狂い回る歯車 【Ⅱ】
野外活動初日のレクリエーションでは班行動関係なく、敷地内ならばどこを散策しても構わなかったことから、仁はクラスメイトと雑談を交わしつつサッカーに興じていた。
しかしそのすぐ傍には鳥羽の姿もあった。
旧知の間柄で気兼ねなくいられるから、と鳥羽は周囲に説明していたが……実際は、仁を常に監視下に置いておきたいという強い趣意があった為だろう。それほどに、鳥羽から感じられる視線は強烈なものだったのだ。
「どうして隠れなかったんだ?」
「どうせ隠れてもいずれ見つかってたと思う。屋内にしか隠れられそうな場所なかったし、そんな人が出払ったところで見つけられでもしたら……」
そのような状況を想像しただけで身の毛がよだち、鳥肌が立つ。一体何をされるか分からないだけに、脳内で展開される恐怖は凄まじく強い。もがいてももがいても手足に絡みつく蜘蛛の糸のようだと思った。
「山岡は今でも、思春期による一時的な暴走だって思ってる?」
「………」
床の木目から視線を外さず沈黙していたが、答えは十中八九「ノー」だろう。胸中の思いを曝け出す先としていた山岡にさえ、仁は志望校を黙秘していたのだ。だのに一番知られたくなかった人物には情報が洩れ、結果逃げそびれた。
鳥羽の執着の理由が読めず、矛先を向けられる仁も、第三者の山岡も困惑するしかなかった。
二日目の山登りから実質的な班行動が開始されたおかげで、起床から曜日の変わる二時間前の今まで、鳥羽と鉢合わせすることはなかった。不思議なことに、電話やメールといった干渉すらないのだ。
「珍しいこともあるもんだな」
仁の胸の内を読み取ったかのように、隣りを歩く羽生が呟いた。二人は山登りの反省と明日の自由行動に備えた連絡事項を報告し合う会議を退席したところだ。一人が負傷、二人が一時遭難したとあって、三十分で終わるはずの会議は予定よりも二十分延長してしまった。早朝の起床と長時間のハイキングとあってか、会議に出席した大半の班長と副班長は夢うつつ状態で、終了次第足早に部屋へと戻っていった。
のんびりと廊下を歩いているのは、疲れ以上に鳥羽への不信感で目が冴えていた仁と、普段から就寝が遅いという羽生の二人だけだ。
「な、何が?」
「遭難。あんな分かり易い一本道でなんて。おまけに都築と佐伯さんだろ?中学が違うからあまりよく知らないが、二人共しっかりしてそうな印象があったから、意外だ」
「うん……」
偶数班と奇数班で歩いたコースは分けられていたが、都築と佐伯の班は仁達と同じルートを辿っていたはずだ。昼間踏んだ道を脳裏に再現してみるが、獣道を見つけるのは至難の業だと思えた。そのくらい明確な道筋だったのだから。
「珍しいといえば、今日は鳥羽を見てないな。いつもなら無理を押してでも時間を作って杉林に会いに来るだろう?」
不意にかの少年の話を持ち出され、軽く肩が跳ね上がった。
「でも今日は朝からバタバタしてたし……たまにはこんな日もあると思うよ」
そう言葉を濁すが、仁自身腑に落ちない思いをしていた。同じ中学校出身でない羽生ですら不審がるのだ。鳥羽の異常な干渉は、不本意ながら周囲にとって当たり前と捉えられつつある。
「あれ、誰の財布だ?」
自販機を横切った先で、小さな小銭入れがまるで見つけられるのを待ち望んでいるかのように、通路の真ん中に落ちていた。百円均一ショップで売られてそうな、何の変哲もない代物だ。
しかし金具に取り付けられたストラップに見覚えがあった。あれは一昨年かその前の年、鳥羽に誕生日プレゼントとしてあげた物だ。元は仁の引き出しの奥に眠っていた物だったが、強請られて頷き一つで手放した。
「とりあえずロビーに預けるか。麻生学院の生徒が落とした物だとも限らないし」
そう羽生が腰を屈めたときだった。
「あ、それ俺の。ここに落としてたのか」
前方からの耳慣れた声に、仁は肩を強張らせた。
「なんだ。これ鳥羽のだったのか」
「ああ、サンキュ。大事なモン付いてるからさ、正直焦った」
落としていたのが偶然だとしても、どうしてこのタイミングなのだと冷や汗が噴き出る。
……偶然?本当に?
図ったように登場した相手を疑心な面持ちで凝視していると、掌に乗せた小銭入れのストラップを指に摘んだ彼は、羽生の後方で立ち尽くす仁に目線を遣り微苦笑を浮かべた。
傍から見れば照れ臭さを誤魔化す愛想笑いに見える。だが視線のかち合った仁にとっては、疑念の色を濃厚にさせる動作にしか思えなかった。
「小銭より大事みたいだな、そのストラップ」
鳥羽の含んだ言葉と仕草に何かを嗅ぎ取ったらしい羽生は、首だけ振り返り仁を一瞥すると「先に部屋に戻る」と言い残し去っていった。
叶うことなら、仁も羽生の後を追って部屋に戻りたかった。「小銭だからって財布を落とすなよ」と軽く肩を叩き、横を通り過ぎることができたらどんなによかっただろう。しかし目の前の人物に畏怖し、焦心に駆られ、歯向かう牙さえ持ち得ない仁は、絡め取られた視線を外すことさえままならない。
「漸く会えた。仁……」
艶を含んだ甘みある声色で囁かれ、息を呑む。近付かれる歩数だけ後退するが自販機の側面にぶつかり、その衝撃で後頭部を強く打った。派手な音を立て、目の前に星が飛び散るほどの激痛がはしったが、それ以上に退路を絶たれた絶望に胸が震えた。
両手で後頭部を押さえ俯いてしゃがんでいると、クスクスと軽い笑い声と共に両脇に手が伸ばされ、挟み込まれた。
「大丈夫?」
仁の両手に鳥羽の右手が触れ、やんわりと後頭部から退かされる。その手が酷く温かかった。……逆をいえば、仁の手が冷えてきっているということだ。緊張と恐怖ゆえに。
「結構大きな音したし、たんこぶできなきゃいいけど」
掌全体でゆっくりと、労わるようにして撫でられる。
痛みを和らげる、優しい動き。愚図る子どもをあやす母親のようだとさえ思えるのに、何故か自身の指先は震え、動悸は叩くように脈打つばかりだ。
そんな仁に気付いたのか、鳥羽は撫でるのを止めて手を離した。
仁が安堵の息を吐いたのも束の間――――乱暴に顎を捕まれ、上を向かされた。
「ひっ!」
射抜くような冷たい視線。何の表情さえ浮かべておらず、まるで端整な能面そのものだった。愉悦も悲哀も、侮蔑や憤怒さえ窺えない、ただ冷たいだけの眼差し。睥睨しているわけでもなく、ただ真っ直ぐに仁を見つめている。
指先の振動がより一層小刻みになり、全身へ広がっていく。頭の中も白一色に染まり、思考という螺子は緩むことも締めることも忘れ、ただ胸の鼓動だけに耳を澄ませている。瞬きを忘れた双眸にはやがて水膜が張り、一粒、頬を伝った。
その光景に瞠目した支配者は次の瞬間、困ったような表情で小さく笑った。
「可愛いなぁ」
鳥羽の唇が、仁の頬に触れる。それだけでも飛び上がるほどの衝撃だったが、ピチャッという舐める音と濡れた感触を覚えたときには自身の聴覚と触覚を疑った。
零れ落ちた涙筋を遡るように、鳥羽は仁の顔を舐めていた。丹念に、味わうようにして舌先で頬を撫で、最後に眦へと辿り着いたときはチュウ、と音を立てて涙を啜った。
「………っ!」
「本当、俺だけの色に染めることができたら、どんなに素晴らしいだろうな」
唇で軽く睫を食まれ、一本一本唾液を纏わり付かせた舌で舐られる。
「……閉じ込めて、飼い慣らしてしまいたいんだけど、どう思う?」
それは自分をこれ以上に支配するということだろうか。こんなにも、これほどまでに鳥羽恭士という恐怖の色に染まってしまっているというのに。
「なぁ、仁。俺、お前を俺なしでは生きてけないようにしてやりたいよ」
毛穴という毛穴が全て開き、そこから一斉に冷や汗が滲み出た。
「そこにいるのは鳥羽と杉林か?もう就寝時間は過ぎてるぞ」
薄っすらぶれた視界で声のした鳥羽の後方を見遣ると、三組の担任教師が剣呑な雰囲気を漂わせて近付いてきた。癖なのか、スリッパと床を擦るようにして歩いてくる。
チッ、という小さな舌打ちにギョッとして肩を震わせるが、不機嫌そうな面持ちを確認するより先に、彼は後ろを振り返った。
「杉林が自販機に頭ぶつけたみたいで、ちょっと見てたんです」
「頭って、大丈夫なのか?」
「え、あ……はい、まぁ」
後頭部に手を当てると、微かではあるが熱を持っていた。別にこの程度なら放っておいても支障はないだろう。
「念の為、氷水で冷やした方がいいかもな。鳥羽は部屋に戻ってもう寝ろ」
「はい」
散々独占欲剥き出しの意思を向けてきた男は、仁の横を通り過ぎるとき「また明日」とだけ言い残し、去っていった。
「じゃあ従業員の人に氷水用意してもらうか」
教師がロビーへ行こうと足を翻した際、仁はふと違和感を覚えた。それが何か、すぐには分からなかったが、ホテル従業員に氷水を作ってもらいそれを手に宿泊室へと戻るときに、漸く気が付いた。
鳥羽の小銭入れは会議を開いた部屋から自販機を越えた場所に落ちていた。しかし鳥羽が帰って行ったのは仁が部屋に戻ろうとしていたのと逆の方向だ。つまりあんなところに小銭入れが転がっていること自体、不自然といえる。それにいつ小銭入れを落としたのか知らないが、先に会議室を出た生徒と仁達とでは、さほど時間差はなかった。あんな分かり易い場所に落ちていたならば、全員が無視しない限り誰かがロビーに届けていただろう。つまり鳥羽は仁が確実に気付くよう、意図的にあのストラップの付いた小銭入れを落としていたことになる。
羽生の言っていたとおり、鳥羽は無理を押して仁との共有時間を作り出したということだ。