第四部 また下降する現在 第三章 それぞれの殻の様な約束
No.61
「君の遣り方は、少し卑怯ではないか」と、僕は、聞く。
君は、「気が短いんだよ。もっと、気長に考えたら」と言う。
僕は、「考えが、何故、知らない所から来るのかが、わからない」と、打ち明ける。
「ちっ、気違いが」と君は、怒る。
「もう少しで、離れそうだ」と、僕は、素直に、感想を述べる。
「汚いにも、程がある。白い、空間は、どうした?」と君は、いい加減な、事を言うだろう。
大分、空白が増えて来た。僕は、大分約束を果たして来た事を、悟った。少し、約束について、語ろう。
約束とは、堅く結ばれた、僕と、法との契約で、非常に強い拘束の力を持っていた、と思う。僕は、知らない。
あなたがたは、見た事が無いだろう。感じた事は、あるだろう。同じ事だ? 同じ事だ。
約束とは、角度の事だ。良い角度を持つ事は、良い、約束を、招く事が出来るだろう。そうだろうな。
約束とは、速度であるべきだ。それぞれに歩みの違う、色彩と、移動力の、賜物の様相を呈する事こそ、堅い。
「先回りを、したい」と、僕は、君に、頭を下げました。
君は、「別に、特に、話す事も無い」と、答えたはずだ。
約束とは、与えられる前に、結果が出ているものだ。最も古い約束が、最も雑に、来る事が、あるかもしれない。
約束とは、山登りの様なもんだ。猿が沢山住んでいる山に、押し掛けて、住まわせてもらい、あまつさえ、威嚇される。
「約束とは、山登りである」と僕は、言ってみたりする。
君は、当然「死ね、糞、禿げ」と、テンポ良く、言って来る。
「約束とは、ワンカップの様である」と僕は、高を括って、言う。
「しつこい」と、言われる。
「ああいう事は、言っては、いけなかったんだ」と僕は、何気なく、言って、様子を窺う。
「覗き見趣味」と君は、何処からか、声をかける。本人も、隠れた所から見ている。
約束とは、そういったもので、非常に肩がこるものです。結び、結ばれ、果たされるもので、女性の怒りを買う事必至。
これでも、真面目に書いています。
辺りを、見れば、大分、片付いている。全てが、遠くに在る。この場所から、本当の事など、言える訳が無い。
空想的なものでも、時に、実感を与えは、する事が出来る、はずで、意味の無い言葉も、分析して、調査して、退屈に成る。
やがて、全ての約束が果たされたとして、約束を、守り通す事は、約束を無くし、亡き者として、始めから、無い。
別に、面倒なら、そのまま、放っておくべきだ。それは、ただ、結び目でしかない。あなたがたに、良く言っておく、約束は、ただ、そのままに、しておけ。
守る事無く、果たす事無く、貫く事無く、決して、それを、知る事無く生きる事、始めから、見なかった事にしておく事、抽象的な事は、理解しない事、具体的な、事物を愛する事。
総じて、賢さとは、目に見える事を、実際に見て、感じて来たものを、心の内に、秘めて来たものを、考えに、考え抜いたものを、一つの事の為に、あらゆる積み重ねを繰り返し、そして、何かを、得た事。つまり、それは、賢さでは無い。
山から、降りて来た、そうだ。
総じて、醜さとは、知らない事を、信じる事、感じないものを、心も無く、何一つ隠せないものを、唯求めて、金まで払って、下らない、雑多な事の為に、あらゆる快楽を繰り返し、そして、何かを失った事、つまり、それは、醜さでは無い。
別に、笑わせ様と、している訳では無い。割と、真剣になった時ほど、下らない、意味にも、成り得ない事を、言いたくなるのです。
約束とは、意味の無い事を、だらだら繰り返して、口から、出任せを、言ってしまう勇気とでも、言えましょう。
約束を、守り通す事の出来る、信頼するに足る人物。僕は、おそらく、その様な人物に該当するでしょう。
今まで、ありがとう。
これからも、宜しくお願いします。
「こんなんで、賞金狙ってんの?」と私は、当然言うべきだったが、言えなかった。
君は、得意そうに、幸せそうに、「凄い、傑作を書いてしまった」と言った。まあ、良いんじゃないかな。
とりあえず、君とは、口を利きたくない、状態であり、且つ、忙しい。
「見られる事は、大事で、最早、全てである」と私は、断言する。だろう。
「いいなあ、楽しそうで」と、君は、青臭い事を言う。
少し、哲学的な話題を取り上げてみたい。
哲学とは、呑気な歌だ。気の長い人が、間延びした調子で、歌う。調子が外れれば、なお、救われる。皆同じだ。
哲学とは、チョコレートの様なものだ。口当たり良く、甘く、口の中で、溶けて行く、カロリーが気になる。
哲学とは、山彦の感じに似ている。大声を出すと、そのまま、声が反射して、返って来る。繰り返し、叫べば、すっきりする。
哲学とは、首を絞める紐の如き、ものであるという認識、による、分析の様な、ものを、直観してしまう人物を、成り切った演技だ。
役者たちは、動いて、舞台袖には、スタッフが、走り回っている。観客は、金を払って、流行の、雰囲気を、最先端の動きを、良く通る声を、見て、聞きたがって、感じたりする趣向を凝らした、空間である。
神経に障る、言葉は、極力控えたい。反射して、返って来る内に、言葉が、漠然としたものを身に付けて来るからだ。
頭が固くなる事を望み、見事そう成った。世間では、頭は柔らかい方が良いと言うが、それは、その通りであろう。
頭は、いざという時、頭突きをする為に、硬い骨に覆われている、というのを何処かの本で読んだ。本は、何時も私を楽しませてくれるはず。確か。
哲学は、肩車みたいなものだ。まあ、するのか、されるのか、は、解からないが、とりあえず、肩車的な、雰囲気を持つ、人間二人による、共同の運動による、移動距離と、質量の問題に答える、大学の教授だ。やたら、長くする骨も大事な事だ。
「外に遊びに行こう」と私は、私なりに、良い角度で、話しかける。
君は、角度の何たるかを知らないくせに、「角度、角度」と喚いています。角度って何だよ。
「ご飯を、一緒に食べよう」と私は、私なりに、腕によりをかけて、料理を作ったりして、語りかける。
「綱の強度だ、強度だ」と君は言うだろう。今度は、強度だ。君は、何をやっても飽きないだろう。それは、良い事です。
もう、全て、飽きたのかな?
一つの物語を、物語ってみます。
昔々、広い海辺で、泳いでいる人がいました。突然、海は、荒れて、波は高くなり、その人は、飲み込まれてしまいました。
ところが、その人は、自動的に、その場所に戻って来ました。哲学を、置いておいたのです。その場所へ、帰って来れる様に、セットしておいたのです。
やがて、全ての哲学も、無くなり、心理学ばかりになります。心は、何よりも大事、情も、金よりは、大事。
哲学とは、真似です。真似とは、より、楽しむ為の、前菜としての、フルコースに於ける、序盤の、あっさりした、さして興味も無い食物による、種々の味付けをした、ちょっと高い感じの、フォークとナイフを使って食べる、食物の如きものの役割を担わざるをえない皿の上のソースです。
私は、「もう飽きたよ」と、始めに、君に言っていました。
君は、「飽きるはずは無い、僕が、君を退屈させるなんて事は」云々。
永遠なるものに、近づく為に、哲学は必要である。外なる、また内なる事象を、良く見て、それを、感じ取り、体系的に、論理的にまとめていく、時に、何かを断ち切り、時に繋げる。芸術家のように、事象を加工し、その本質なるものに近づいて行く、勇気のある人物。
瞬間なるものに、近づく為に、無知である事は、必要である。世界も自分も、またいかなる出来事も、全く見ないで、それを無視し、適当に、いい加減に、触らない、時に、喜び、時に悲しむ、酒の様に、良く呑み、また、呑まれ、酔う事の、アルコール成分に、近づいて行く、酒乱癖の有る人物。
最近、私は、ジムに通っている。日頃酒と、不規則な生活で、体重、及び脂肪が増え、不健康に成ったからだ。
何事も、流されて行くばかりで、一向に形に成らなかった。何も、作りたくない、生み出したくは無い。その場に、留まる事と、永遠に在る事の、違い、当ても無く漂う事と、常というものに、満たされる事の、違い。




