走馬灯
小学生の頃、クラスで理科の授業の一環としてアゲハ蝶を幼虫から飼っていた。
幼虫から蛹そして成虫になるまでの変化を観察することが、確か学習の目的とされていた。クラスメイトが変わる変わる餌を与え、幼虫は順調に蛹となりあとは羽化するだけというところまで育てていた。
しかし、蝶は羽化することはなかった。ある日、クラスメイトの一人が蝶を入れていた箱を見ると前の日までは箱の側面にくっついていたさなぎが箱の中に落ちていたらしい。
それを発見した子は死んでいるという事を理解していたわけではないが、何か不味いかもしれないと思ったらしく先生のもとにその箱をもっていったそうだ。
そして、そのことを彼女が先生にいうとさなぎは死んでしまっているという事だった。
その話を聞いたクラスメイトは皆どこか浮かない顔をしていた。最初に死んでいるところを見つけたクラスメイトは、今にも泣き出しそうだった。それはそうだ、折角育てていたのだ。彼女が殺したわけではないが、小学生というのは誰かのせいにしがちである。だから、彼女が皆から非難されることを予想して泣きそうになるのもわからないこともなかったし、皆が折角育てた生き物が死んでしまい浮かない表情になるもの理解できた。
けれど、僕は一人だけ皆のように悲しむことをしていなかった。
僕は知っていたのだ。蛹が死んでしまった原因を。
そして、そのことを知っていながら僕は知らないふりをした。本当なら、その原因となる事象―――風に煽られて箱が落ちてしまうというころが起きた時にすぐに先生のところに行くべきだったのだろうが、僕はそれをしなかった。
別に批判されるとか思ったわけではないし、第一発見者の彼女とは違い僕はその事象が起きてすぐにさなぎが死んでしまったことも理解していた。なのに、僕は先生のもとも行かなかったし、落ちた箱を元の位置に戻して知らなかったふりをすることにしたのだ。
何故そんなことをしたのかと尋ねられたら、僕はただ関心がなかった、とだけ言うのだろう。それに対して興味を僕は持っていなかった。だからそれがどうなったとしても僕にとってはどうでもいいことだったのだ。
そして、最後まで僕がその事象をしっていることが露見することはなく、さなぎが死んだことは皆の記憶から風化していった。
そして、今高校生となった僕はふとさなぎが死んだ出来事を思い出していた。
あの時、僕はなぜさなぎの死に興味を抱けなかったのかを僕は今さらながら理解していた。
僕はさなぎだから関心を抱けず、死んでも気にならなかったというわけではなかったようだ。僕は全ての生物に対して平等に興味がなく、死んでもどうでもよかったらしい。
それは、自分を含めた人間に対しても。
薄れゆく意識の中で思う事としては最悪かもしれないが、最後に自分という人間を理解して死ねることは、僕という人間の最後としては最高なのかもしれない。
もっとも、死ぬというのにこんな事を思う僕は一般的には寂しい人間だったかもしれない。
ちょっとすれた少年の死に際の話です。
特に内容に意味はないです。
本当適当な話をすみません。