第二部 下降する現在 第五章 土曜日
No.53
食事を終え、彼は二つの空箱をゴミ箱に捨てた。彼は、ソファーに座り、タバコを吸い始めた。彼女は、ビールの缶を持って、座椅子に座った。缶を開けて、一口飲んだ。
彼は、文庫本を手に取った彼女を見て、独り言のように、
「何か、変な夢を見た」と言った。
彼女は、文庫本に挟んであった、栞を抜き、そのページを開いた。
「どんな夢?」
「そうだなあ、何て言うか」
彼は、タバコを咥え、ソファーにもたれ掛かった。彼女は、彼の顔を見ていた。
彼の眼球の動きが、左右別々に動く。
「火星だな、砂とか石がごろごろして、何も無かった。俺が居て、他には、誰も居ない」
「そう、ここ読んでみて」
彼女は、ページを開けたまま、文庫本を渡した。彼は、手を伸ばし、受け取った。
「読むの? 何処?」
「何か、読むの飽きたから、読んで」
「何処?」
彼女は、ビールを飲んで、彼に言った。
「其処のページから、適当に」
彼女は、立ち上がって、台所に向かって歩く。彼は文庫本に目を落とし、声に出して読んだ。
軽い躁状態にみえた。
「終電に乗るならそろそろだな」
と紺が言ったときの部屋の中の空気は、いわく形容しがたい。気に入りの遊びを中断させられた子供のような不満が一瞬あたりを覆い、次にその不満に対するバツの悪さというか気恥ずかしさがよぎって……
彼女は、菓子を持って戻って来た。
「読んだよ、少し」
彼女は、菓子の袋を開けた。ああ、と言って続きを読むように促した。
彼はその後の七ページを朗読した。彼女は、別の缶に口を付けた。
彼は、文庫本を閉じた。タバコに手を伸ばす。彼女の手が、タバコを先に取る。
「そうだ、変な夢を見たよ」
さっきと、同じ表情を、彼女は眺める。
「どんな夢?」
「何か、荒れて、砂とか岩だらけの道を、車かな、何か、車みたいな乗り物に乗って、一人で走ってる」
「走ったんだ、ほう」
彼は、苦笑した。そして、走ったんだよ、と繰り返した。リモコンを取り、テレビを点ける。チャンネルを変えて、バラエティ番組に合わせた。
彼はそれをしばらく見て、笑っている。
彼女は、また本を読み始める。
またタバコを吸い始めた彼に、
「話したかったら、話していいよ」と彼女は言った。
彼は、タバコを、ゆっくりと吸い、消した。
「じゃあ、適当に。走っているのは、何故かっていうと、石を探しているんだ。どんな石だかは知らないけど、何か赤い宝石みたいな奴だな。まあ、それは知っていたんだけど、見つからなかった」
彼は、テーブルの上にある、缶チューハイを取り、飲み干した。
「それに、その宝石の事は、そのうち忘れてしまって、何か、人工物の様なものを捜しに行っていたのかな。建物とか。どうも、離れた所には、他の人間も居るような気がしてたから。それで、どんどん、走って行く。そうすると、遠くの方に、大きな、壁の様な、建物が、建物かどうかは判らないけど、建物が在ったんだ。何だか、酷く古くて、崩れそうな、でかい建物。そこを迂回して、後ろに回ったら、大きな穴が空いていたんだ。なんだろう。東京ドーム、何十個くらいの穴だ。でかい穴で、そこから先には、進めなかった。だから車から降りて、宇宙服を着ていたんだけど、ザクザク、歩いて、気分が、すごく良くなったから、記念に、石を一つ持って行こうとしたんだ。そしたら、例の探していた、赤い宝石の様な石を、見つける事が出来たんだよ。で、終わり」
彼の話を聞き終わった彼女は、
「それで、終わり? でも、良かったね」と言った。
「まあね」
彼は、自慢気に答えた。
「それで、その赤い石は何処にあるの?」
彼女は、少しふざけ気味に尋ねた。
「ああ、夢の話だからなあ。何処だろう? 続きがないから、分からないな」
「作ってみたら?」
「夢を、作れる訳がない。夢はただ、見せられるもので、おれが選べる訳がないじゃないか」
彼女は、テレビの画面を見た。動物が映っていた。言葉が出る。
「夢ねえ……。寝てばっかりいるから」
「まあ、疲れているから、かなあ」
「どうだろ、寝るのが仕事で、向こうで、暮らしているんじゃないの?」
彼も、動物が映る画面を眺めた。
彼女は、何か思いついて、言った。
「そうだ、あの本、読んでみようか?」
彼女は、立ち上がった。
「ん、あれ、別にいいけど。大したこと書いてないからなあ」
「別に、大層な夢じゃないから」
と言って、彼女は、寝室に行った。クローゼットを開け、積み上げてある、本の中から、一冊を取り出した。それを、居間に持って行く。
彼女は、本を捲り、夢の中に出て来たキーワードを、一つ一つ、調べていく。彼は、それを、聞きながら、相槌を打ったり、否定したりした。一つの話が出来上がる。
彼は立ち上がり、
「俺、風呂、入ってくる」と言った。
彼は居間を、出て行った。
彼は風呂に入り、出て来た。本棚に向かい、文庫本を取り出した。本と、台所で飲み物を調達し、それらを持って、ソファーに寝転んだ。
彼女は、背筋を伸ばして座り、パソコンに向かっていた。指が動いている。
彼は、適当に開いたページを朗読し始めた。
何か生命のあるものを認識記述しようというのに、
最初にその生命を追い出そうとする。
手許に残るのが部分ばかりというのも当たり前だ。
肝腎要の精神という箍が欠けておるのだな。
化学のいわゆる……
彼は、読み進め、八ページ程で止めた。文庫本をテーブルの上に置く。そのまま、仰向けになり、手を頭の後ろで組んだ。彼女を見て、言った。
「仕事?」
「そうかも」
画面には、舞台と、人間が映り、動いていた。人は動き、観客に向かい、何かを語る。
「仕事じゃないね」
「仕事じゃない、面白いよ」
「ああ、面白そうだ」
彼女の何かが動き、彼を捕らえる。
「仕事辞めたいの?」
「辞めたいよ」
「辞めちゃえ」
「まあね、辞めたいけどなあ。なかなか、踏ん切りがつかないな」
彼女は、画面を見ている。少し表情が変わる。彼は、彼女に話しかける。
「どうしたの? 何か面白い事でもあった?」
彼は、うつ伏せになり、顔をソファーの背に向けた、彼は目を瞑る。
「これ、セリフが変だ」
彼女は、呟いた。
「そうだね」
「そうだよ」
彼女は立ち上がって、寝室に向かう。彼は少しの間、眠った。
着替えを持ち、風呂場へ行く。一旦、居間に戻り、本棚から、文庫本を持ってくる。
湯船に浸かり、本を読む。
田舎の呪術師たちの小規模な呪いとは別に、グローバルな呪いの大いなる報酬があって、変質した意識のすべてが周期的にそれに荷担している。
こうして、まだ萌芽状態にある戦争や革命や社会的激変の際には、満場一致の意識は問いただされ……
私は、横で寝ている彼女の横顔を見つめている。彼女の耳から顎にかけてを見ている。右手で手を触る。掌から、肩にかけてを。手は語りかけて来る。耐えることが出来るのかを。
私は、彼女の唇に、口付けをする。手は頬に触れる。舌が動き、絡む。唇は語りかけて来る。満たすものはあるか、満たされることはあるか、心の渇きを潤すべき、特別な水のその水源。
私は胸を触り、それを吸う。掌に、何かの反応が返る。手が何かに、語りかけている。まだ、残るものはあるか、まだ、使えるものは、隠しているものはないか。何かが帰って来る。また、何処かに帰る事。
私は、右の胸から、袈裟懸けに、腰の方まで、異常に冷たくなっているのを、感じ取る。それは、何だか、金属のような、硬く何かを蓋しているような。指の先が、氷のような冷たさを持っている。はめ込まれた、大きな金属の板。
手は、太腿の内側を触る。神経が少しずつ、馴染んでいく。死んでいく、何かを感じる。形に罅が入る。隙間から、入り込んでくる、何かは言う。まだ、終っていない。許される事の割れる為の罅。
私の指は、〇〇をなぞる。濡れた指は、少しずつ、中に入っていく。熱いものがある、それは、無くなる為に、動き続けるあるもので、少しも情熱が無いのを悟らせる。回転していく内に、磨耗していくもの。
舌が、腹部をなぞる。左の掌が、腰に触れ、骨盤を確かめる。彼女の手が、私の腕を、触る。私は自分が空洞であるのを感じる。質問は全てで、中で、身体の各部に当たり、跳ね返って、消え去る。
緩やかに、流れる、背中を、舌でなぞる。腰の辺り、手を添えて、何かを取り入れる。言葉しか、出て来ない。頭には一定の調子が、繰り返し、変化しながら、流れ続ける。手や舌は同じように動かなくてはならない。
手は、太腿の外側を触り、脹脛を掴む。何かを落としていく。意識が働く。身体はそれを許さないだろう。精神は一つになる事を願い、言い続けるだろう。異質なものを硬い、意識に押し込めるだろう事を。
私は、彼女の顔に近づく。互いに、眼が動き、彼女の手は、私の眼を塞ごうと、流れる。下を向き、顎を見ている。私は見られている事を知っている。また、何一つ、私を見る事が出来ないだろうと、私が思考するだろうと。
私の拠り所とするもの。性欲の形であるところのもの。差し込むもの、滑るように、入る。ゆっくりと、動かしていく。声は、聞こえなくなる。遠くにあるもの、私は概念であると、意識が、語る時がある。
現実的な声がする。声が、現実、その様な物を、黒い者、電気、取り入れ、間違う物と、愉快な、自分の中での赤い所、私は水分であり、また、外骨格を持った虫だ。食べられ、神経だけ、飛び出している。
手が動き、精液を拭き取る。少し眼が覚める。細い手が、トコトコ、騒ぎ出す調子と、少し、冷たい空気、全てが止まる点がある。表面が、また、それぞれの、意識を手繰り寄せ、声を出そうと思った。
タバコを吸って来る。と言い、足は、手と同じ、頭は、肺と、一連の動作を、置き忘れた物。片隅には、在っても、良く分からなかった。独り言、テーブルの上に、飲み掛けの酒があった。
黒い服を着た私と、家族。両親と兄と私。葬式があった。長い時間と、空気を重たくする雨雲が在った。
帰りに、家族で旅館に泊まる。広い和室。私には、黒い服が似合う。家族も私が黒服を着る事を褒めてくれる。
温泉に入り、くつろいでいる。無闇に、旅館の中をうろうろしたりしている。浴衣を着た人々、私は、当然黒い浴衣を着なくてはならない。
ガラス越しに見た、中庭に、蛇がわんさと、蠢いている。沢山の蛇たち。
色々な種類、様々な模様、沢山の色。無機質な目玉、滑らかな動き、鋭い線、形作る鱗の数々。
私は部屋に戻るのを、忘れていた。私は何かを望んでいた。これは着せられた服で、行くべき所があった。
同じ処で、同じ時間、に居るはずなのに、それぞれ違うものたち。私は、自分が蛇になったのを感じる。つるつるした鱗に覆われる。仲間たちが居る。でも、それは、別々の関係の中に在る。
卵がある。何時、孵るのか誰にも判らない。昔から在り、一つの希望であるところのもの。或いは絶望であるところのもの。私は知っている。それが何であるのかを。
それが、厚い殻に覆われている限りは、安心して眠れる。それが唯の飾りであるという認識。
唯の飾りを、何時までも、待っている。人から見られている限りは、守り続けるつもりでいた事を思い出し、また、仕舞い込む。
白い蛇に、飲み込まれる、黒い蛇。何処かに向かう黄金の蛇。私は、中庭に居て、誰かは、やはり、此処に居るのだろうか、見渡す限り、暗闇で、やはり誰も居ない。
私は好きな服を着る。でも、それは、一人で、自分の部屋に居る時だけだ。外では雨が降り続け、巨大な雨雲が在り、遠くの方に、高い崖の上に、とても高い城が在る。私はその道を知っている。
私は誰にも、話したりしないつもりだ。数々の夜たちも、隠したりする事を好む。智慧以外、頼るものが無い動物たち、人間とは違う。一番弱い動物。
ここから、動く事もない。何故なら、私は黒い服を、意地になって着続け、それが、代わりになる事を、感じているからだ。これは、何かの代償であろう。見えなくするもの、吸収する色。
高い崖の上に在る城、そこに向かい、辿り着ける乗り物がある。そこに乗るのは、決して、私たちだけでは無い。自分たちである事の不安。
それが、誰だかは、分からない。人間では無いのかもしれない。その者たちは、付いて来て、何食わぬ顔で、仲良くしたがる。さしたる智慧も持たず、騒ぎ立てる者たち。
ゆっくりと、上に向かっている事は、判る。不安定な乗り物であり、私に於ける一切であるもの。私は、私の知らない、何者かに囲まれ、一緒に行かなくてはならないのだろうか?何処かで、墜落してしまえば、静かでいいのに。仲良くしたいと、思うほど、お人好しではでは無いからだ。
夢は終わりに近づいている。少しずつ醒めて行く意識。明晰に成って行く何か。
仰向けに寝ていた彼は、目を開いた。天井を見つめている。掛け布団を捲り、身体を起こした。左側には、彼女が寝ていた。その左奥にある、サイドテーブルを見る。
その上に、目覚まし時計が、光っている。針は、一時二十分を指していた。彼は立ち上がり、下を確認しながら、ベッドから降りた。寝室を出る。
暗闇の中、洗面所のドアを開ける。中に入り、電気を点け、蛇口を捻る。水を触り、温度が上がるのを待っていた。鏡を見る。近くで顔が映っている。手を洗い、顔を洗う。
手と顔を、掛けてあった、タオルで拭き、居間に行く。電気を点け、窓まで行き、カーテンを開ける。雨は、降り続いていた。カーテンを閉め、冷蔵庫に行く。
ビールを取り出し、蓋を開ける。それを半分ほど飲む。ソファーでタバコを吸い、また半分を飲み干した。しばらく、座ったまま、一点を見つめていた。
居間の電気を消し、寝室に戻る。ドアを開けて、薄い明りが点いた、寝室を、立ったまま、眺めていた。クローゼットに近づき、ゆっくりと扉を開ける。
洋服を取り出し、着替えた。バッグに財布を入れる。それを持ったまま、居間で、携帯とタバコ、キーケースをポケットに入れる。玄関で、靴を履いた。
鍵を出し、穴に入れて、回した。ドアを開け、外に出た。廊下の外では、雨が降り、風が少し吹いていた。廊下の外からは、林が見える。
静かにドアを閉め、鍵を掛けた。廊下を歩く。音が少し、響いていた。階段を降りて、駐車場に出た。雨に濡れながら、車に向かって、歩いて行く。
ロックを外し、ドアを開ける。運転席に座る。空気を吸い込む。バッグを助手席に置き、ポケットから、タバコを取り出して、ギアの後ろにある、ケースに置いた。
エンジンを掛け、ライトを点ける。ワイパーを動かし、水を除ける。彼は、ハンドルを切りながら、後進させる。幅の狭い道路に出た。街灯が一つ光っていた。
住宅街の中、狭い道路を進んで行く。人影は無く、CDの音が鳴っている。彼は、ボリュームを回し、音を小さくする。少し窓を開け、風を中に入れる。
大通りに出て、店の明りが、転々と続いているのが見える。彼は、その途中にある、コンビニエンスストアの駐車場に、車を止めた。他に車は無く、背後で車が一台通り過ぎる。
自動ドアが開き、中に入る。客は居らず、店員が一人、レジに居た。彼は、雑誌を、何冊か捲り、読んだ。その後、缶コーヒーを一つと、ライターを一つ買った。
コンビ二を出て、車に乗る。彼は、缶コーヒーの蓋を開け、一口飲んだ。缶を、左のケースに置く。タバコを一本抜き出し、ライターで火を点け、吸った。少し開いた窓から、少しの雨が入って来る。




