第二部 下降する現在 第四章 無意味な言葉
No.52
うつ伏せで寝る。背中が上を向く。正面は下を向いている。私は上と下に挟まれている。私には何時でも、どんな事でも、背中から入って来る事になっている。胸は圧迫され、首は不自然に曲がる。私の足を何かが力強く掴み、私に同意を求める。
天井に、巨大な草鞋虫が掴まっている。子供の腕ほどある、無数の節足を使って、天井を支えている。特徴的な鋸の様な背中、太い触角が九十度に曲がっている。その触覚が、辺りを感じ取る。
巨大な目と知性
巨大な穴と友人
巨大な渦巻きと時の流れ
押さえつけ、奪われる、数々のもの
流れ出し、与え続ける、一つのもの
無数の目と精神
無数の穴と私
無数の渦と愉快な笑い
高所にある、大きな鏡
存在を映し出す、大きな鏡
私は、背中に何かが落ちてきた事を悟る。私はそれを見たくもないし、知りたくも無い。体は体で重たくなればいい。何かは何かで、動いていればいいだけの事だ。天井など支えなくてもいい。
天井で、話をしている。様々な人々、様々な性格とか年齢。それぞれの立場で声を出す。それぞれの見識で、言葉を組み立てる、そして何時も同じ形を示す。それぞれに、同じ形に成りたがる。
お前は外れているだろう?
お前は賢いだろう?
永遠は私たちに語り続けるだろう。
瞬間はお前たちにあるだろう?
私たちとお前たちは、絶対に違うだろう。
子供の声、過去からの声。
私を揺さぶる声。
昔からの知り合いだ、そうだ。
楽しい思い出、とかの、
話を、延々と、したい、らしい。
存在は一つの形であるだろう。意識とは、別々の違った形であるだろう。私は、存在に属しながら、意識を持つ。意識は個別の存在に対するように係る。知らない人間に声を掛けられ、見知らぬものに圧迫される。
ある晴れた日、大学の川沿いを歩いている。彼の顔は、少し赤くなっている。堤防の上から川を見ている。川には大きな淡水魚が泳いでいる。群れを成し、固まって泳いでいる。良く晴れた日で、日差しが強い。
建物に入る。冷房が良く効いている。穏やかな空気が流れている。彼は椅子に座って、じっとしていた。昼過ぎの時間帯。彼は場違いな、雰囲気を出していた。目は据わっており、穏やかでは無い。
無数の手、何でも掴んでしまう手。大きな手、小さな手、太い腕、細い腕、力強く握りつぶす為にある手。武器を持つ手。攻撃する手。手は思考しない。互いに求めている様に動き、うねり、傷つけ合い、壊し合う。
一つの言葉を語る時、
無数の何かが、殺される。
一つの物を作る時、
無数の何かが、捨てられる。
一つの力を発揮する時、
それは、どうでもいいことだ。
それは、あたりまえのことだ。
それは、当然のことだ。
それは、どうしようもないことだ。
それは、むしろ、良いことだ。
彼は隣で眠っている、彼女の手を握る。彼女は仰向けで眠っている。彼は壁の方を見ている。壁の向こうは、廊下があり、空気があり、雨があり、世界がある。彼は手を離し、枕を、自分の頭の上に載せる。
俺は間違っているのだろうか? しかし、人間は間違ったまま、存在する事は出来ない。もともと、正解はないであろう。色々と問題はあるだろう。解決とか、あるだろう。まさか、人間が誤っている訳では無いだろう。
声は時に大きくなり、時に耳元で囁く。心地よくさせる時もあれば、何も出来なくなるほど、立派な発言をする。様々な事柄について語り、自信に溢れ、全てを知っているかの様に振舞う。
軽い足取りでやって来るもの。
通り過ぎて、
彼方に消えるもの。
無限に感じさせ、
何処にも無かったもの。
後ろから来るであろう事が、
前から来てしまう。
全てを、自身の内に仕舞う事が、
鏡の中の世界を大きくし、
また、血の気が引いて行く。
駅の周辺には、何も無かった。時間を潰す時は、ただ、だらだら歩いた。または、キャンパスの芝生の上で、酒を飲んでいればいい。日差しは暖かく注ぎ、草は生き生きと伸びている。会話があり、それなりの学問があった。大勢の人間が、小さな空間で、何かを見ていた。それは、学問と呼ぶべきものでは無い、人間を見つめている何か。私たちの存在を、脅かし続けている何か。その時の彼には、興味の無いものであった。
体の、また脳の神経を、誰かが、引きちぎろうとしている。何処かの空間で、繋がっていたものを、誰かかが、何かの判断によって、寸断する。ゆっくりと、選びながら、確認して、断って行く。体は抵抗しない。
病人が一冊の書物を、
その、手で捲る。
本が語りかける訳は無く、
病人が理解出来る訳でも無い。
書きかけのページがある。
人間の人間による、偉業、
概念の言語による、証明、
自動的に、増え続ける、記号。
何を見ても、何処を向いても、
常に、外の世界から、距離をとられている。
意識は、何時も役に立たない。良く効く薬、新しい薬、和やかになる薬、役に立たない意識を殺す薬。私の意識が悲鳴を上げる。私たちは病気では無い。現実に在るもの。助けを求める様な、私に於ける、非難の声。
何処かで、物音が聞こえる。どんどん大きく、早くなる。何かを叩くような音。あっちの部屋で、会話が聞こえる。何か言い争うような声。形が無い、私たち。単調な事を、分かり切った事を、楽しい感じにする。
ひっくり返される事を、
じっと待っているもの。
意識の端から、
機会を伺っているもの。
隠れることに長け、
背後で広がるもの。
醜く装い、
目から逃れるもの
口を固く結び、
その時までは、語るまい。
大きな声を出した。彼は自分が声を出している事に気がつかない。何か、すっきりした様に、寝ている。彼女は彼を一瞥して、また眠る。建物の下には、土がある。建物の上には空がある。建物の中には人が居る。
偉大な、光で、大きな輝けるもの、それは、どくどくと、脈打ち、善きものとして、優しいものとして、厳格な、闇で、重たい押さえつけるもの、それは、ぐつぐつと、沸き立ち、強いものとして、厳しいものとして、
屍が、
向かい合う。
溶けて、
内臓がはみ出している。
中央の障害物の、
上を、
ぐるぐる回る。
打ち出された、
車輪。
それ以前に、在るべき軌道。
昼休み、学食に行き、売店で、弁当を買った。中庭の端、建物の陰に隠れて、食べる。足元を、蟻が歩いている。彼は、食べ物を、土に置く。蟻が、少しずつ増えていく。食べ物を、千切り、持ち運ぶ。
カーテンの向こうから、音が聞こえている。靴の音と雨の音。彼は目を開き、うつ伏せの体を起こした。彼は、空気を吸い込み、肺に入れる。肺は、働くことを拒んだ。彼はベッドから降り、少し前かがみになりながら、部屋に立った。
彼女は家に居らず、何処かに出かけていた。彼は、しばらく前に、物音を聞いていた。ベッドに腰掛け、呼吸を整える。頭が眠っているせいか、腹だけが、動いているのが意識された。
右手で、鼻筋を揉む。まだ、頭痛が少し残っている。彼は、居間に移動し、冷蔵庫からビールの缶を出す。
傾き過ぎた缶から、液体が、シャツにこぼれ落ちる。シャツに、液体が、すんなりと馴染んで行く。
彼は、ソファーに座り、タバコを吸う。一度寝室に戻り、携帯電話を、持って来る。彼女に電話を掛ける。
「もしもし、今何処? ……うん、分かった。そしたら、帰りにタバコ、買ってきて欲しいんだけど、そう、二箱でいいよ、うん、そう、じゃあ」
テレビを点ける。何かをやっている。
タバコが、無くなるまで吸い。
吸殻をまた吸う。
ビールを、また飲む。
彼は、夜の七時頃、目を覚ました。
彼女は、寝転びながら、本を読んでいる。顔をクッションの上に載せている。
「おはよう、直君」
と、彼女は言った。
「うん? おはよう、何か、良く寝た」
テーブルの上にタバコが、二箱置いて在る。彼はビニールを取り、銀色の紙を破る。
彼女はそれを見ながら、
「タバコ買って来たよ。あと、お弁当あるけど、どっちがいい?」と言った。
「弁当?」
「買って来たよ」
「うん? なるほど」
彼はタバコに火を点ける。彼女は本に目を落とした。今日買ってきた本だ。