魔女の施し(前篇)
『変幻自在の魔女』が願ったものは。
これは、季節外れになるスリンダの実にまつわる話。
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昔、何にでもそっくりに化けられる魔女がいた。
その名はスリンダ。
長い年月を生きる内に、あまりにも長く関わりがなかったせいで『人間』に化ける事だけは出来なくなってしまったけれど、それ以外であれば動物であろうと、道端に咲く小さな花だろうと、彼女が変化出来ないものはなかった。
化けては、自分の暮らす森に迷い込んでくる旅人を脅かして追い払ったり、寒さが厳しい時はより過ごしやすい生き物の姿へ変わったりと、自分の能力をとても便利なものだとスリンダは考えていた。
しかし──。
魔女の寿命はとても長く、そしてその間に次から次へと姿を変えていったので、いつしかスリンダは本来の自分の姿さえも忘れてしまった。
これは困った。
当初はそう思ったものの、スリンダはやがてそんな事もどうでも良いと考えるようになっていった。
魔女としての姿を忘れたとしても変化の力は使えたし、人に化けられなくても森で生きる限り不都合な事など一度も起きなかったから──。
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そんなある日のこと。
彼女の森へ、また一人の旅人が迷い込んできた。
(やれやれ──)
栗鼠に化けて木のうろの中で昼寝をしていたスリンダは、その気配で目を覚まし、外へと飛び出した。
そもそも、スリンダが旅人を追い払うのは、半分はからかって楽しむ為ではあったけれど、残り半分は旅人が森の危険な場所にうっかり入り込まないようにする為だ。
悪戯好きではあるけれど、スリンダは心根の優しい魔女だったので、誰かが悲しんだり傷ついたりする姿は見たくはないと思っていた。
スリンダは愛らしい栗鼠の姿から、獰猛そうな狼の姿へと変わると、気配のする方へ走り出した。愚かな旅人を追い払うには、この姿が一番効果的だったからだ。
やがてスリンダは森の中を歩く男の姿を見つけた。
旅人らしいのに、目に付くような荷物も持たず、代わりに手にその細い体に不釣合いなほどひょろ長い大きな杖を持っている。
服装といえばボロボロの黒いローブに、履きこんだ感のある革靴。けれど、森に入るにはやっぱり軽装過ぎる姿だった。
(この男は何者かしら?)
スリンダは立ち止まり、しばらく考えた。
森の周囲には人が暮らすような村はなく、森を抜け、一つ山を越えたところに大きな街があるくらいだ。男はそこから来たのだろうか。それにしては身軽すぎるけれど──。
その時、のんびり歩いていた男の足が止まった。
「そこにいるのか、スリンダ」
スリンダは心底驚いた。
変化した時、スリンダは単に化けるだけではなく、本物とそっくりの気配と動作が出来る。普通の人間なら、彼女と本物の狼の区別など出来るはずもない。
けれど男は、茂みの奥に隠れたスリンダの方を真っ直ぐ見ているのだ。しかも── もはや誰も呼ばなくなって久しい、彼女の名前まで呼んで。
「隠れていても無駄だ。お前は自分がどんなに特別な存在か忘れているようだな。『変幻自在の魔女』よ」
警戒し、茂みに身体を伏せたスリンダを見透かしたように、男は淡々と言葉を紡ぐ。
スリンダはその身を起こし、茂みの外に足を踏み出した。自分を知る男に、興味を抱いたからだ。
「お前は誰? 何故、わたしの名前を知っているの」
暗い灰色の毛皮をした狼の姿を目にしても、さらにその口から人間の言葉が発せられても、男は全く動じなかった。
スリンダの言葉に男は無言で手にした杖を持ち上げ、軽く一閃する。すると朽ち葉だけが降り積もる地面から、するするといくつもの芽が吹き出した。
……季節は晩秋。若芽が萌え出るには、まだまだ早い季節だ。仮に発芽可能だとしても、あまりにも成長が早すぎる。
「──これでわかるだろう?」
やはり名乗るでもなく、男はそう言った。
スリンダはじっと若芽を見つめ、しばらく記憶を掘り起こしてみた。
人であった頃の姿を忘れて、もう幾年もの月日が流れている。『魔女』としての知識は、随分と奥深くに埋もれたものになっていた。
しかし、今目の前で起こった現象を、彼女は過去に確かに見た記憶があった。
考え込んだスリンダはやがて埋もれた記憶の奥底から、有から無、無から有を生み出すと謳われた存在を思い出す。果たして彼はなんと呼ばれていただろう?
しばしの沈黙。やがて──スリンダはその口を開いた。
「あなたは……、『万象の魔法使い』?」
「どうやら覚えていてくれたようだな」
スリンダの答えに、男──魔法使いは初めて微笑を浮かべた。
「わたしに何か用?」
男の正体を思い出しても、スリンダの頭から疑問が消える事はなかった。
というのも、確かに彼女は過去に彼と会った事はあったものの、個人的に親しく話すような間柄でもなかったのだ。怪訝さを隠さないスリンダへ、魔法使いは肩を竦めてみせた。
「いや、用事というほどのものはない。単に通りかかっただけだ。……お前が森に篭ったとは聞いていたから、少し挨拶でもして行くかと思ったんだが……。まさかこういう状況だとは思わなかった」
魔法使いの言葉に、スリンダは自分の身体に目を向けた。
少し固めの、暗い灰色の毛皮で覆われ、四本の足で立つ自分の姿を。
「……本来の姿を忘れたというのは、本当だったんだな」
淡々とした言葉に腹は立たない。
何となく彼がやって来た本当の理由がわかったような気がしたから──。
「いいのよ。わたしは別にこれで支障はないわ」
魔法使いの言葉を先取りするように、スリンダは告げた。
「元の姿の事はたまに気になるけれど──別に戻りたいわけでもないの。人の姿より、獣の姿の方が森では生きて行きやすいもの」
「……、そうだな」
おそらく魔法使いは、彼女が望むならば本来の姿に戻してくれようと考えたのだろう。そうでもなければ、気まぐれな性分の彼がわざわざこんな所へやって来るはずがない。
魔法使いも魔女も、共に異能を持つ同士。
──『万象』を操ると謳われる彼ならば、おそらくそれは不可能ではないだろう。それでも、スリンダは獣の姿のままを選んだ。
「私の『変化』の力も、人の姿を忘れた事も──きっと、何か意味がある事のように思うのよ」
それはいつしか彼女が辿り着いた一つの結論。
スリンダの真っ直ぐな言葉に、魔法使いはそうか、と頷いた。
「それならばいい。……スリンダ。ではおれの力も、意味があると思うか?」
「ええ」
ほんの少し試すような魔法使いの問いかけに、スリンダは即答した。
「あなたの力はきっと、誰よりも意味あるものだと思うわ。今はそれがどういう意味を持つのかわたしにもわからないけれど……何故かしら。そんな確信があるの」
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魔法使いが去って、数年が経った頃。
鳥になって森の中を見回っていたスリンダは、森の奥へと入ってくる人の気配に気付いた。
どうやら迷い込んだらしく、しかも怪我でもしているのか、その歩みは遅い。
(大丈夫かしら……。怪我なんて、わたしには治せないんだけど……)
そんな心配をしつつ、気配のする方へと飛ぶと、やがて少し開けた場所に倒れている男の姿を発見した。
年はまだ若い。少年と表現しても不自然ではない様子だ。その旅装は薄汚れ、マントは綻び、ズボンはところどころ破れているが、大きな怪我はないようだ。
しかし、かなり衰弱しているらしい。こけた頬や青ざめた顔色を見るに、どうやら飢えているようである。スリンダはその頭上にある枝の上で思案した。
(どうしよう……)
すでに実りの季節は終わっている。周囲にあるのは朽ち葉ばかり。よく探せばきのこくらいは見つかるだろうが、そんな元気もないだろう。
獣になってきのこでも探してきてやろうか──そんな事も考えたものの、衰弱している状態で生のまま食べさせるのは気がひけるし、かと言って獣の手では火を起こす事が出来ない。
このまま寒空の下で倒れていては、いつかは死んでしまう。
(せめて、わたしが人の姿に戻れたなら……!)
スリンダは初めて、人の姿を忘れた自分を呪った。
せめて目の前の少年の姿に化けられたなら、彼の代わりに火を起こし、食べ物を食べさせる事も出来ただろう。
否、化けずとも本来の姿にさえ戻れるのならば──。
『変化』の力も、人の姿を忘れた事も、きっと何か意味がある。そう思っていたのに。
何故、今が秋の終わりなんだろう。
スリンダは恨めしい思いで周囲を見回した。
せめてあと、半月でも早い時期ならば。そうすればこの森にだって、様々な実りがあったのに。食べられる薬草だって、花の蜜だって、木の実だって──。
(……木の実)
その単語に、スリンダははっと目を見開き、目前の木を凝視する。
(そうだわ。木に化けるのよ)
そしてその枝に実をつけよう。小さな木の実ならば、衰弱しきったこの青年でももぎ取れるだろうし、口にも出来るに違いない。
その考えはとても名案のように思えた。『人』以外の何にでも化けられるスリンダだからこそ可能な手段。
──たった一つだけ問題があるとすれば、『実』がスリンダの魔力と生命の一部分である事だろう。
それをもぎ取られるという事は、すなわちスリンダの命を縮めるという事だ。
(……別に構わないわ)
スリンダはほんの僅かに過ぎった不安を打ち消すようにそう思った。
(どうせ随分と長く生きて来たんだもの。これからどれだけ生きるかだってわからない。たとえ数年寿命が縮んだって、大して終わりに違いはないわ──)