第四部 また下降する現在 第四章 幻覚との対話
No.62
食事を途中で終え、タバコを吸い始めた。彼は、トートバッグから、小さなノートと、黒いペンを取り出した。そして、タバコを口に咥え、ノートに『異質な形が生まれ、たじろぎ、逃げようとすること』と書いて、ペンを置いた。タバコを手で持った。
違う形を模索する事。有意義であるはずだった仕事。予感だけの仕事。追いつかれるまいと、逃げ、隠れる事。空想に支配され、愉快な、笑いが生まれる事。育つものを、抑制し、その向かう先を、塞ぐ事。
幻覚であるとは、理解している。自分がまた、精神病であると、自覚させられ、また分類される事も。ただ、少し、私なりに問いかけたい事もあるのだ。偶にしか見かける事が出来ない、私の生の象徴の、その側面、横顔。
淡い光、
装うものとしての、色彩。
放射する光、
繋ぐものとしての、紐。
漂う光、
流れるものとしての、大気。
反射する光、
影を作るものとしての、面。
点滅する光、
欠損するものとしての、原形。
目の中の光、
後を追うものとしての、希望。
また、黒いペンを握り、紙の上で動かしていく。黒線が生まれ、一つの形に成る様に、引っ張っていく。彼は、それに、引きずられる様に、自分の、理想に絡め取られて行く。彼の、身体に、絡み付く様に、すがる、何か。文字だけでは、死んで行く。
理想のもたらす、可能性について、検討していく事。徒労に終るであろう仕事。残骸だけが、増え続ける仕事。全てから、離れる事、見放される事、またその事による絶望。辿る事が、また、何かを誘き寄せてしまう事。
一番初めに、卑屈である事は、関係を、下降させて行く。むしろ、初めから、何も起こらなかったと、言い訳をしたい。幻覚の見せる、別の私、卑屈では、決して無い、と言わせたがる、別の私の側面である幻覚。私では無いと言い聞かせる。
真っ赤な嘘、
正体を現す事の、優しさ。
良く出来た嘘、
その先は無いという事の、虚しさ。
陥れる嘘、
状態を硬直させる事の、脅え。
その場の嘘、
捉えてしまう事の、悲しさ。
共通の嘘、
逃げられない事の、喜び。
本当の嘘、
見てしまう事の、怒り。
一つの話を考え、その断片を書き綴る。大仰な思想と、捕らえられてしまった、不安。書く事と、食べる事の類似、小さなノートには、『地下の世界も一つの自分、と世界』と書かれている。進む事、退く事、による、繰り返しの動作。
同じ仕事をし続ける事。また、形に成るまで力を加え続ける事。目標も無しに、歩き回る事。直線の様に、自由に書き続ける事、円環の様に、動かない事。抽象的な、事柄を、さらに、分断して、薄めてしまう事。無理解の中で、全てに、眺められながら、私を殺す事。
理想を理解する事は、不可能だ。それ自体、可能性を作り続ける、変化を楽しむ存在であるからだ。私の中に、不要な、感情を作り続け、楽しんでいる。空想が空想を生み、現在は、全く、空想を煽る事しか出来ない。
吸い込まれる暗闇、
識別される事を拒む、無意味。
取り囲まれる暗闇、
一つで在る事を強要する、無意識。
明かされて行く暗闇、
事象を押し流す、無為。
飲み込んで行く暗闇、
忘れる事を促す、無限。
力の無い暗闇、
及ばない事をさせる、無節操。
残っていた、物を食べる。彼は、ビールを注文する。時間は、五時近くになっていた。肩に力が入り、目が充血していた。髭を気にしたのか、しきりに顎を触る。携帯を、取り出し、過去のメールを読んでいた。ビールが来たので、またタバコを吸う。
新しい物を書く事。残りの時間を考える事。可能性を譲る事。整った物を壊す事。識者の冗談を聞き流す事。評価をされない事。嘘を書き続ける事。人を騙す事。軽く出来るイメージを作り出す事。
最後まで運んで行く事など、始めから狙ってはいない。私の本当は、全ての嘘に覗かれる。私の嘘は、私から逃げて行くだろう。有害で在る事は、積み重なって、或る場所に、高く残る。その事の期待。待っている事は、頭を失う。
包み込んでいる人の像、
何かを託す為に、見せる事。
倒れている人の像、
何かをたくらんでいた為に、装う事。
談笑している人の像、
何かを殺す為に、歌う事。
平伏している人の像、
何かを知っている為に、黙る事。
戦いに向かう人の像、
何かに追い込まれる為に、探る事。
知っていた人の像、
変わる事を忘れる為に、話す事。
アルコールが、全身に回ってきた彼は、またペンを取り、書き込んでいく。一つ一つをなぞりながら、決まっていた事を、当て嵌めていく。捉えられない、移動したがるものを、可能性で、導いて行く。何かに、語りかける事は、流れて行く事と、良く似ている。
定まった、形が在り、整った法が在る。決まった、筋が在り、収まった結末が在る。飛び出して行く心が在り、漂う、精神が在る。衝突する点が在り、大きな、事象が在る。ゆっくりと、流れる空間が在り、急かす様な言葉が在る。
止まった事を動かすには、感情を以って、行為しなければならない。生きていながら、死んで行かなければならない。生きていながら、止まる事が不可能なのは、捉えがたいものを、捉える運動に、身を任せるからだ。
様々な物を触る手、
決められた事を捨て、規定して行く。
様々な所に行く足、
定められた道を解し、失って行く。
様々な事を許す口、
減らされた事を感じ、与えて行く。
様々な期待を背負う目、
訪れる先々で得る事を、変換して行く。
様々な行動をさせる身体、
流されて行く意識の中で、一つで運んで行く。
様々な命令を下す心臓、
沸き立つ精神を退け、結び目となる。
ノートとペンをバッグに仕舞い込む。タバコと携帯をポケットに入れ、レシートを持ってレジへ向かう。彼は、会計を済ませ、表へ出た。
雨は上がっており、日が出て、寒かった。車のロックを外し、乗り込む。しばらく、そのままでいたが、携帯を取り出し、電話を掛けた。音が鳴っているが、彼女は、出る様子は無い。
彼は、携帯を、ケースに置き、車のエンジンを掛けた。駐車場を出て、元来た道を戻って行く。
以前二人で、酔っ払って、通った道が在った。彼女は、ふざけた感じを装い、彼の運転している、ハンドルを横から、強く、動かそうとした。彼は、取られまいと、力を要れて、バランスを取っていたが、車は斜めに走り、中央分離帯に、ぶつかりそうになった。
何も、言わない時は、彼も何も言わないのだった。どちらも、腹の底には、無数の言葉が在るのを理解していたが、それぞれに、触れまいと、奇妙な動作に変換していた。
以前、彼は、自分の小さなノートを、彼女に見せた事があった。誰が見ても、それが何か解からない様な、いたずら書きの様な、何かが走り書きしてあった。
彼女は、自分の日記の様なものを、見せた。誰が見ても、それが何か解かる様な、簡潔な文章が書いてあった。
日曜の朝早くから、車は、複数走っていて、彼の白い車も、それらの中に、程よく馴染んでいた。
空は、少しずつ、雲が離れて行き、今日は、晴れるだろうと、彼は予測した。少しずつ、スピードを上げる。広い、真っ直ぐな国道。
道の途中、ガソリンスタンドに寄り、給油する。彼は、酒を飲んだ事を思い出した。店内に入り、タバコと、ジュースを買う。
車のドアに、手を掛けた時、何かの予感に捕らわれた。
始めに辿り着いた様な、永遠に居た様な、終わりに接する様な、雷を撫でる様な、蜘蛛と遊ぶ様な、手足を伸ばす様な、真上から、来る様な、足元から、祈られる様な。
何かを辿る様に、車を走らせて行く。少しずつ、消えて行く、雨雲が、彼の心の内と呼応した。一つのイメージが、彼の心の内に在った。彼は、既に見ていた物の様に、それを知っていた。
一つの高い高い塔が、街中に、そびえ建っていた。街と言っても、綺麗な外観ではなく、少し寂れた、古くから在る、建物、懐かしい街並み。
空は、程よく晴れて、風が吹いている。二人は、街を散策した後、この塔の麓にいた。彼は、自分が、彼女と同様に在る事を肌で感じていた。
二人は、何となく、空を見上げていた。何かを待っていた。二人の心は、雲の訪れを待っていた。風は、大きな、どんよりとした、灰色の雲を運んで来てくれるだろう。それは、二人にとっての賭けの様なものだった。彼らの期待と、塔の上に、来る雲。
彼は、細い道を走る。スピードを落とし、窓を開ける。知っている事を、また知らされる。可能性が少しと、小さな、感情、他には、おびただしい程の言葉。
何時もと同様だと、彼は、自らに言って聞かせたが、存在の中の、針の穴ほどの点は、彼を高揚させた。
確かに、届きそうな、所に在った。ほんの僅かな、力、と堅い理論。推し進めて、広げて行く事。無理やりに、押し込める事。
柔らかな空間を、包み込まれてしまう空間を、突き破る事。人を、留めてしまう空間から、刺激を貰い、何かを、放出する事。ただ、ひたすらに、貪る事。
彼は、可能性というものを、始めて理解した。既に、在るものの、在り方も、規定も、事実も、霧散して行った。ただ、窓の外からの空気が、とても心良く思えた。




