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第五部 そしてまた上昇する二つの空想  第二章B 蜘蛛の意図と、壁の向こう

No.67

 蜘蛛は、ゆっくりと下に移動して、床に着いた。八つの目が、それぞれに世界を捕らえているのが判る。

 前脚だけが、他の脚に比べて長い。頭部には、剛毛が、びっしりと生え、その後ろの、腹部は大きく膨れ上がっている。爪を立てて、八本の脚が、別々に動く。

 私の腕以上ある、触肢が、床を探っている。模様を背負った、背中が在って、それは、空間を支配している、整った、暗号の様に、思わされる。

 私の目の前まで、近づいて来る。

 彼は、触肢を広げ、頑丈な顎を開く。飛び出した目は、上方に在り、私を見てはいない。

 彼は、はっきりと、明瞭に問いを投げ掛けて来た。

 「法は在る、何故か?」

 私は、ゆっくりと、刺激をしない様に後さずった。私は、壁から出て、右に広がる空間を見て、知っていた。そこには、何も無い、暗闇が在った。

 「私の質問は、何処に行ったの?」

 蜘蛛は、斜めに移動し、私の前を通り過ぎて、元来た壁に、顔を近づけている。

 「君は、此処から、出てはいけなかったんだ。君は、もう病気ではいられない、病気でないなら、僕には、治せない」

 蜘蛛は、録音した様な正確さで、口調を真似て、音を流す。私は、何故か、呼吸が落ち着き、構成要素の、一部を得た。慎重に、後ろに下がる。

 私の踵に、人形が当たる。そのまま、踏み付け、脚が滑り、尻もちをつく。

 蜘蛛の触肢は、壁をトン、トン、と叩いて、探っている。私の中の、私の居ない世界を、彼は、知りたがっていた。私の過去の、私が存在しなかった部分。私の過去の、二度と、行けない場所、私が、私を、迷いながら、抜け出る事が出来た、不愉快な場所。前脚の爪を、壁に掛ける。

 私は、足元の人形を、何故か手に取り、背後の壁に走った。私が、壁を、思いっ切り、叩き壊してやろうと、決心して、手を振り上げた時、壁が開いて、背広を着た、男が、私を、向こう側の部屋へと、引き込んだ。


 そこは、何故かオフィスで、私は、会社員に成る事が出来た。私は、仕事を始め、仕事は、心を癒してくれた。自分のデスクに座り、書類を作成する事が出来た。

 身体に良い、道徳を身に付け、物事を、規定する事が出来た。知られた事を知り、解からない事は、解からなかった。

 時間は流れて行き、人の死を理解する事が出来た。分別をわきまえ、以前より、人に好かれる様に成った。自分の中に、新しい側面と才能を発見し、それを広げて行く術を覚えた。

 色々な物に囲まれたが、窮屈では無かった。優しい人もあれば、つまらない人もいた。厳しい人もいれば、だらしない人もいた。

 正しい事を教わった。間違った事を、敢えてした。反省する事を実行し、後悔する事を、試みた。好かれるばかりだと、あれなので、自ら人を好きに成った。

 そして、全ては、正しく収まる所に収まった、と思い込んだ。それは、実際そうだったのだ。毎日、食事を味わい、食べる事が出来た。

 厳しい意見も、真面目に聞く事が出来た。心底から、意義や意味を、受け入れ、そして、身体に於いて、それを行使する事が出来た。

 以前の事を、思い出したりする事は、もう、無くなった。誰も、私の病気を当てる事は、出来なかったし、私は、めでたく、退院出来たのだ。これは、病気が治ったという事だ。

 もっと、胸を張って生きなくてはならない。常に、周りには、仕事があり、共に同じ動きをする仲間や、友人が居る。私は感謝する事も出来るし、また、褒められて、喜ぶ事も、容易に、楽しみ、また、大いに満喫した。

 漠然とした、形に成らない像も、他人の中に押し込めた。仕事をする人は、細かい事は、一々言わない。誰もが、私が押し込めた像に、感謝している様だった。私は、優しい人々の一人であり、柔和な女性の一人だ。

 オフィスは、私を必要としているし、喩え社会の歯車の一部と言われ様とも、皆、一様に同じ物を見続けなくてはいけないのだから、それも、大切な事であるはずだ。

 仕事が、行き詰った時は、新しい物事に取り組んだ。新しい事は、新しい本に書いてあった。新しい生き方は、新しい人に教わった。

 毎日が、時間と共に在った。時間は、私と同じ歩みをして、隣を歩いている。私が死ぬ時に、時間も亡くなるのであろう。それは、全て、世界が、私と共に在る気にさせる、想像だった。

 想像とは、何だったのだろう。以外に、安らかな気持ちになれる世界は、近くに在ったのだ。あの、閉じた世界、空間に、意地になって、自分の弱さを、人に提示する必要なんて無かった。

 想像とは、身体を衰弱させるものに過ぎない。現在は、何時も力強く、私に優しい。空想は、悪戯に、神経を磨り減らせるばかりで、何の希望も生み出せなかった。

 確かにそうだった。重力から逃れる為の、可能性は、僅かな隙間に、縮まり込む事に過ぎなかった。だが、本当だろうか?

 それは、開放と呼べるものでは、なかったか? 何時も、追いつかれるとは、限らない、そして、その場合の、現実とは、現に在る、ということは、唯の暴力に過ぎない、のかもしれない。



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