狂人に囚われた証 【Ⅱ】
四限目が終了し、教室に戻ったところでタイミング良く姿を現した鳥羽に「具合が悪いから帰りたい」と訴えると、すぐさま顔色を変えて仁の手を取り、有無を言わさず早退手続きを取らされた。
体の具合を訊ねる鳥羽に寄りかかりながら、学校を早退したのはそういえば初めてのことだと、ふと気付く。密かに皆勤賞を狙っていたので残念だと思わないこともなかったが、放課後まで待てなかった。
早く鳥羽に伝えなければならない――――二人きりの、誰にも邪魔されず冷静にいられる場で。
「横になって寝てて。おかゆ作ってくるから」
マンションに着き、宛がったベッドに腰下ろした仁に優しい笑みを向けながら、鳥羽は踵を返そうと立ち上がる。
すると仁は唐突に、先程まで自分の腰に添えられていた手を掴んだ。決して強い力ではなかったが、その指先は微かに震えている。
「……仁?」
「騙してごめん。気分は確かに良くはないけど、でも早退しなきゃいけないほどの悪さじゃないんだ」
真っ直ぐに向けられる眼差しに怪訝な色を乗せながら、ゆっくりと一度瞬きをして、鳥羽は仁の横に座る。
「どうしても、落ち着いて話したいことがあったんだ」
「うん、聞くよ。教えて?」
掴まれている手をやんわりと解かれて、逆に指先を絡めるように繋がれる。すると、手の甲に唇が落とされた。
チュッと軽く吸う音を立てられ、思わず赤面して視線を一度外すが、口内に溜まっていた唾液を嚥下して再度視線を合わせる。
「僕と鳥羽の関係って、友達?」
「え……?仁、一体何を突然――――」
「答えて」
「……以前は友達。でも今は恋人でしょ」
恋人と断言されると同時に、仁は自分の眉間に皺が寄ったのを自覚する。
キス、愛撫、眼差し、言葉……鳥羽から仁へと与えられるそれらが贋物ではないことは、充分理解していた。けれども自分から鳥羽に向ける行動は、恋人に対するものでは決してない。断言できる。
「じゃあ鳥羽は、僕のことを愛してるの?」
「もちろん。そうでなきゃ――――」
「でも“好き”じゃないよね?」
「――――え?」
鳥羽の瞳孔が大きく開く。その黒い丸みの中で、自分の姿はどのように映っているのだろう。もしかしたら高校生の自分ではなく、痩せていた、あの夏休みの頃の自分なのかもしれない。そう思うと少しだけ、眼球が炙り出されるように熱く滾る。
幼き頃の自分は、何て罪深きことを犯してしまったのだろうか。後悔ばかりが胸を巣食い、心臓を掻き毟りたくなる。
「『愛されてないのかもしれない』。涙ながらに愚痴を零した僕に鳥羽が言った言葉、思い出したんだ」
「………」
「思えば、あの頃からだよね。鳥羽が僕に執着するようになったのは」
授業の短い休み時間の度に傍に寄ってきたり、席替えの度にクラスメイトに無理を言って仁の隣りに移動したり、放課後も日が暮れるまで毎日二人きりで遊んだ。
猜疑心が頭を擡げたのは中学校の入学式の日ではあったが、それ以前から傾向は見られていた。
そうさせてしまった、あの夏の日の夜に。
まだ小学生で、頭の中で考えられる選択肢も当然、指を折って数えられる程度だったろう。けれどもその中で、一番選んではならないものを選ばせてしまったのだ。
「鳥羽、もう充分だから。あれから四年だよ?僕はちゃんと愛されていたって、分かったから。お父さん達も僕が必要最低限のことができるようになったって認めてくれたからこそ一人にさせたんだって、今じゃちゃんと理解してるから。……だからもう、僕に構わなくていいんだ」
仁の手を掴んでいた鳥羽の指先から力が抜け、重力に逆らうことなく二人の腕はだらんとベッドの上に落ちた。
双眸を見開いたまま鳥羽はシャープな顎を引いて俯き、伸びた前髪で目元を隠す。
「今更だって、怒りをぶつけてくれても構わない。四年もの間、鳥羽を苦しめてたんだから。……でも、これだけは言わせて」
――――愛してくれて、ありがとう。
囁くようにして紡ぎ出したその響きは、後悔と感謝を半分ずつ滲ませ、余韻を残して室内に霧散した。
四年前、八月二十七日。
当時、仁と鳥羽は小学六年生だった。小学生最後の夏休みということで目一杯楽しもうと、厄介な宿題や家族行事は早めに済ませ、自由に遊び回っていた。
「うわっ、もう七時過ぎてる!母ちゃんに怒られるから、帰るな!」
時刻を確認して慌てて走り出した少年を筆頭に、集まっていた子ども達は次々にグラウンドを後にしていった。残されたのは二人の少年のみ。
「仁は帰んないのか?」
「もうちょっとだけシュートの練習しようかなって……。そういう恭士こそ」
「俺、今日鍵っ子なんだ。父さん達デートだって。帰るの十二時回るかもって言ってたし。だからとことん仁に付き合ってやるよ」
「……うん!」
暗くはなかったが、出会った頃から控えめな性格をしていた少年が不意に、自分だけに見せた笑顔。それに鳥羽は虚を衝かれた。
「恭士?」
名を呼ばれハッとしたように瞬きを繰り返し、一瞬でも動揺してしまったことに羞恥心を感じながら、鳥羽は仁に強めのパスを送った。
パス、ドリブル、シュート、PK戦の真似事など、大勢の友がいなくとも二人だけで存分にサッカーを楽しむことができたが、気が付けば日が暮れ、夜空に星が煌いていた。
「うっわ、もうすぐ八時だ!さすがに帰らねぇ?」
「うん……」
砂の上に転がったボールを抱き上げながら頷いた仁の声は、夜風に紛れてしまいそうなほどに小さなものだった。
こんな時刻になっても家に帰ることを渋っている様子に、さすがの鳥羽も訳ありだと勘付く。そしてその理由が自分と同じで鍵っ子だからだと直感した。
「何だ、仁も鍵っ子ならそう言やいいのに。よかったら家でご飯食べてく?母さんがカレー作り置きしてくれててさ、かなりの量だし、仁一人増えたところでどうってことないよ」
「え?でも……」
「いいから!俺もう腹ぺこぺこ!お礼にデザートでも作ってくれたらいいから」
強引に仁の手を引いた鳥羽は、自分の住むマンションまで連れて行き、作り置きのカレーをご馳走した。更に冗談で言ったデザート作りを本気で行おうとした仁に興味が湧き、暫くキッチンを使わせていたら、蒸しパンが出てきて驚いた。
このとき初めて、仁の趣味が料理だということを知った。
「え?!寒天とホットケーキミックスと牛乳でこんなんできんの?」
「恭士の家に蒸し器があったおかげだよ。デザートじゃなくて悪いけど……」
「でもこれメチャクチャ美味い!市販のやつよりマジで美味いし!」
「よかったぁ」
安心したようにホッと息を吐きながらも喜色を滲ませる親友の表情に、鳥羽はここに連れてきてよかったと思った。今日の仁はどこかいつもと違う。会話を交わしながら、どこか違和感が付き纏っていた。
それから小一時間ほどテレビゲームをして「そろそろ帰る」仁が立ち上がったときに鳥羽は時刻が二十三時を回っていたことに気付いた。日を跨いで帰るかもしれないと聞いていたので、自分の両親が帰宅する気配のないことは仕方がないとしても、仁の親からこんな時間になってまで電話一つないのはさすがにおかしいと訝しむ。普通自分の子どもが日が暮れても帰らなかったら、どこかの家で遊んでいるんじゃないかとか、もしかすれば変質者に襲われでもしてるんじゃないかなど、心配して色んな心当たりに連絡するだろう。自分は特に仁と仲の良い友達だ。一度も電話が掛かってこないなんてありえない。
「仁。お前、おじさんとおばさんは……?」
背中を向けて玄関先へと進めていた足が止まった。項垂れて露わになった首の後ろは、夏休み中外で遊んでいた所為か、日に焼けて少し赤くなっている。反対に着ているTシャツは真っ白で……双肩が細かく震えていた。
気付けば鳥羽は、仁の手を握って外に飛び出していた。後ろに連れている友達の嗚咽を夜道に零しながら辿り着いたのは、小学校の近くにある公園だった。人通りが少ないとはいえ、誰かに咎められるわけにもいかないので見つからないように、コンクリートでできた山型のトンネルの中に入る。
「……一昨年からだから、慣れてるはずなのにね」
鼻を啜り、目を擦りながら仁は言った。
「お父さんとお母さん、仕事忙しくてさ、いっつも帰ってくるのが夜中なんだ。夜更かしして待ってたら、夜の三時に漸く玄関から音が聞こえてくるくらい。それで三、四時間寝たらまた仕事。今回なんて二週間もまともに顔合わせてないんだ」
「え……」
「学校あるときは遅くても十一時くらいには帰ってくるんだよ。でも……夏休みとか冬休みって、お母さん達に会えない日が凄く多いんだ」
潤んだ瞳が星の瞬く夜空を映す。それが物凄く神聖で綺麗だと、鳥羽は思った。
けれどもそれはほんの一瞬のことで、俯いて自身の膝に目を遣ったときには暗くて寂しげな影が宿っていた。
「僕、お母さん達に愛されてないのかもしれない……」
眦に透明な雫が浮かんだのを認めたのと同時に、鳥羽は仁の頬を両手で掴み、自分の方に向けた。そして突いたように言葉が口から溢れ出ていた。
「愛情が欲しいなら俺がずっと、仁を一番に想っててやる!これからは絶対、仁に寂しい思いなんてさせない。約束する!」
「そ、そんなの無理だよ」
「無理じゃない!」
「ずっととか、そんな約束――――」
ゆるゆると首を横に振って、できっこないと告げる同級生の言葉を抱き締めることで封じる。
「破らない、絶対に!」
「無理だよ、そんなの……」
肩口に顔を押し付けられた状態で、仁は絞り出すようにして声を出す。
一人で過ごす夜に耐えられなくなって、つい仲の良い友達に甘えた結果、こんな遅くまで出歩くことになった罪悪感。そして弱った心に降り注がれた愚直で裏表のない、面映ゆい言葉。勿論、不信による困惑も涌き上がらなかったわけじゃない。
それでも、自分を想ってくれるという魅力的な台詞が例え今だけのものだとしても、縋りたかった。
一度に様々な感情が噴出して、それが大粒の涙となって頬を伝い、鳥羽のシャツにシミを作る。
「ホントに、ホントに約束できるの……?」
「ああ、絶対だ」
泣きじゃくる背を撫でているうちに仁は眠ってしまい、それから一時間ほどして、珍しくいつもより早く帰宅できた仁の親から連絡を受けた警察官が児童二人を保護した。
感情的になりながら寝てしまった仁は翌朝、両親からこれでもかというほどに説教を食らった。あまりの迫力にほろほろと涙を零しながら委縮してしまったのだが、最後に二人から頭を撫でられ、「いつも一人にさせてごめん」と謝られたことで、叱責の内に愛情が含まれていたことを察した。
それを理解できたこともあり、数日後には都合よく鳥羽との約束を忘れてしまったのだ。
だが約束を交わした片割れは、ずっと守り続けていた。例えその形が友愛から湾曲した歪みあるものと変わってしまったとしても――――