月待草。
まだ『魔法』が特別ではなかった時代の物語。
これは満月の夜だけに咲く、花の話。
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昔、一人の聖人がいた。
心に闇を持たぬ、稀有なその人を多くの人が敬愛し、一度なりと会ってみたい、そして言葉を交わしたいと願ったと言う。
そんなある日、一人の娘が聖人の元へ訪れた。
それはとても清らかで美しい娘。肌は白く、髪は漆黒。瞳は濡れて輝く夜の闇。
慎ましやかなその様子に、聖人は心打たれた。
しかし、その娘には一つだけ不幸があった。
彼女はその悩みの余り、聖人の元へやって来たのだった。
「どうかわたくしの話を聞いて下さい」
娘は静かに語り出す。
時は新月、星明りのみが大地を照らす闇の夜。
「わたくしは子供の頃から闇の中だけで生きて参りました」
語る娘の身の上は、夜の静寂に淋しく紡がれる。
生まれつき光を受け付けぬ身体。陽が地上を支配している間は、窓のない部屋に閉じこもり、陽が姿を消してから、ようやく彼女の時間は動き出す。
陽に当たる事が出来ないが故に病弱で、医師も幼い頃から大人になるまで生きられるかわからないとさえ言っていた。
「……こんなわたくしですが、不幸ではありませんでした」
娘は言う。
光には愛されなかった娘には、けれども優しい両親と、いつしか恋人になった幼馴染の青年がいた。
陽の愛が万物へ与えられるものならば、彼らの愛は娘一人の為のもの。
「けれど……。一つだけ、どうしても捨てきれない願いがあるのです」
ある時恋人が、自分へ持ってきてくれた色鮮やかな花束。
ある時両親が、自分の心を慰めようと部屋へ運ぶ鉢植え。
どれも娘を喜ばせたが、同時に娘を悲しませた。
「一度で良いのです。一度だけでいいから……この目で、大地に息づく花々を見たい。命溢れる……、その姿が見たい」
聖人は娘を気の毒に思った。
心優しき娘には、恋人の花束も両親の鉢植えも、その花の命や、思うままに成長する可能性を奪うものにしか思えなかったのだ。
……けれども、花は陽の世界のもの。
光を受けて草花は成長し、葉を広げ、そして花開く。夜の世界では、ひと時の眠りに就いたものしかないに違いなかった。
「……わたくしは、近々結婚するのです。こんな、いつ死んでもおかしくないわたくしを妻にと望んでくれるあの人に、こんな我が儘は言えません。けれど、ずっと誰かに話してみたかったのです……」
娘はそう言い、聖人に礼の言葉を何度も繰り返すと、夜の道を迷いのない足取りで帰っていく。
やがてその途中から、人影は二つに増える。娘の恋人が心配して迎えに来たようだった。遠目でもわかる睦まじい様子に、聖人は娘の哀しみを思い、益々心を痛めた。
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その翌日のこと。
聖人は陽が昇りきる前に出かけると、知人の魔法使いの元へと訪れた。
まだ彼が『聖人』と呼ばれる前からの知り合いであるその人物は、基本的に人嫌いで、その異能を隠すように人里離れた場所に居を構えている。
聖人も滅多な事でもない限り、足を向ける事はない。
けれど今回のような悩みには、彼は本当に無力であり、その事を彼は事実としてわかっていた。
言葉で癒される傷や痛みであれば、彼自身の言葉や行動で力になる事が出来る。けれど、自然の摂理に反する行いなど、只人に出来るはずもない。
──魔法使いは気紛れな気分屋。
けれど、その才能を聖人はよくわかっていた。そして、あらゆる知識を有している事も。
聖人は尋ねた。夜に咲く花はあるか、と。
久し振りに訪れた知人に対する魔法使いの答えは簡潔だった。
「そんなものはこの世界中を捜してもないだろうが、新たに生み出す事なら出来るだろうよ」
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──そして、次の満月の夜。
婚礼を前にした娘の元を聖人は訪れた。
「あなたの願いが叶うかもしれません」
突然の訪問に驚く娘へ、聖人は言った。
「ただし……、それは一夜の幻で終わってしまうかもしれない。それでも構わないのならば、あなたの恋人と共について来てくれませんか?」
娘は聖人の言葉に驚き、そして素直に喜んだ。けれど……、最後に少し困った顔になった。
娘自身の描いた夢に、何故彼女の未来の伴侶を伴わなければならないのか、その理由がわからなかったからだ。
娘は尋ねたが、聖人は微笑むばかりで答えない。
ただ、一言。
「喜びを誰かと分かち合うのならば、愛する方が良いでしょう?」
その言葉に娘は顔を赤らめ、そして一度頷くと恋人を呼びに出て行った。
やがて恋人を連れて戻ってきた娘を伴い、聖人は村の外れの森の中へと彼等を案内した。
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森の中。
木々が切れ、月の光が降るその場所で魔法使いは彼等を待っていた。
黒いローブを身に纏い、夜の闇に溶け込んで。
何処か異質な雰囲気を感じ取ってか、娘が少し怯えたような表情を見せると聖人は心配を振り払うように娘とその恋人に微笑んだ。
魔法使いはそんな聖人にちらりと一瞥を向けると、さて、と娘と恋人を顧みた。
「──さぁて、うまく行くかお立会い」
魔法使いはおどけた口調で口を開く。
「月の光は水、娘の願いは種──聖なる者の祝福はその苗床に」
歌うようなその言葉に、娘もその恋人もただ黙って聞き入るばかり。魔法使いは手に持った身の丈を超える大きな杖を一振りし、彼らの前の地面を叩く。
「「──育て、奇跡の花」」
魔法使いと聖人の声が重なった。
魔法使いは命じるように。聖人は祈るように。
──それは『呪文』。
それに呼応するかのように、杖が叩いたその場所から小さな芽が頭を出す。
つややかなそれは、真っ直ぐに降り注ぐ月光の下で、仄かに燐光を纏っているようだった。
「我が育成の力を受けし、あらざる緑よ。娘の願いを花開かせよ」
魔法使いは楽しげに呪文を唱える。
すると、その呪文を口にした途端、闇に沈んでいた彼の瞳は闇の中で緑に輝いた。
「……さあ、あなた達も」
ただ魅入られるように目前の光景を見ていた娘と恋人に、聖人は優しく語りかけた。
「願い……そして祈りなさい。その時、この魔法は完成する。祈りこそが不可能を可能とするのです」
その後を引き取るように、魔法使いは謎かけのような言葉を紡ぐ。
「そう……、そして花が開くにはあと一つ足りないものがある」
──ソレハナンダ?
恋人達は顔を見合わせた。
月の光──水。
娘の願い──種。
聖なる者の祝福──苗床。
──ナニガ、タリナイ?
奇跡の花は見る間に育ち、蕾をつけた。けれど、そこから先には進まない。
娘の願いは叶わない──。
「ああ、そうだ……」
娘が途方に暮れた時、思いついたように娘の恋人が呟いた。
花が開く為に必要なもの。けれど、娘にはわからないもの。
彼にはその答えがわかった。ずっと娘の側で、娘を見守りつづけた彼だからこそわかったのだ。
それこそ、聖人が彼を伴った理由。
「足りないものは、『光』──」
硬い殻に覆われた『種』が育ち、花開く為に必要な『光』。
闇ばかりを見てきた娘が、見出した光。
光は決して、陽の光だけを示す訳ではないのだ──。
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かくして奇跡は花開き、娘の願いは叶えられる。
魔法使いはやれやれ、と苦笑混じりに肩を竦め、聖人は喜びを分かち合う恋人達を微笑んで見守った。
満月の夜に生まれたその花は、今も満月の夜だけ花開き、その姿を見せると伝えられている。
そして、その花を見る事が出来た恋人達は、互いに生涯の伴侶になるという。
かつて、それを生み出した恋人達がそうであったように……。