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狂騒曲の終わりと始まり 【Ⅱ】

身支度をして壁に掛けられた時計を見上げれば、短針は七を過ぎ、長針は十一に差しかかろうとしていた。頃合いと見計らい、仁はそっと立ち上がる。

斜め掛けした小さなショルダーバッグにはタオル、スポーツドリンク、それに財布が入れてある。

携帯電話はテレビの上だ。二つに畳まれたそれは黒いコードによってコンセントへと繋がっている。点灯している黄色のランプは充電中の証。

それが消えた頃に、鳥羽は目を覚ますだろう。

鳥羽に足取りを掴ませたくないが為に、仁は秘密裏に外出する際、携帯電話を置いていく。今日の場合だと、充電中にうっかり忘れてしまったという言い訳ができる。

暇なときに弄って時間を潰せるその道具は、今時の高校生にとっては忘れて外出したとなると結構な痛手となるだろうが、十人余りしか登録されていないそんなもの、置いていこうが壊れようが、仁には何の感傷も湧かない。鳥羽と同居することになり、山岡との会話を減らさざるを得なくなった今となれば、やけくそでわざと捨ててやろうかとさえ思ってしまうときがある。

かの男が眠っている寝室をそっと覗いてみれば、ドアを背にして横たわっていた。布団が呼吸に合わせて上下しているので、今はまだ夢の中だ。

それを確認すると、なるべく音を立てず素早くマンションを後にした。

甘利と記された停留所に着いて数秒後、やって来たバスに乗り込むと前列には老人や子どもが連なって座っていた。後部席に目を向ければ、キャップ帽を被った山岡が手招きしている。

「おはよう」

「おはよう。うまく抜け出せたみたいだね」

山岡の隣りに腰を下ろすと同時にバスが走り出す。子どもが多い所為か前方は甲高い声で騒がしかったが、後ろは人が少ないおかげで風圧によって小さく鳴る窓の音さえ耳朶に届いた。

「ケータイ、置いてきてるんだよね?いつもみたいに」

「うん。充電中の状態にしてるから、そのまま忘れて出てきたって言えば、さほど問い詰められない……と思う」

「……確証持てないのが怖いね」

「次からどうやって抜け出せばいいかな?この方法も前に使ってるし、言い訳考えるのも難しくなってきた……」

自分に構うなと言ったところで、あの男は付き纏ってくるだろう。とはいえ正直に話すわけにもいかない。否応なく、家に連れ戻されるのは目に見えているからだ。

窓から見上げた空は段々と曇ってきていた。珍しく天気予報は晴れマークだったが、夕方には雪が降り出すかもしれない。今年は特に寒いと言っていたので下手をすればまた体調を崩す恐れもある。

時間が可能な限りフットサルを見学していたいが、また風邪にかかるのは困る。けれども薄暗くなってくる十六時なんて早い時間帯にマンションに戻るのも、断固拒否したい。

「確かにケータイ持たずに外出してたら、執拗に見つけようとするからね、鳥羽って」

溜息を吐き背凭れに体を預ける山岡を横目で眺めながら、ふと今の言葉を胸の中で反芻する。まるで鳥羽のそんな様子を目の当たりにしたような言い草だ。

そんな疑問が顔に出ていたのか、山岡は小さく唸りながら口を開いた。

「気分害したらごめん。杉林の交友関係って大体僕と被ってるでしょ。だから園田や剣に協力してもらって共同戦線張ったんだ」

「共同戦線?」

「杉林が鳥羽に内緒で外出してるときって、大抵一人のときや僕と遊びに行ったりしてるときだと思って。園田達に、もし鳥羽から杉林の居場所とか訊かれたら誤魔化してもらって、すぐ僕に連絡くれるよう頼んでたんだ」

「山岡……」

一人で街に出ていたときはかなりの確率で鳥羽に見つかりそのまま連れ回されることが多かったが、よくよく思い返してみれば、たまに園田達に出会ったときなんかは鳥羽に捕まらず、無事買い物や散歩を終わらすことができた。そして山岡と遊びに行くときなど、百パーセント鳥羽と鉢合わすことはなかった。

それが山岡や園田、剣のおかげだったことを始めて知った。

『次は麻生北中学校前です』

「あ、ここで降りるよ。剣が迎えに来てくれるって」

停車ボタンを押した山岡に、仁は小さく「ありがとう」と囁く。そんな仁に山岡は何も言わず、ただ微苦笑しただけだった。

バスを降りると剣が中学校の外壁に凭れてしゃがんでいた。口に含んでいるガムをクチャクチャいわせながら「久しぶり」と手を上げる。

「迎えありがと。コート、ここから遠い?」

「すぐそこ。でももうちょっと休ませて。大文字先輩の練習にお前らも巻き込まれたくないだろ?」

春に比べて短く刈られた前髪の下は汗で輝き、頬は赤みが差していた。こちらは厚着していても冷たい風が吹く度に体が震えているというのに、剣は「暑い暑い」と首元を手で仰いでいる。よほど大文字にしごかれたのだろう。

「噛んでるそのガム、食玩付きの?」

剣の唇から大きく膨らんでいくガムを眺めながら訊ねると、彼は口角を吊り上げ刹那、派手な音を立てて割った。

「二人とも食う?園田もクラスの奴らも、噛み飽きたっつって、誰も口にしてくんねーの!」

差し出されたガムを口にしてみるが、特に美味しいとは思えない。これを頻繁に貰っても、飽きて口にしてくれなくなるというのは納得できた。

「このシリーズのキャラストラップ集めてんだけど、あと二つ揃わねーんだよ」

携帯電話に取り付けられたストラップの数に、仁も山岡も顔を引き攣らせる。明らかに二十体以上の数が括られていた。派手好きの女子高生でさえ、ここまで酷くないだろう。

時間を確認した剣は立ち上がり「そろそろ戻らねーとヤバイかも」と率先して歩き出した。

「あと一時間位したら大文字先輩がすっげー敵視してるトコと練習試合でさ、このままだと練習前に体力なくなるっての」

「そうなんだ。じゃあ僕達結構いい試合見れるかもね」

高揚した様子の山岡に相槌を打つ。

久しぶりに鳥羽の束縛から逃れ、はねを伸ばせる時間を手に入れられたことが、山岡に劣らず仁にも興奮を味わわせてくれた。



「ほい、杉林」

フェンスに凭れて息を整えていた仁の眼前に、スポーツドリンクが差し出される。茫然と顎先を上げれば、中学の頃よりも大人びた大文字の姿があった。大人びたというより頑固親父のような顔付きになった、という方が正しいかもしれない。山岡はともかく、園田や剣あたりは影で笑いのネタにしていそうな表現ではあるが、太い眉と眉間の皺がそんな雰囲気を増長させてしまうのだ。

「どうも……」

途切れ途切れに礼を言い、すぐさまペットボトルを口に仰ぐ。持ってきたバッグの中にも飲み物が残っていたが、わざわざそれを取りに行く気力が残っていなかったので正直なところ助かった。

汗で流した水分を補おうとする仁の横に座り、大文字も持っていたスポーツドリンクを口にする。ある程度喉を潤すと、彼は仁の顔を覗き込みながら話しかけた。

「フットサル用のボールだからサッカーボールに比べて違和感あったろうけど、久々にボール触って、どうだった?」

ペットボトルの半分を飲み下し、小さく息を吐く。そして仁は小さく笑みを零しながら大文字に向き直った。

「楽しかったです。本当は見学だけでも良かったんですけど、実際ボールを蹴ったり、蹴られたボールをキャッチしたりして、中学の頃思い出しました」

「今日の試合、負けちまったけど、俺達はもっと巧くなる。勿論楽しみながらな。だから試合に出る、出ない関係なく、こうやってボール触りなくなったらいつでも来いよ、杉林。俺達は部活で時間の空いたときしか来れないけど、チームには学校の部活に所属してない同い年の奴や中学生とか、誰かしらここにはいるから」

再度飲み物を含んで「暗くなってきたな」と呟く大文字の視線を追うように、仁も茜色の空を見上げた。もうすぐ楽しかった時間に終止符が打たれる。既にこの場には仁と大文字の他、山岡、園田、剣の五人しか残っていなかった。

夜間用のライトも設置されてはいたが、柱には故障中の張り紙がされている。

大文字に告げた“楽しかった”という言葉は仁の真意だ。昨晩はなかなか寝付けずにいたし、目覚めたときは絶対に鳥羽を起こさぬよういつも以上に気を引き締めていた。おかげで鳥羽の妨害に晒されず過ごせた時間。純粋にボールを追いかけることもできて、過去の部活仲間達とも友情を育めたと思う。それが本当に嬉しかった。

「だー!もう駄目!山岡体力あり過ぎ」

「大文字先輩~、俺にもポカリ奢って~」

「自分で買え!俺の財布、あと千円しかないんだよ」

倒れこむようにフェンスに体を預けた剣と園田は、そのままずるずると座り込む。肩で息をし、先程の仁のように頭の上から脹脛まで汗だく状態だ。

「杉林、それ残り貰っていい?」

傍で息を整えている二人に比べまだまだ体力に余裕のありそうな山岡は仁の手からペットボトルを取り上げ、中身を全部飲み干した。

「俺も先輩のもーらい!」

「あ、園田!」

「園田ずっりぃ!俺の分も残せよ」

「つーか俺のだ!勝手に飲むな!」

ペットボトルを取り返そうと躍起になる大文字をかわしながら、園田と剣は口に含んでは相棒へ投げるという動作を繰り返す。バテた、疲れたと愚痴を零していたのはほんの少し前だというのに、他人をからかう為の体力はまだ残っているらしい。

そんな三人に笑い、立ち上がりながらふと時刻を確認しようと、入り口に設置された時計を見遣ったときだった。

「あ……」

時刻を確かめるより先に目に付いたのは――――毎朝と同じようにワックスで柔軟なうねりを作った黒髪。昨年のこの季節にも羽織っていた同色のジャンパー。文化祭の景品で当てたというマフラーに、破けた細身のジーンズ。何より仁の誕生石でもあるガーネットを左耳につけた、端整な顔立ちの男。

「鳥羽……」

仁の視線を追ったのか、園田が呟く。

それを聞き取ったらしく、剣も大文字も動きを止め、場は静まり返った。

緊迫した雰囲気の中、唇の端を上げ、笑みを模った鳥羽は五人に向かって歩き出した。

「剣、園田も久しぶり」

「あ、ああ……」

「鳥羽の方こそ……」

名を呼ばれた二人は戸惑いを隠せない様子で返事をする。無理もない。鳥羽は五人の内ただ一人しか視点に捉えていない。

それを察し、彼について余り詳しくない大文字でさえ、固唾を呑んで黙していた。

仁の前で立ち止まった鳥羽は何も語らず、ただ黙って目の前の相手を見下ろしている。

額に冷や汗を浮かべ、脳裏を真っ白にさせた仁の横に立ったのは山岡だ。

「わざわざ杉林を迎えに来たの?」

自分よりも背の高い鳥羽を仰ぎ見ながら、山岡は問う。

鳥羽は目線だけを動かし、山岡を見返す。口元は笑みを浮かべたままなのに、動かされた瞳は冷徹そのものだ。

その視線に怯み、堪らず横に立つ仁にヘルプのアイコンタクトを送ろうにも、当の仁は蛇に睨まれた蛙の如く固まっていた。震える眼球は捕食者だけに注がれている。

「十時過ぎに目が覚めて、それからずっと仁を捜し回ってた。学校とか、前に住んでた家とか、馴染みの本屋や街にも出向いたけど……まさかここでフットサルしてたとはね」

「や、でもわざわざ捜し回る必要性もないんじゃね?小学生じゃあるまいし」

弁解するように慌てた様子で鳥羽に近寄りながら、園田は言う。

「ケータイ忘れて行ってたから……って言えば、言い訳になるだろ?」

仁の眼前に携帯電話を翳した鳥羽は、更に笑みを深くする。

シルバーのそれを握らさせる手が、酷く暖かく感じた。フットサルで体を温めたばかりだというのに、体が緊張によって冷え始めている。

帰ったらするはずの言い訳が、まさか逆に利用されるとは思いもよらなかった。

殆どの休日、鳥羽に何も告げず外出することが多かったのを知っている山岡、園田、剣は動揺した眼差しで状況を窺っている。

全く事情を知らない大文字も、仁と鳥羽の噂は中学時代に耳にしていたし、以前病院で彼が友人に対してするには些か違和感ある心配を仁にしていたのは目の当たりにしている。けれどもこのまま硬直させておくにもいかないと感じた彼は、仁に呼びかけた。

「とりあえず誰かから着信なかったか、確かめたら?」

「あ……」

声をかけられて漸くハッとした仁は、言われるがまま携帯電話の着信履歴や受信メールを確認した。

朝から今までの間に着信も受信も入った様子はなかった。密かに鳥羽が履歴を削除した可能性も無きにしも非ずだが、今まで何一つ連絡のなかった日など――鳥羽に関しては毎日何かしら電話やメールがあったが――多々あったので、その可能性は低い。それに仁はメールにしても電話にしても、用が済めば履歴は全て消している。何か探ろうと弄ったとしても、何一つ掴まれる情報などなかったはずだ。

仁が正気を戻したことにホッと息を漏らした剣と大文字とは対照に、山岡と園田は青褪めていた。

絡んでいた視線の交わりが解かれた途端、鳥羽の表情が一変したのだ。眉間に皺が刻まれ、眦が微かに吊り上がり、凍てついた瞳はより一層冷たさを増したように見えた。携帯電話に集中していた仁は気付かなかったが、傍にいた二人の耳には確かに歯軋りの音が聞こえた。

一通り操作を終えた仁が顔を上げようとする動作に察すると、鳥羽は刹那で表情を消して再び微笑を浮かべた。

「そういや仁、俺まだお礼聞いてないんだけど」

首を傾げておどけた様子で言う目の前の相手に硬い面持ちで向き合いながら、仁は小声で「ありがとう」と告げる。

どんなに鈍い相手でも、何度もされれば気付くはずだ。特に今回など同じ家に住んでいるのだから、ワザと携帯電話を置いて出かけていたことなど明白だったろうに。だのにわざわざ礼を言わせるなど、普通に考えるのならば皮肉だと捉えられるだろう。それでも鳥羽の場合に限れば、第三者の立場である山岡達でさえ恐ろしさを感じてしまう。

避けられていると分かっていながらも、気弱な仁の性格に付け込んで逃げ道を塞ごうとする異常性。それに帰る先が自らの家だと認知しているにも関わらずハイエナのように付け回す執念に。

「じゃ、もうじき日も暮れるし、帰ろうか」

恋人に言い聞かせるような甘さを含む声で囁きながら鳥羽が仁の手に触れた瞬間。

――――パンッ

乾いた音が真空を震わせ、周りの緊張と恐慌がより一層強張り、引き締まる。

「あ……」

後ろへ一歩下がった自身の足音で、仁は状況を把握する。

払ったのだ、鳥羽の手を。

恐る恐る見上げた先に、瞠目した鳥羽がいた。信じられないと言わんばかりの面持ちで仁を凝視している。

「に、荷物を取りに行こうとしてたんだろ?な、杉林」

急に張った声を出した園田に肩を跳ね上げ、思わず顎を引いて目線を彷徨わせると、仁は瞼をギュッと閉じて駆け出した。

背後で山岡達が仁の名を呼ぶが、その中に鳥羽の声が混じっていたかどうかは分からない。とにかく無我夢中でバッグを取りに走り、そのままグラウンドを後にした。

麻生北中学校の前まで駆けるとタイミングよくバスが停まり、それに乗り込む。甘利までの約二十分間、車内で何を考えていたかまでは覚えていない。ただ心拍数は運動していたときのように速かった。

マンションに着く頃には完全に日は沈み、辺りは人工の光と車の行き交う音に包まれていた。

重い足取りで家の鍵を開けるが、誰もいない室内は当然暗闇に覆われている。靴も揃えず明かりも付けないまま、覚束無い足取りで宛がわれた部屋へ向かい、適当に荷物を放るとそのままベッドに沈んだ。

スプリングに揺られながら瞼を閉じる。そこに浮かんだのは、手を払われて驚愕した鳥羽の姿。

傷つけた。反射的にそう思った。一見そうは見えなかったものの、一瞬揺らいだあの瞳は、確かに振り払った瞬間に切なく動いた。

罪悪感が胸を締め付け、それを紛らわすように毛布をきつく握り締めた。

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