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第二部 下降する現在  第三章 長々とした言葉

No.51

 今日は、どんな日だったろう。こうして、湯船に浸かっていると、今日あった事を忘れてしまう。記憶は、無くならないのに、何処に在るかは、判らなくなってしまう。

 少し眠くなる。明日は休みだ。自分が言った事や、した事は忘れてしまわないといけないな。意識しようとしまいと、意識は勝手に、忘却する。いずれ意識が意識を忘れるだろう。それまで、耐えていけば、或いは、少しは問いも明らかになるんだろう。

 何だか、目の辺りが痛いな。自分に目が無かったら、幸せではないかな。俺は不謹慎な事を考えているかもしれない。誰でも、気になる人に、目や耳を切り取って送り届けたいと思う事はあるだろう。一度もそんな事を考えた事の無い人間なんて、いないんじゃないかな。きっと、幸せとは、そこら辺にあるのではないだろうか?

 目が悪いから、鏡に映る自分も、半分は黒くなっている。まるで、私には目が無いようだ。私は何時も、目ばかり、キョロキョロさせているから、摩擦で、磨り減ってしまったんだな。

 それにしても、眠いな。風呂を上がったら、俺も酒を飲んで寝よう。彼女は、(初めからだけど)酒ばっか飲んでるな。大丈夫だろうか? 最近疲れているようだ。

 少しも、俺が進めないのは、誰のせいだ。半分は自分、半分は、何かそこら辺だ。

 居間に、鉢植えの木が置いてある。この木は、毎日水を与えられ、時に肥料を与えられる。木は、成長し、大きくなるだろう。生活の中に、日々暮らしていく中で、何か、成長して行くものがあった。

 こうして、お酒を飲んで、まどろんでいると、一人で居るような気がしないのは、何故だろう。幾分楽しくなる。でも、どういう時でも、一人になれないのは、本当に辛い。私は、誰にも赦してもらえないな、という気にもなる。このまま、眠ってしまって、明日、目が覚めなければ、楽なのに、とか考えてしまう。別に生きる事が苦痛な訳では無いけど、ゆっくりと、体を伸ばせるような、広い空間が欲しい。体が窮屈な所に閉じ込められている様で、何だか息苦しい。二人で、暮らし始めて、特にそう感じる様になった。彼は何を考えているのか良く判らない。話しかけても、何時も、聞いた事とは別の返事ばかりする。私の言葉は、何処に届いたのかも、判らない。彼の話す言葉は、何だか明後日の方向にばかり、向かっているようで、理解しようにも、疲れてしまう。始めは、合わせようと、こちらも努力をしたけど、結局、彼にとっては、馬鹿にされている様に感じるようで、上手くいかなかった。少し距離を置いた方が、お互いの為には良いとも、今は思っているけど。

 そろそろ、また、一人になりたい。嫌いになった訳じゃないけど、あまり、理解させてもらえないのでは、誰と居るのか、判らなくなる。私の中に、知らない人が増えていく。私の過去が、苛立って、外に出たがっている。私は一人になりたい。

 居間にテレビが置いてある。テレビは点いている。テレビ番組が流れている。人が動き、話す。会話が展開され、それから収束する。情報は拡散し、何処かに置いておかれる。それらは残ったままだ。

 最近また、妙な感じになるな。昔からの感覚。感覚だけは変わらないな。誰とも共有できない、感覚や神経。これは特別だと言うには、余りにもお粗末な作りだ。何だか、欠陥品だな。

 また、仕事中、独り言を言っていたら、かなりおかしく思われてしまうな。もう、そろそろ辞めたいけど、彼女は、何て言うのかな? おそらく、了解はしてくれるだろう。彼女は俺の事はあまり気にしてはいない様だからな。最近、まともに会話もしてないな。

 彼女には、俺はまともに見えるらしい。不思議だな、あまり、人格には興味が無いのだろう。何だか、のほほんとして楽しそうだな。まだ、酒飲んでるし。

 やっと、飲むのを止めた。仕事が、上手くいっていないのだろうか? しかし、彼女の事より自分の事だ。しばらくは、耐えられるにしても、その後がどうなるか。もう限界だろう。特に思い入れも無い。三年ぐらい働いたのか? もう少し短いか。

 もう、何処から、立て直していいのか、分からない。新しく、やり直すのも、時間がかかりそうだ。何故、今頃になって、またずれて来たのだろう。全ては、上手くいっていたんだ。ただ、何か忘れていたのか?

 病気は治ったはずだ。生活もようやく、安定してきた。余計な情報は入れないようにしているし、常に意識の、確認は怠らなかったはずなのに。

 居間に、本棚が在る。本は並んでいる。それぞれのジャンルがある。それらは、規則があり、正しく、整頓されている。文字には決まりが有り、読み易く成っている。上から下へ、左から右へ、また、右から左。

 閉じた空間に居ると、やっぱり落ち着くな。彼と居ても、緊張しているのかもしれない。知り合って、三年ぐらい経ったけど、縛られている気はしない。ただ、何かが確実に磨り減って行くのは分かる。

 一人で、旅行にでも行こうかな。許してもらえるだろうか。彼の趣味があまり無いのが気になる。彼は、大勢の人がいても、一人取り残されてしまうタイプの人だ。何だかのんびりし過ぎているのかもしれない。

 言葉を掛けるにも、気を使う。彼が今何処を向いているか、私が前もって察してあげなくてはいけない。何だか子供の面倒を見ているようだ。彼は私を支えてくれるだろうか? そして、私は。

 また、友達に戻る事は出来ないのかな? そのぐらいの距離だったら、多少の事なら、何とかなるだろうし。私にも、いくら愛情があっても、どうにも出来ない事はある。彼と接していると、彼が、何かに侵食されている音が聞こえる。本当に、そこにある音のように、大きく聞こえる。

 私はその音が怖い。彼の体の事も心配ではあるけど、あの音が、昔何処かで聞いた事があるような、あの、何か突き刺さる音が。彼は自分がおかしいと、思い込んでいるけど、そうではない。ただ、私には、それを説明する事も、あの音を止める事も、出来ないだけで。

 いっそ、こっちに向かってこればいいのに。

 彼女は、風呂から上がり、着替えた。居間に行くと、彼は居なかった。寝てしまったのだろう。ソファーの前のテーブルの上に、ビールの缶と吸殻の入った灰皿が、置かれていた。彼女は、空き缶と灰皿を持ち、缶と吸殻をゴミ箱に捨てた。食器をゆっくりと洗う。

 冷蔵庫から、ペットボトルを出し、コップに注ぐ。そのコップを持ち、ソファーに座る。ノートパソコンを開き、少し、仕事をする。時計の針は、二時を指した。

 彼女はノートパソコンを閉じ、立ち上がった。コップを台所に置く。居間の電気を消し、洗面所で歯を磨いた。

 彼女は寝室に向かう。洗面所のドアノブに手を掛け、回そうとしたが、それを止めた。洗面所の壁に寄りかかり、座り込んだ。手で顔を覆う。

 彼は、薄い夢を見ていた。一つの事柄からの小さな部品から、また一つ話が広がり、その中の一つの出来事から、一つの物が出来る。そして、その物が動く時の、その小さな部品が集まる事により、起こる出来事。深い眠りは、なかなかやって来ない。

 寝返りを打つ、目を開いて、向こうの空間に在る、クローゼットを見つめる。焦点が合い、少しずつ輪郭がはっきりしてくる。

 その、薄ぼんやりした暗がりの中に、小さな光が点く。光は光の中で動く。光の中には小さな模様がある。その模様は幾重にも重なり、線はその生きる場所を求める。

 彼は起き上がり、居間に向かって歩いた。居間の電気を点け、テーブルの上にある籠の中から、頭痛薬を取り出した。袋を破り、錠剤を口に入れた。台所で、コップに水道水を入れ、薬と一緒に飲んだ。灰皿を取って、ソファーに座る。

 彼女は、彼が部屋から出た音を聞いた。居間で何かをしている。立ち上がって、鏡を見る。髪を触った。洗面台に髪の毛が落ちる。それを流す。居間に向かう。

 彼は、タバコを取り出し、火を点けた。彼女が居間に入って来る。彼に声を掛ける。

 「まだ、起きてるの?」

 彼の顔は、少しうつむき、視線が斜め前の床を向いていた。チラッと彼女の方を見る。

 彼女は、足を動かして、前に進む。少しの不安が表情になり、何処かに消える。視線が、ソファーの奥に在る、観賞用の植物に向かう。彼の視界に、彼女の足が入る。

 「うん、頭が痛いから、薬飲んだよ」

 テーブルの上に置きっぱなしの薬の箱があった。籠の中の薬やサプリメントの容器。二人で使うには大きなテーブル。読みかけたまま忘れていた本が、端に置かれてあった。

 「タバコ吸わない方がいいんじゃない?」

 手が動いて、指が、タバコを叩く。振動が、タバコから灰を引き離す。

 「うん、そうだね」

 彼はタバコを灰皿で消した。彼女は彼の斜め前に座る。

 「明日、何処かに行きたいな」

 閉められている、灰色のカーテン。窓の外では、まだ雨が降っている。



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