狂気の螺旋 【Ⅱ】
四月も半ばを過ぎて、クラスメイトの顔と名前が漸く一致するようになったそんなある日、入部希望用紙が配布された。部の見学は実力テスト終了後から許可されていて、既に仁は鳥羽と幾つかの部を見学し、興味のある部活動だけ仮入部という形で参加させてもらっていた。
「ひっとし!どの部に入るかもう決めた?」
弾んだ言葉と掴まれた肩に、内心びくびくする。触れられた手にいつ力が入るかと、緊張でほんの一瞬だけ体が強張ったが、どうにか表情を取り繕って相手を見返した。
四年来の付き合いである鳥羽は、仁の趣味が何であるかを知っていた。当然仁も、相手の好きなものを熟知している。同時に苦手なものも。
「調理部かな。女子ばっかりだろうけど、料理作るの好きだし」
アウトドア派の鳥羽は、細々とした作業はすぐに匙を投げたがる。それに、粗野を疎んじたがる傾向を持つ異性という存在を苦手としていた。中学校に上がり、お洒落や品を纏い出した女子というのは大抵、校舎内で活動する部活に入りたがるものだ。調理部ならば尚更だろう。
上げられる二つの理由から、鳥羽が調理部に入部する可能性は極めて低いと予測できた。
これで少しは溜飲が下がると期待を膨らませていたのだが、目の前の人物は見事にそれを一蹴してくれた。
「じゃあ俺も、調理部にしようかな~」
一瞬にして全身の毛穴が開く感覚がした。明るく、下心など臭わせない声色だったのに、仁は確かに粘度ある闇色を垣間見た。
触れられているのは肩だというのに、項に伸びているような錯覚さえする。
「でも恭士だったら運動部の方が向いてるんじゃ……」
硬直した状態であっても、震えそうになる声をどうにか押し留めて、搾り出すようにしてそれだけ吐き出した。
この直後、担任の号令で入部希望用紙の回収を促され、鳥羽は微笑を残して自席に戻っていった。仁の場所からは見えないが、入部希望という印字の下の欄に“調理部”と記しているに違いない。
机の中から取り出した用紙を数秒凝視した仁は、口の中に溜まった唾液を嚥下する。そして書かれていた文字を消し、震える手で違う言葉を書き綴った。
部活動初日、上級生や監督との顔合わせを終えた一年生はまずストレッチと外周五周を命じられ、その後ボール磨きも加えられた。
「でも意外だなぁ。杉林がサッカー部だなんて」
隣りでボールを磨いていた園田が言った。今年は別教室となったが、小学生の頃はクラスが一緒になった際、出席番号でしょっちゅう前後席だった。
「どんくさくはないけど、てっきり文化部に行くもんだと思ってた」
「つーか、鳥羽が調理部に入ったって方がありえねぇだろ。一体何考えてんだ、あいつ」
園田の後に続いたのは、中学校に入ってから知り合った剣だ。鳥羽と気が合うらしく、グループ内では二人の会話がよく弾む。内心ではきっと、自分じゃなく鳥羽にサッカー部に来てほしかっただろうと思うと、申し訳なさで胸が詰まる。
それでも仁は、鳥羽のいない空間にホッとしていた。学校内にいてここまで気が抜けた時間は初めてではないかとさえ思う。
「まぁ、決まっちまったもんはしゃーないか。それに俺、杉林に興味あんだよね」
「え?」
「俺達休み時間一緒にいるけどさ、あんま喋ったことないだろ。つーか杉林、鳥羽が促さないと喋んないし」
「んなことないだろ。確かにこいつは内気だけど、喋るときは喋るぞ」
ボールを籠に戻しながら、園田が言う。それに剣が「でも杉林が喋るとこ、あんま見ねぇぞ」と返した。
自分が話題の中心だというのに、仁の意識は別のところに向いていた。
案の定、鳥羽は調理部に入部した。
裏切りの代償、しっぺ返しがどうくるかと、肝が冷える思いを抱きながら週末を送っていたのだが、部活動が正式に決定した今朝からの鳥羽の様子はいつもと変わらなかった。
しかし杞憂で終わるはずがないと、直感が訴える。
麻生南中学校では一度入部すれば、特別な事情がない限り変更はできない。怪我の故障で運動部員が文化部に移動することはあるらしいが、文化部員が運動部に転部することはまずないだろう。
部室棟に近いこの場所は家庭科室から死角に当たるが、グラウンドは一望できる。暫く一年生は雑用や筋力トレーニングが主な活動となるだろうが、いずれは運動場の中心が主な活動場所となる。
とにかく部活中は家庭科室を見ないよう心掛けた。
一月後、漸くボールを使った練習を許可され、運動場の片隅でパス練習をしていたときだった。
剣の蹴ったボールが園田の頭上を超え、仁が組んでいたペアから受けようとしたボールとぶつかってあらぬ方向へと転がっていった。「悪ぃ!」と手を合わせる園田と剣に軽く手を振り返してボールを探せば、上級生が使用している範囲近くまで転がっていた。
それに気付き慌ててそちらに向かい、足で拾い上げた拍子に顔を仰ぐと、視線がかち合った。
瞳に深い憎悪と悲哀の色を滲ませて、こちらを睨んでいた。能面の如く表情には一切歪みを浮かべていないというのに、瞳孔の黒みがやけに印象を掘り込んだ。目を少しでも逸らせば、息を吐く間もなく呑み込まれてしまいそうだ。
一瞬にして脳裏に焼き付いた。
「こら、一年。サボんじゃねーぞ」
頭を小突かれ初めて、視線だけで雁字搦めに捕らわれていたことを自覚した。
慌ててそちらを見遣れば、二年生の大文字が立っていた。部を率先して引っ張るエースとあって、年齢の割に上背で胸板も厚い。
「す、すみませんっ!」
「アイコンタクトは調理部員とじゃなくて、試合中でサッカー部員としろ」
「すみません」
同じ台詞を再度繰り返して大文字に一礼すると、仁は捕食者から逃げる小動物の如く足早にその場を離れた。
激しい運動をしたわけでもないのに、背中はシャツが張り付くほどぐっしょり濡れていた。汗ばんだ手を胸に抱いたボールに押し付ける。その手が微かに震えていた。
何でもいい。どんなに頼りなくても構わないので、何かに縋りたかった。そうでないと、恐怖の衝動が体の内側を食い破り、誰かにぶつけてしまいそうだったのだ。
怖い!
恐い!
離して!
放して!
助けてっ……!
………あのときの鳥羽恭士の顔が、ずっと頭から離れない。