狂騒曲の終わりと始まり 【Ⅳ】
どれくらいの間、意識を飛ばしていたのかは分からない。最後に覚えているのは、仄かなオレンジの明かりの中で、隣りで眠っている男が眉を顰めながらも嫣然と笑んでいたことと、上下左右に揺さぶられながら、自分が今まで出したこともない嬌声を喉から迸っていたこと。
夢だと、これは現実じゃないと拒絶しようにも、喉からの、腰からの、今まで味わったこともない場所からの痛みが否定する。
仁に多大なるダメージを負わせた鳥羽は、剥き出しになった肩から伸びた右腕を仁の頭の下に敷き、左腕を緩く腰に回していた。癖のある黒髪を枕の上に散らし、薄く開いた唇からは一定の呼吸が繰り返されている。獰猛な眼光を向ける瞳は閉じられ、穏やかに眠るその表情は年相応のものだ。
整えられた細い眉。筋の通った鼻梁。シャープな顎のライン。彫りの深い顔立ち。街中で軽く笑うだけで異性が見蕩れてしまうのも納得できる。クラスメイトの美形、都築や羽生と並んでも劣らないだろう。
そういえばじっくりと寝顔を目にするのは、去年の修学旅行以来かもしれない。一緒に暮らし始めてから寝床を共にしているとはいえ、いつも鳥羽が後ろから仁の体に腕を回すという体勢だった。
鳥羽との出会いは小学生のときだ。もしクラスさえ違っていたならば……いや、せめて出会いが中学からであったならば、鳥羽とは挨拶を交わす程度の間柄だったに違いない。それなら、今仁が横たわるこの位置にいるべきは女の子だったろう。男として、羨みたくなるような違和感なき情景だ。
だのに、ここにいるのは柔らかい体をした女の子ではない。柔らかくとも、脂肪の付き過ぎた男子高校生なのだ。
数時間前に汗を滲ませていた為か、鳥羽の額に前髪の一部が引っ付いていた。それを指先で払うと、鳥羽が瞼を開かないまま微笑んだ。
「仁……」
恋人に囁くような、甘さを大いに含んだその声色に、胸が震えた。ほんの一瞬だけ、仁の頬に赤みがはしる。けれども次の瞬間にはその動揺を消して、射抜くような視線を眠る男に捧げた。
胸の奥底から徐々に湧き上がってきた憎悪。体を押さえつけられながら、嬲るように見つめられ、猟奇的な笑顔で囁かれた言葉の数々。逃げる術を見出せず、ハイエナのような執着心に押し潰され力を抜いた刹那、好き勝手に弄られた身体。あのとき諦念せず抗っていれば、何かが変わっていただろうか。否、この男は抵抗をやめるまで仁を殴りつけてでも陵辱せずにはいられなかっただろう。
暫くその寝顔を睥睨していたが、起き上がる気配はなさそうだ。ギリッと歯軋りの音を立て、腰に回された腕を解くと、仁は痛みを堪えて部屋を抜け出した。
スリッパだけ履いた、布一つ纏わない素肌に廊下の冷気が突き刺さるが、それに構わずバスルームへと駆け出す。
記憶の縁から蘇ってきた、自分のではない掌が、舌が、視線が這い回る感触。
怖い!
気持ち悪い!
痛い……!
大きく息を吐き俯いた途端、太腿から何かが伝う。訝しみながらそれを確かめれば、目視してその正体を理解するよりも先に、全身が粟立った。そして脳で知覚すると同時に汗腺が開き、ドッと冷汗が噴き出した。
「ひっ!」
目を瞠り、すぐさまコックを捻ってシャワーヘッドをそこに近付ける。温水の電源を切り替えてないので、出水は冷たいままだ。
羞恥心もへったくりもなかった。とにかく無我夢中でそれを掻き出す。一度そこから手を離したとき指と爪の間に血が混じっているのが視界の隅に入ったが、血とは別のものが付着しているのも見えて再び指を突っ込む。
「やだ!やだやだやだっ!」
狭い空間の中で仁の悲鳴が水の音に混じり反響する。半狂乱になりながら関節を動かして、掻き出す動作を繰り返し、気が付けば肩で息をしてしゃがみ込んでいた。
「はぁ、はぁ……」
臀部の状態がどうなっているかは分からないが、嫌悪感を催していた男の排出物は体外に掻き出せたはずだ。代わりに内部はかなり傷ついていることだろう。
足を濡らしながら流れる水は途切れることなく排水溝へと続く。視点を斜めにずらすと、水が出たままの状態でシャワーヘッドがタイルの上に転がっているのが見えた。水を止めようと正面を向いた瞬間、仁は再び正気を失う。
目の前の鏡に映る己の胸元に、幾つもの鬱血の跡があった。
「ああぁあああぁぁあ――――!」
頭を抱き、仁は泣き叫ぶような悲鳴を限界の限り迸った。
憤怒を、憎悪を、嫌悪を、失望を、殺意までも滲ませながらも、身体的にも、精神的にも雁字搦めに囚われていることを自覚する。
蜘蛛の糸に絡まれ、動きを封じられ、餌となるのを静かに待つ蝶のように。