り紙つきである。

「では、一体どうしたって言うんだ?」

 カイルは向かい合って座ると、少し恥ずかしげに語り出した。

「実は昨日の夜、地下水路で大量の害獣(モンスター)が発生してな。その討伐に行ったんだ―――」


 三


 昨日の夕方。

 例年より早い初雪が観測され、宮廷魔導師や天文学者やらが駆け回っている。

 その雰囲気に触発されたのか、騎士団もなんとなく浮き足立っているように見えた。

 そこへ唐突に、血相を変えた民間人が数名、駆け込んできたのである。

「モ、モンスターがっ・・・モンスターが、水路から、たくさん・・・っ!」

 最初に報告を受けたのは別の人物が指揮する隊だったのだが、その時ちょうど居合わせたがために、カイルの率いる小隊も討伐に参加することとなった。

 さて、害獣討伐。

 それ自体は何ら重荷ではない。水路から大挙して現れる害獣と言えば、大鼠か大蝙蝠の他にないし、奴らならば大した脅威になり得ないからだ。

 しかし、現場に着くや否や、その場で最も高位の指揮官――二番大隊隊長、マドラス・ガーディアン――が、カイルの名を呼び、高圧的に言い放ったのである。

「カイル・ヴェルメ。」

「はいっ、お呼びでしょうか。」

「貴様に先陣を切る誉れをくれてやろう。何、貴様なら、ここで朽ち果てても惜しむらくはない。いけ。」

 言外に、『むしろ果ててくれた方が有り難い。』と含まれている命令だった。

 国営騎士団は、その性質――国立の騎士養成学校に入る必要があり、それにかかる費用が莫大であること、など、他にもいくつもの障害がある――ゆえに、ほとんどが貴族の末弟によって構成される。

 だが、カイルは商家の出であった。

 国内随一のワイナリーを経営する、由緒正しき大商家といえども、平民は平民である。その身分は圧倒的に低い。

 というのに、剣の腕はやたらと立つ。その上、騎士団団長にも気に入られている。結果、貴族の末弟どもを押しのけて、早々と小隊長の座に就いてしまった。だから、余計に目立つ羽目となり―――このような、誰かがやらねばならないが誰もがやりたがらない役目を、優先的に背負わされてしまうのである。

 上官にとっては、後先を考えず死地へと送り込める、ある種最高に使い勝手の良い人材とも言える。

 それをすっかり理解しているカイルは、

「承知いたしました。」

 と、即座に頷いて、先陣を切って群れに飛び込んだのであった。

 薄暮に染まる街での数時間の戦闘。

 頬や肩口を引っ掻かれた程度で済んだのは、ひとえに彼の実力が人並み外れたものだったことと、彼の部下たちが必死にフォローしたおかげなのであった。


 四


 カイルは葡萄酒のラベルを撫でながら、さして気にした風もなく言った。

「で、真っ正面からぶつかった結果が、これだ。まったく、不覚を取ったよ。」

「災難だったな。しかし、その上官、まるでお前を捨て駒扱いだな。」

「仕方ないさ、もう慣れたよ。その、第二大隊の隊長を務められているガーディアン様は、俺の直接の上官ではないのだが、時折ともに動くことがあるのだよ。その都度、何か厄介な事があると、必ず俺を呼ぶんだ。」

「ふぅん。」

「俺は、期待の裏返しだと勝手に思い込むことにしている。」

「ふふん、実にお前らしい対処だな。」

 鼻で笑ったレージェを、カイルは軽く睨んだ。

「褒められていると思っておくぞ。――それが、昨晩はな。どうにも、こう・・・いつもより厳しいというか・・・いや、もともと、少々居丈高な言動をなさるお方なのだが、昨晩は輪をかけて・・・荒れていたような気がしたな。」

「ほう・・・まぁ、そいつにも色々とあるのだろう。さっさと飲んで忘れてしまえ。」

「あぁ、そのつもりで来た。」

「そうか。では、早速――」

 微笑んだレージェが軽く指先を弾く。

 すると、ローテーブルの上に金色の光が散らばって、どこからともなくワイングラスが現れた。

 一年ほど前に仕事を通して知り合い、以来、無二の酒飲み友達となっている二人にとって、この程度の“不思議”はもはや当然のことである。

 当初は驚いていたカイルも今では馴染んだもので、気にも留めずに葡萄酒を注いだ。

 格調高い香りがふわりと立ち上る。

 二人は小さくグラスを打ち鳴らすと、しばらくの間は、酒の味だけを堪能していた。

 不意に、

「ふむ・・・」

 レージェが言った。

「しかし、お前でそれとなると、やはり俺など王宮へは入らない方が良いな。」

「何故だ? お前ほど優秀な魔導師、他にはいないだろう。」

 魔導師、という職業は、世間一般にも認められている立派な職の一つである。とはいえ、その名の高さを利用した似非魔導師は数多くいる。実際に、誰の目から見ても『立派だ』と言われるには、王宮専属の魔導師となるしかないのだが、その関門は容易にくぐれるものではない。

 ところが、このレージェという男、王宮に属さぬくせに異常な質の高さを誇っている。それは、王宮から度々スカウトが来るほどであるのだが、レージェは一貫して断り続けているのだった。

 彼はグラスを傾けて、平然と言った。

「ならば余計に、だ。俺は、商家どころか、どこの馬の骨とも知れぬ男だぞ。王宮になど入ってみろ。どう考えても、目も当てられないことになる。」

 カイルは沈鬱な顔になった。

「そうだな、それはもう、辛い目に遭うだろうな・・・。」

 きっと俺などとは比べ物にならないほど厳しい仕打ちに―――と、想像するカイルに、レージェはしれっと言ってのけた。

「あぁ、王宮が、な。」

「え? ・・・王宮が?」

「俺はお前ほど器が広くないのでね。敵意を抱かれるくらいならまだしも、それを露わにされたら、仕返さずに黙っておくなど不可能だ。」

 本気でやりかねない口調に、カイルは苦笑した。

 レージェは空になったグラスを手酌で満たしながら、「何せ俺は魔導師だからな。フルネーム一つ、血の一滴、或いは髪の毛の一本でもあれば、生かすも殺すも思い通りなのさ。」

「そんなことが出来るのか?」

「やろうと思えば。魔導学を真剣に学べば、誰にだって出来ることだよ。」

「・・・魔導学とは、恐ろしい学問だな。」

 カイルは引き攣った顔でグラスを傾け、喉を湿らせた。

 レージェがカイルを見遣って微笑む。

「いや、脅すように言っておいて何だが、そう恐ろしいものではないぞ。魔導学など、突き詰めて考えれば、ただ精霊の動きを見るだけのものだ。」

「精霊の・・・?」

「ああ。」

 と、レージェは足を組み替えた。

「いいか。この世のものはすべて精霊で満たされている。葡萄酒も、空気も、暖炉の火も、椅子も――そして、俺たちの体も。」

「ふむ。」

「魔導学では、その精霊たちがどう動くのかを見定めることに重きを置く。星がどの位置に来るとどう動くのか、月がどれぐらい欠けるとどう動くのか、雨がどれだけ降ればどう動くのか、反対に、雨がどれほど降らないでいると、どう動くのか―――」

「うん。」

「精霊たちは勝手に動いていく。そこに人間の意志は関係ないし、その動きを人為的に変えることは出来ない。精霊とは自然であり、必然であり、偶然であり、運命のようなものだ。俺たち魔導師は、本来どう頑張っても見えないはずのそれを、感じ取れるようにならなくてはいけない。そのために、魔導学がある。」

「うん。」

「精霊は見えなくとも、星の位置ならお前にだって見えるだろう。」

「あぁ、見えるな。」

「月の満ち欠けも見える。」

「うん。」

「ならば、精霊の位置を割り出すことも出来るだろうと、そういうことだ。」

「・・・うん?」

「魔導学とは、目に見えない精霊を見えるようにするためのものではない。精霊が動いた結果どのような事象が起こるのか、を学ぶものだ。つまり、天文学やら生物学やら、地質学やら民俗学やら、ありとあらゆる様々な物事を総合的に学んでいくのだよ。『立冬の夜には鏡を拭くな』などと言った迷信じみた言葉や、『南の鉱山には悪魔が住んでいる』みたいな伝承も、当然研究対象になる。そういう、世界に存在するすべてのものから、逆説的に精霊の動きを感知していくのだよ。」

「ほお。」

「精霊の動きは一定の流れとなって世の中を包んでいる。星の位置から、現在の精霊の位置を掴み、未来の流れを推測する――それを応用したのが占星術だ。」

「へぇ。」

「そして、一度精霊の流れを掴んでしまえば、それを利用することが出来る。俺がワイングラスを一歩も動かずに取り出せるのは、空気の中の精霊の流れと、グラスの中の精霊の流れが、一致する瞬間を理解しているからだ。まぁ、グラスやら空気やらは、流れが単純で読みやすい上に、内から外、外から内へと、精霊が絶えず入れ替わっているからそんなことが出来るわけであって、これが人間となるとそうはいかない。」

「ふむ。」

「人間の中の精霊は、世界とは別に、複雑に動き回っているから、まず読めない。そして、怪我とか病気でもしない限り、精霊が大量に体外へ出てくることはない。だから人間の性格というものは、そう簡単には変わらないのだよ。」

「ふぅん。」

「さて、それで、どうやって魔導学で人を殺すのか、だが―――」

「どうするんだ?」

「簡単だ。体内の精霊を勝手に解き放ってしまえばいい。」

 あっさりと答えて、レージェはグラスを呷った。

「本来、精霊とは世の中を循環するものであって、人間などという小さな器に収まっていられるほど大人しくはない。歳を取って精霊を留め置く力が弱くなると、身体が衰弱し、記憶が混濁し、やがてすべてが抜け落ち死に至る。それがすなわち寿命というものだ。」

「なるほど。」

「その、体内に精霊を留め置く力、というのを持つのが、名前なんだ。唯一、名前だけが、世界と己との境界線をはっきりと示している。だから、名前を奪って強制的に精霊の拘束力を弱めてしまえば、殺すことが出来るのだよ。要するに、勝手に寿命を縮めさせる、ということだな。まぁ、ただでさえ、精霊たちは外に出たがっているんだ。解放するのは楽なものだよ。」

「へぇ・・・。」

「そして、やりようによっては操り人形にすることも可能だ。」

「操り人形?」

「あぁ。」

 レージェは、話に夢中で空になったことに気付いていないカイルのグラスに、葡萄酒を注いでやりながら続けた。

「さっき、世の中の精霊の流れは変えようがない、と言ったな。」

「ああ。言ったな。」

「しかし、人間に限っては違う。言っただろう。人間が保有する精霊は、世界の理とは違った独立した流れを持っている、と。」

 もちろん、多少なりと世界からの影響は受けているが――と補足をいれて、

「独立しているからこそ読みにくく――だからこそ操れる。」

 と、レージェは言った。

 カイルは困惑して、グラスに口を付けたまま首を傾げた。

「世界と比べて人間はあまりにも小さい。すなわち精霊の流れも、比べてしまえばささやかなものだ。名を奪い、拘束を緩め、そこに言葉や何かを通して別の精霊をぶつけてやれば、簡単に動かせる。」

「へぇ・・・レージェも、そういうことをやったりするのか?」

 なんとなく不安を覚え、カイルは尋ねた。

 レージェはちらりと彼の方を見遣った。

「必要とあれば、な。好き好んではしないよ。大体これは、悪魔や悪霊が好む手だ。俺は好きじゃない。」

「ふぅん・・・正直よく分からなかったが、お前が好まないなら、それでいいや。」

 レージェは微笑して、「それでいい。」と呟いた。


 酒もだいぶ進み、夜も深くなってきた頃だった。

 レージェがふと顎を上げた。

「やあ、客人が来たようだ。」

「ん、それじゃあ、俺はそろそろ帰ろうか。」

「いや、構わん。先客はお前だ。遠慮することはない。」

「そうか? なら――」

 と、カイルが浮かせかけた腰を再び落ち着けたその時、扉がノックされた。

(あるじ)様、お客様です。」

「お通ししろ。」

 レージェが言うなり、扉が開き――現れた壮年の男を見て、カイルは表情を凍り付かせ、飛び上がった。

「ガーディアン様・・・っ!」

「む、カイル・ヴェルメ・・・? 貴様、何故ここにいる。」

 何故、と問うておきながら、その人物――マドラス・ガーディアンは、答えを一秒たりとも待たなかった。

「そういえば、『森の魔女』と懇意にしていると誰かから聞いたな。大層熱心に通いつめているようではないか。ふん、何をやっているかは知らんが――」

「おや、酒好きの男同士が集まって、“乾杯”以外に何をしましょう?」

 レージェが平然と水を差した。

 マドラスは、そこで初めて気付いたというように、座ったままグラスを揺らしている大層不敬な男を一瞥した。

「貴様は何だ。」

「申し遅れました。『森の魔女』のレージェと言います。以後、お見知りおきを。」

「・・・貴様はどう見ても男ではないか。」

「ええ。ご覧の通り、男ですよ。それが何か。」

 絶句したマドラスにいつも通りの微笑を向けて、レージェは言った。

「『森の魔女』とは種族名であり、職業名であり、人々の噂が作り出した単なる通り名ですので。魔女だから女、だとは限りません。――さ、どうぞ、おかけください。ご用件を承りましょう。」

 マドラスは狐につままれたような表情になった。どことなく落ち着かない様子で、指し示された一人用のソファに腰掛ける。

「あ、では、俺は―――」

 慌てて退出しようとしたカイル。

 しかし、レージェが引き留めた。

「ガーディアン様、でよろしいでしょうか。」

「いかにも。」

「カイル・ヴェルメは私の友人にして、優秀な助手です。同席をお許しいただけますか。」

 マドラスはじろりとカイルを睥睨した。

 カイルは逃げ出したいのを堪えて、直立不動の構えを保っていた。

 やがて、

「・・・良いだろう。ただし、ここで聞いたこと、他に漏らせばただではおかないぞ。」

「承知しております。ご心配なく。」

 なぜお前が答えるんだレージェ、とカイルは思ったが、何も言わなかった。

 目線で座れと言われて、元通り腰を下ろす。

「さて、それでは、お話を伺いましょう。如何なさいましたか。」

 マドラスは少し口ごもり、言いにくそうにしていたが、ややあって話し始めた。

「私の妻のことだ。あれの様子が、一昨日からおかしいのだ。そもそもの事の始まりは――立冬の翌日だから――五日前からであったと思う・・・。」


 五


 マドラス・ガーディアンの隊は、今週が夜警の担当であった。

 なので、彼が家に帰るのは、常に翌日の朝であった。

 いつも通りに務めを終えて、帰宅した彼を迎えたのは、ひどく慌てた様子の女中だった。

「どうした。」

 彼が尋ねると、全身をびくりと震わせて、

「あっ、お、お帰りなさいませ、旦那様。あ、あの・・・」

 と、言葉をまごつかせる。

 その様子に苛立ちを覚えると同時に、不審に思ったマドラスは、

「はっきりと喋れ。でないと首にするぞ。」

 語気を強めて問い詰めた。

 女中は怯えに目を潤ませ、それでも気丈に報告した。

「奥様・・・ソフィア様が、昨晩、倒れられました。」

「・・・なんだって?」

「現在は、高熱を出されて床に臥せっていらっしゃいます。」

「医者は! 医者は呼んだのかっ⁈」

「も、もちろんでございます。ですが、その・・・。」

「なんだ!」

「原因は、分からない、と、おっしゃられて・・・。」

 使えない医者だ。

 マドラスは舌打ちをして、妻のもとへ急いだ。

 妻のソフィアは、報告の通り、ベッドの中で目を閉じていた。

 もともと色白で痩せ型の顔が、すっかり色を失い、さらに痩せこけたように見えた。

 熱に侵されているというのに、奇妙なほど安らかな寝息であった。

 額に手をやると、確かに熱を感じる。

 しかし、力なく投げ出された手を取ると、それは恐ろしいほど冷たいのである。熱がない、を通り越して、氷になってしまったようだった。

「おい。」

「はい、如何致しましたか。」

「常にこれの傍に誰か置いておけ。」

「かしこまりました。」

 女中にそれだけを言い捨て、マドラスは妻から離れた。医療は門外漢であるし、あまり苦しんでいる様子もない。

 その内、何事もなかったように目覚めるだろう。

 そう思ったのだ。

 しかし、彼女はその後もずっと、眠ったままだった。

 どこの医者を呼んできても、原因は不明なまま。藁にも縋る思いで、知り合いの宮廷魔導師も呼びつけてみたが、異常は見当たらないと言う。

 気分の落ち着かないままに、夜勤をこなす日々が、三日ほど続いた。

 そして、十一日の朝である。

「だ、旦那様っ!」

 帰宅した彼を、再び――前とは比べ物にならないほど慌てふためいた女中が出迎えた。

「どうした、見苦しい。」

「し、失礼いたしました。それで、その・・・奥様が・・・」

「あれに何かあったのか⁈」

「いえ、あ、その・・・なんと申し上げればよいものか・・・―――」

「物ははっきりと喋れ!」

「・・・奥様におかれましては、今朝早くに、目を覚まされました――」

「そうか!」

 と、不覚にも顔をほころばせそうになったマドラスに対し、女中の表情は優れないままである。

「――ですが、その・・・どこか、おかしい、のです。」

「おかしい、だと?」

「無礼を承知で申し上げます・・・ソフィア様ですが、以前の奥様とは、まったくの別人のようになっていらっしゃいまして・・・。」

「どういうことだ? 一体お前は何を言って――」

 と、問い詰めようとした矢先。

 別の女中の悲鳴が邸内から響き渡った。

 マドラスはすぐさま駆け付けた。

 そこでは、

「っ・・・なっ、何をやっているんだ!」

「あら、あなた。お帰りでしたのね。」

 妻がナイフを片手に、女中に馬乗りになっていた。

 憎悪以外の感情をすべて削り取ってしまったような声が、淡々と空気に刻まれる。

「何を、って、見ればお分かりでしょう? この子の顔、少し歪んでいるの。直して差し上げようと思って。」

「おやめください! どうか、どうかお許しください、奥様!」

「あら、あなたは何か悪いことをなさったの? 私に許しを請わねばならないような、そんなことを。――あぁ、分かったわ、だから顔が歪んでしまったのね。でしたら尚更、直してあげなくてはなりませんわねぇ。」

 異様な光景に呑まれて思考が真っ白になっていたマドラスだったが、妻の手が本当に振り下ろされると察知すると、咄嗟に飛び付いた。

「やめろ! どうしてしまったんだお前は!」

 ソフィアは無表情のまま、ことんと首を傾げた。

「どうして止めますの。正しいのは私ですのに。」

 マドラスは唖然とした。

 背後に座り込んだ女中の、すすり泣く声だけが、いやに大きく聞こえた。


 六


「それからも、女中どもが何かするたびに、指を切り落とせだの、階段から落ちてみろだの、命じては本当に実行させようとするのだ。――気が触れたとしか思えん。」

「なるほど。話は分かりました。」

「それで、仕方なしにここへ来たのだ。もしこの件に異形のものが関わっているのであれば、早急に取り祓え。出来ぬとは言わせんぞ。」

「かしこまりました。では、早速、明日にでもそちらへ伺いましょう。何をするにも、まずは奥方様にお会いしてからでなくては、手の施しようがございませんので。」

「ふん、よかろう。」

 それから、マドラスは嫌そうに、じろりとカイルを睨んだ。

「貴様も来るつもりか。」

「いえ、あの、私は―――」

「えぇ、連れていくつもりです。」

 レージェは有無を言わせぬ調子で言い切った。

「なぜだ。」

「場合によっては、奥方様を元に戻すのに、必要になるやもしれませぬゆえ――」

 目を伏せて、あくまで譲らぬと言いたげな態度で断じたレージェに、マドラスはしばし口を閉ざしていたが、やがて

「・・・何かあったら、騎士団から追放する。」

「―――」

「以上だ。失礼する。」

 あまりにも婉曲的すぎる了承を吐き捨て、あっと言う間に立ち去っていった。

 存在感がそうさせていたのか、彼一人がいなくなっただけで、部屋が随分と広くなったようだった。心なしか、暖炉の火も、忘れていた燃え方を思い出したようである。

「いやはや、お忙しい御仁だ―――」

 レージェは欠伸を噛み殺したような顔でそう言って、グラスを空にした。

 状況の所為か、傷が痛むのか、おそらくはその両方の所為で顔を引き攣らせたカイルが、身を乗り出して、「お、おい、レージェ―――」

「どうした、カイル。」

「なぜ、俺まで一緒に行くことになっている?」

「お前の力が必要になるかもしれない、と言ったじゃないか。」

「お前ひとりではダメなのか?」

「さて―――」

「お前はもう、ガーディアン様の奥様に何があったのか、分かっているのか?」

 レージェはソファの背に肘をつき、軽く目を閉じた。

「なんとなく、な。」

「では―――」

「しかし、会ってみないことには確定は出来ん。」

「そ、そうか。」

「付いてくれば、おのずと分かるよ。どうする?」

「どうする、とは?」

「来るのか、来ないのか。」

「俺が必要なんだろう?」

「さぁな、それはまだ分からん。必要かもしれないし、必要ないかもしれない―――」

「―――」

「来ないなら来ないで、その時は他のやり方を考えるだけさ。だから、お前がどうしても行きたくないというのであれば、無理強いはせんよ。」

「むう・・・。」

「どうする。」

 紅い目が瞬いて、カイルをじっと見詰めた。

 レージェの尋ね方は、選択肢を与えているようで奪っているものだ、とカイルには思えてならない。

 それで結局、首肯した。

「分かった、行こう。」

「うん、行こう。」



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