狂人に囚われた証 【Ⅰ】
あの日を切欠に、仁はより一層体調を崩すことが多くなった。元々白かった肌の色は、今では不健康なまでに青白くなり、歩く動作さえどこか億劫そうだ。体育の授業では見学することが増え、室内授業でも黒板に答えを書くよう指示されれば乱暴な字で綴り、さっさと席に着く。
何より一番の変化は、あまり表情を変えなくなったことだ。これまでは離れた場所にいても誰かが言った冗談が耳に届けばクスッと小さく笑って密かに肩を震わせるような素振りも見せていたというのに、今となっては笑いで湧いた輪を虚ろな表情で見遣り、状況を確認すればすぐさま目を逸らしてしまう。
ただでさえ大人しかった仁はもはや、目立たない、陰気な生徒という印象を周囲から持たされている。
「杉林、お前最近ちゃんと寝てるか?クマ出てるぞ」
仁の顔を覗き込んだ姫宮が、自身の下瞼を目頭から目尻に沿ってなぞる。童顔に見えてもやはり高校生なんだなと、細くて長い指先と角張った手の甲に視点を置きながら、抑揚なく首肯する。
「夢見が悪いだけだから」
「でも顔色も日に日に青くなってるし、何かやつれて見えるよ。ちゃんとご飯食べてる?鉄分取ってる?」
「まぁ……それなりに」
瀬川の問いに、鉄分豊富なものって最近何食べたっけ、と内心首を傾げる。昨晩食べた物さえ記憶にない。
それでも毎日三食食事は取っているのは間違いない。朝、昼、晩と、食事の場では常に鳥羽恭士という監視者がいるのだから。
けれども食後に人目を盗んではトイレに駆け込み、胃の中のものを吐き出していた。ストレスの吐け口だった食事が、今度は拒否する方向にはしるなど、昔の自分には考えられなかっただろう。
これも鳥羽への拒絶の表れだろうか。何せ食卓に出されるものは全て、鳥羽の手作りだ。
「四限は自習だし、気分転換に行ってきたらどうだ?あいつと一緒に」
本に目を向けたまま羽生が指差した先は山岡だ。六つの目が一斉に自分に向けられたことに驚いたのか、山岡はおどおどと助けを求めるようにあちらこちらに首を回す。その様子を、近くにいたクラスメイトが「どうした山岡~?」とどこか楽しげな声で訊ねた。
「杉林って山岡と仲良かったっけ?」
顔を見合す瀬川と姫宮の横で、羽生が口角を吊り上げる。
「例え積極的に話しかけてこなくても、お前を心配してる連中は他にもいるってことだ。悩みの解決の糸口、見つかるといいな」
チャイムが鳴る二分前に教室を抜け出し、山岡に連れられた場所は一階の隅にある非常口の脇、社会科準備室だった。もうすぐ授業が始まるからか、廊下には自分達以外の人気はない。
「このあいだ先輩に教えてもらったんだけど、ここの引き戸、一度軽く持ち上げて横にスライドすれば、鍵関係なしに開くんだ」
ガタンという音を立てて開いたその部屋に入ると、中には本棚だけでなく、巻かれた土色の歴史絵や額に入った地図、汚れた地球儀など、年季の入った古びたものばかりが所狭しと並べられていた。まるで大掃除をするときにしか訪れない物置のようだ。カーテンの隙間から入る光が、舞い上がった埃を白く輝かせる。天井を仰げば蜘蛛の巣が張り付いていた。
「フットサルしたあの日から杉林のケータイに電話とかメールしても繋がらないんだけど……やっぱり鳥羽が?」
「うん、着信拒否設定された。山岡だけじゃないよ。剣や園田、それに大文字先輩のまで……」
「そっか、やっぱり園田のも……」
顎に手をやって一つ頷いた山岡は、カーテンの掛かった窓に近付く。
「園田?」
カーテンを押しやった所為で増量した光が室内に注ぎ込まれ、眩しさのあまり目を瞬かせる。カチッという音のすぐ後にガラガラと窓を開ける音がした。
吹き込まれる冷たい風に身を縮ませる。掃除の手が行き届いてなさそうなだけあって、確かにこの部屋は少し埃っぽいが、冬の冷気で換気しなければならないほどではない。サッカーで体を鍛えている山岡には堪えない寒さなのかもしれないと恨めしく思った矢先、第三者の声が飛び込んできた。
「いつまで待たすんだよ、山岡!」
「いいかげん寒ぃっての!」
「園田!それに剣?!」
ガチガチと歯を噛み合わせながら窓枠を乗り越えて入ってきたのは、他校である友人二人だった。学生服に身を包み、薄い鞄を持っている様子からして、学校帰りのようだ。
この時期から学期末テストが実施される学校もあるので、二人の通う誠和高校も午前中までだったのかもしれない。
「やっぱり非常口開いてなかったんだね」
「前もって予測してたなら休み時間にでも鍵開けといてくれ!」
「体育後の生徒やら先公やらいて、めっちゃ冷汗もんだった」
ポケットから取り出したカイロを擦りながら、二人は山岡に食ってかかる。
何故他校生である剣と園田がいるのか、茫然とする仁はとりあえず山岡に訊ねる。
「山岡、どうしてここに剣と園田が?」
「俺が山岡に頼んだんだ。杉林に電話しても通じねぇし、剣や山岡のも駄目。あまつさえ公衆電話から掛けてもコール音鳴らないわで、最終手段で強行突入に及んだわけ」
「強行突入って……」
園田の言い分に同意するように、山岡も剣も肩を竦めた。確かに携帯電話がほぼ着信拒否に設定された今の状況で仁を呼び出すには、鳥羽の目を盗んで山岡を使い、こっそり密会するのが一番の方法だろう。
「あの、それで園田は僕に用事があって呼び出したわけだよね?」
「ああ、ちょっと思い出したことがあってな。でもその前に俺……いや俺達、杉林に伝えたいことがあるんだ」
「伝えたい、こと……?」
大きく頷く剣。床に視線を向けて顎を引く園田。山岡はゆっくり瞬きをして、口を開いた。
「僕達はあくまで助力するだけで、実際は杉林と鳥羽の問題だから、第三者が介入するのもどうかなって気もあったんだ。だから前までは、どんなに時間がかかっても、二人が出した結論を待ってようと思えた」
「けど山岡から、杉林が徐々に元気なくなってるって聞いて、実際会ってみれば思ってた以上に顔面蒼白だし」
「だから言いにきた」
「これ以上友達が弱っていくのは見てられない」
「だから、終止符を打とう」
終止符――――
つまり今の仁と鳥羽の関係を絶つこと。
「……俺が杉林に話したかったことだけど、小六の夏休み、お前家出したことあったろ?家出したって聞いたのは、夏休み明けて事が済んだ後だったし、姉貴に一昨日言われるまでそんなのすっかり忘れてたけど」
小学六年生のとき――――そうだ、家出では決してなかったが、深夜零時を過ぎても家に帰らなかった日が一度だけあった。
「あの時期の俺んち、両親が仲違いして離婚の危機でさ、兄貴と姉貴に連れられて夜中放浪する日が多かったんだ」
「放浪って……」
小声で剣が突っ込みを入れるが、園田は一睨みしただけで続けた。
「小学校の近所の公園。そこの脇道通ってたら子どもの声がしてさ、山型のコンクリートでできた、登って遊ぶ遊具あったろ?真ん中が通り抜けできるやつ。そこにお前と鳥羽がしゃがんでて。……あそこで何を話してたか、覚えてるか?」
砂場の上に建てられた丸いコンクリートの下から見上げた、星が散らばる夜空。
そこで交わした小さな約束。
『僕、お母さん達に愛されてないのかもしれない……』
『ずっととか、そんな約束――――』
『ああ、絶対だ』
……忘れていた。ずっとずっと。
「杉林……」
溢れる涙を拭い、込み上げる嗚咽を堪えるため、仁はしゃがんで小さくなる。
終止符を打たなければならない。
心配する友人達のためにも。恐怖に怯える自身の為にも。
……何より、小さな約束の所為で“愛”に連なる感情のベクトルを仁に向けざるを得なくなった、彼の為に。