水は戻らない
「――帰って」
こっちを見る相手の目が鋭いことは、この暗い雨の中でもわかる。対する自分は、どんな目をしているのだろう。
「帰ってって言ってるでしょう。聞こえなかったの?」
ますます剣を帯びる相手に、でも、ようやく会えたという安堵の気持ちのほうが強い。そう思う俺は、たぶん、少し狂ってる。
「そんな言葉は聞こえない」
そう言うと、やっぱり相手は少し怯えたような顔をした。
「話がしたい」
俺はつづけてそう言った。
「いまさら、なに?」
俺の次の言葉を警戒しているのか、相手の傘をもつ手は、きつく握られている。その手の薬指には、俺の知らない指輪がはまっている。ものすごく忌々しい気持ちと、ひどくかなしい気持ちが、ほの暗い闇のなかに同居して、なにも可笑しいことはないのに、可笑しさがこみ上げてきて、たまらない。
俺は、笑った。小さな笑いから、だんだん大きくなって、肩を震わせるくらい止まらなくなった。俺の笑いに反して、雨は、静かだ。そしてやまない。俺の笑いも、雨もやまない。
やめて、と震える声で相手は言った。
「やめてよ、良介。お願い、こわい」
泣く寸前のような瞳でこっちを見る相手に、事態の展開は、いま、俺の手に握られていると暗い愉悦にひたる。
「俺が悪かった」
それは本当にそう思うから、そう言った。
「戻ってきてくれ」
俺は相手に一歩近づいて、言った。
「おまえを一番わかってるのは、俺だよ」
俺がまた一歩近づくのに、相手は足を引かない。いや、引けないのだろう。それが知れるくらいに、相手の瞳には怯えが見える。
「なあ」
俺は相手から、絶対に目を離さなかったから、相手も俺を見つめたままだったと、間違いなく言える。見つめている間にも、相手との距離は縮む。一歩、一歩。雨は、静かに。
「涼子」
名前を呼ぶと、はっとしたように足を一歩引いた。けれど、もう、遅い。
「逃がさない」
傘をもつ手を奪って、相手の背に腕を回した。
「やめて、お願い」
もう、相手は泣きそうだ。震えている。けれど。
「逃がさない――逃げないで」
俺はすがるように、相手の首に顔をうめた。
ひんやりとした首筋からか、髪からか、忘れることのなかった香りが立ちのぼってくる。相手とのあまい、あまいひとときを脳に描きながら、俺は言った。
「おまえのどこが感じるか、なにをしたら喜ぶか、俺は、ぜんぶ知ってる」
相手が息をのんだように、動きがとまったのがわかった。
「どんな息を吐くのか、どれくらい溶けた目で俺を見るのか、ぐずぐずに泣くのか、なあ、ぜんぶ、俺が知ってるだろう?」
涼子、とささやいて、俺は相手の鎖骨に、歯を立てた。
「い、や」
身を捩ろうとするのを、腰を強く抱いてとめた。
肩に、細い指が食い込む感覚がした。
相手にあんなことを言って、頭がおかしいと思う。相手がどれだけ恐怖しているかも、わかるつもりだ。でも。
相手の鎖骨を、今度は強く吸った。
涼子と、名前を呼んだ。雨はやまない。この闇にとけるようだった。
「……あなたは、信じてくれなかったじゃない」
俺の肩に食い込んでいた指の感覚は、いつの間にかなくなっていた。
「わたしを、信じてくれなかったじゃない」
相手の声は震えていた。
「おまえがいなくなったあと、俺は必死で調べたんだよ。それこそ、ストーカーみたいにな」
自嘲気味に、そう言った。
すべては俺の思い違いだった。相手は――涼子はなにも、俺を裏切るようなことはしていなかった。そうすべてわかったときには、涼子はすでに別の相手と婚約していた。
「良介」
相手の声が震えている。俺が、抱きしめたままでいるのが辛いのか、俺が怖いからなのかはわからないけれど。
「会えてよかった。顔見たときに、そう思った」
俺は、たぶん、少しおかしい。涼子が好きなのか、自分のものにしておきたいだけなのか、わからない。
「水は、もどらないわ」
か細い声で、相手がそう言った。
「うん、知ってる」
俺は目を閉じてそう言った。
震えている声が、なにを思ってなのかわからない。
涼子を手にしたとき、前のようにやさしくできるのか、それもわからない。
だから、ひとつわかるのは、水は戻らない。
おなじかたちには、決して戻らない。
この降る雨がおなじでないように、決して。