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狂い回る歯車 【Ⅲ】

野外活動最終日、結論からいうと「また明日」という台詞が叶うことはなかった。三十八℃の熱を出した仁は皆より数時間早く帰省するのを条件に、鳥羽との会合を避ける形となったからだ。

実は沖塩神社がバスの最終出発地付近だったこともあり、仁の班は自由行動の最後に参拝する予定だった。仁達だけでなく、沖塩神社をルートの一つに組み込んでいる班の殆どが同じ考えだろうというのは、想像に難くない。

発熱というイレギュラーの事態が起きなければ、鳥羽と顔を合わせる可能性は断然高かっただろう。体のしんどさに辛い思いはあったが、それよりも鳥羽との接触がなくなったことが実に喜ばしかった。

朦朧とする意識の中で、仁は先日の晩の出来事を思い出す。急に熱を出したのも、考え過ぎによるものだと診断された。言わずもがな、鳥羽に関することが原因だ。

彼の起こす行動は、もはや仁の想像の範疇を超えていた。

あれはいつのことだったか。以前、口の端に付けていた食べ滓を目の前で掬われ、口に含まれたことがある。大衆の前とあって突き刺さる視線に羞恥で苛まれ、更に黄色い悲鳴が飛んできたときは脱兎の如く逃げ出したくなった。

昨夜は、人目のない場所だったのは幸いだが、行われた行為は食べ滓を目の前で食べられることより恥ずかしい。


――――「なぁ、仁。俺、お前を俺なしでは生きてけないようにしてやりたいよ」


あの台詞を耳元で囁かれた瞬間、中学時代、家庭科室からグラウンドにいる仁を注視していた、あの憎悪と悲哀が入り混じった瞳が脳裏を過ぎった。鳥羽は恐らく、仁がサッカー部に入部したあのときから、昨日の台詞を言いたかったに違いない。もしかすれば中学校に入学する前に駄々をこねていたあの頃から、漠然とそんな思いがあったのかもしれない。……さすがにそれは考えすぎであってほしいが。

……ともかくもう、何も知らずにいた小学生時代には戻れない。



ふと瞼を上げると朱色の日差しが眼球を刺激し、眩しさのあまり再び閉じたくなった。しかし日射を遮るよう眼前に手を覆った瞬間空腹を訴える音が鳴り、止むを得ず起き上がることにする。ホテルで粥を食してから今まで何も口にしていなかったので、薬を飲むにしてもその前に何か腹に入れておかなくてはならない。

パジャマからジャージに着替え台所に向かうが、共働きの両親が帰ってきた様子はなかった。正午前に帰宅した際に一瞥したまま――食器棚を弄った様子もなく、シンクの底にはインスタント容器と割り箸だけが乱雑に置きっぱなし――の状態だ。家事能力ゼロの両親に対し、息子は溜息を隠せない。

家庭では生活能力怠慢な父母だが、外では有能なサラリーマンと社長秘書なのだ。仕事への情熱を何故家でも生かせないのかとつくづく思う。

今回は二泊だけだったから良かったものの、自分が一昨年のように入院などして家を離れなくてはならなくなった場合、彼らの食生活はどうなるだろうか。またコンビニ通いをするつもりなのか。

冷蔵庫を開けると、中はほぼ空だった。卵一つさえない。

「そういえばお米もないんだっけ……」

野外活動前日に米を切らしたので、帰り次第買いに行こうとしていたのを思い出す。だから当然、炊飯器の中も冷蔵庫同様だ。仁に家事を任せきりの両親が米に気を配っているなど、あるはずもない。インスタント食品を仕舞っている棚にも目を向けるが、案の定何も無かった。

仕方なく、財布と鍵だけを持ってコンビニへ出向くことにした。経済面を考えればスーパーマーケットの方が安価ではあるが、熱に奪われつつある気力と体力を考慮すれば、早く薬を飲んで休みたいという気持ちが何よりも優先とされた。それに卒業したにも拘らず中学校のジャージを着用している身としては、短時間で用を済ませてしまいたい。

籠に三人分の弁当と翌朝の為の食パン、それにスポーツドリンクとヨーグルトを入れてレジに並んでいると、声をかけられた。

「あれ、杉林?」

熱でぼんやりとした意識のままそちらを見遣れば、中学時代の同級生だった園田と剣が立っていた。卒業以来顔を合わせていなかったが、まだまだ成長期の最中らしい彼らは仁より十センチは背が高くなっていた。部活帰りらしくジャージ姿で、肩からスポーツ用のショルダーバッグを提げている。

会計を終え「久しぶり」と二人に近付くと、足がふらついた。

「大丈夫か?」

「無茶すんなって。熱あるんだろ?」

園田に支えられ、手に持った買い物袋を剣に取られたが、それらのことに礼を言うよりも先に、湧き出た疑問の方が口を割いた。

「しんどいの、そんなに顔に出てる?」

「ああ、それは、まぁ……」

煮え切らない態度で剣は横にいる園田に顔を向け、対する園田も戸惑った表情をしている。言うべきか、言わざるべきか。そう物語っていた。

二人の醸し出す困惑に中てられ、自然とその理由が悟れた。

「もしかして……鳥羽と会った?」

ギョッとしてこちらに注目する四つの眼に、仁は縋るように視線を返す。

「お願い、日没まででいいから……。まだ家に帰りたくない……!」

二人の袖を掴んだ両手は昨晩と同じように、一人の男に対する恐怖で震えていた。

仁が一足先に野外活動から戻ったという情報を耳にした鳥羽の次なる行動が、否が応にも読めてしまった。



ジャングルジムと二つのブランコ、そして小さな砂場しか設置されていない公園のベンチに、三人は腰を下ろした。爪先から伸びる影は三つの人の形を細く流しているが、真ん中に座る仁のものだけ両脇のそれに比べて頭半分の差があった。それに横幅が異様に目立つ。

「杉林、麻生学院に行ったんだってな。俺らより成績悪かったのに」

「うん。中二の夏休み目前くらいからかな、死に物狂いで勉強した。……二人は誠和高校だよね。サッカー部?」

「ああ、大文字先輩に引っ張られたんだよ。俺は中学になかった部に入りたかったのに。ラグビーとか、ハンドボールとか」

「よく言う。一番先輩受け良いのお前じゃんか」

悠然と余裕の表情を浮かべる剣と、それを窘めながらも不満ではない様子の園田。中学から変わっていない二人のスタンスだ。

相変わらず仲が良いと仁は顔を綻ばせるが、それもすぐに萎んでしまう。鳥羽と出会ってから数年は、冗談を絡ませた会話というのは日常で、お互い和やかな雰囲気で笑っていられた。しかし今となってはもう、あの頃のような関係に戻れるなど露ほどにも思えない。そう願うことさえ、とっくに諦めている。

影を背負い込んだ仁に気付き、二人はふざけ合うのをやめて気まずそうに視線を交わす。まずは園田が口を開いた。

「コンビニ行く前さ、駅前のスーパー寄ったんだよ。剣の食玩集めに付き合わされて。で、入ってすぐの野菜コーナーで葱持った鳥羽に会った」

一つ頷いて、剣も続く。

「麻生の一年は野外活動行ったって聞いてたから、それから戻ったってのは分かったんだけど……にしては変だと思った。だってそうだろ?あいつん家のお袋、専業主婦だから夕食の支度なんか気にする必要ねぇし。それにわざわざ駅前に行かなくても、家の近くにだってスーパーあんだし」

「だから訊いたんだ。野外活動帰り早々、おばさんから買い物頼まれたのか、って。そしたら……杉林が熱出して一足早く帰ってるはずだから、見舞いに行くって言われた」

ジジ……と電流の流れる音と共に、ベンチ脇の外灯に白い明かりが灯った。その所為で周りの暗闇が酷く目立つ。高いところからではどうなのか分からないが、ここからではもう日は沈んでしまっている。先程まで伸びていた影は今では直下に濃く刻まれていた。

しかし剣も園田も、日没までと言った仁の傍から離れようとしなかった。自分を気遣っているからに他ならないと、充分理解していた。そして何より、これから言おうとする言葉を聞きたいからだろう。

「鳥羽……二泊三日分の荷物、持ってた?」

「え?いや……」

「多分だけど、駅前のスーパーにいたってことは、家に帰らずそれまで持ってた荷物を駅のロッカーに預けて、買い物してたってことだよね……」

右に座る園田からは息を呑む音が、左の剣からは「マジかよ」という声が漏れる。恐らく二人共、一度家に戻ってから鳥羽は買い物に足を運んでいたと踏んでいたのだろう。しかしそれならば、わざわざ駅前でなくてもいいのだ。駅前だけでなく、他にもスーパーはあるのだから。ただ、この周辺で荷物を一時的に預けられる場所といえば、駅のロッカーしか思いつかない。そんな物を持って買い物をすれば邪魔になるのは一目瞭然だ。鳥羽が駅前のスーパーを選んだのは、荷物を置いてすぐに食料の買出しをしたかったから。加えて仁の家からそう遠くない場所だからだろう。

見舞いと称して、仁に近付く為に。

「……鳥羽の付き纏い、段々ヒートアップしてないか?さっき見たときだって、あれは友達を見舞うって雰囲気じゃなかった。あれはまるで――――」

「やめて!」

上半身を屈め、悲鳴を上げる。身を守るようにして左右の二の腕を抱き締めると、服の上からでも知覚できるまでに肌が粟立っていた。

どうして、と思う。恐れている同い年の男はここにはいないというのに、話を耳にしただけでこんなにも怯えている。震えている。涙が溢れてくる。

「杉林、帰ろう。家まで送る」

「熱あるのに、付き合わせてごめん」

剣と園田、それぞれの言葉に弱々しく首を振る。部活帰りで疲れているはずなのに、こんな時間になるまで付き合わせたのは自分だ。謝らなければならないのはこちらの方なのだ。

興奮した所為か、足元が目覚めたときより覚束なくなり、結局二人に支えられて家まで送られることとなった。三人が三人共、会話らしい会話はしなかった。重い雰囲気に纏わりつかれ、口を開いて舌を動かすことさえ億劫だったからだ。

沈黙が破られたのは杉林家の前に辿りついたとき。電気の灯っていない家のドアハンドルに一つ、スーパーのビニール袋が掛けられていた。

「やっぱり……」

溜息混じりの剣の言葉がずしんと、仁の心に乗っかる。酷く重い。それに、排気ガスで胃の中を洗浄されたかのように、不快感が込み上げてくる。

ビニール袋から伸びた太い白葱が、早くおいでよと手を振っているように見えた。



ヨーグルトと薬を飲んで自室のベッドに沈んでいると、傍に置いてあった携帯電話のランプが点滅していることに気付いた。そういえば外出していたときは財布と鍵のみを持っていただけで、それを持ち歩くのを忘れていた。着信用の赤色、メール受信用の青色、両方が交互に光っている。うとうとしていた意識は、画面を開いただけで冴えきった。

『着信 鳥羽恭士 五件』

『メール受信 鳥羽恭士 六件』

唾液を飲み込んで、まずは受信メールボックスを開いてみる。


『仁、寝てる?玄関にいるから開けて』

『チャイムの音聞こえてるよね?』

『いいかげん開けてくれない?ずっと立ってるから近所のおばさんっぽい人に見られてるんだって』

『もしかして外出中?つかどこいるわけ?』

『まさかケータイ持って行ってないとか?』

『親から帰るように言われた。ドアに掛けてあるのは俺が買った物だから。特製粥作ってあげられなくて残念』


メール文を見ている限りでは友達が単に心配しているように思える。最初の着信は仁が家を出た直後、そして最後は家に戻るほんの五分前のことだ。それまでの間、ずっと待っていたのだろうか。

五件の着信中三件が留守番サービスに登録されていて、念の為それらを聞くと、大体はメールと似た内容だった。

さすがに罪悪感を覚え悩んだ末、簡潔にメールを送ることにした。


『食料ありがとう、助かった。あと、ずっと待たせてごめん。おやすみ』

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