狂騒曲の終わりと始まり 【Ⅰ】
新学期が始まって実力テストを終えた日の放課後、仁は教科書を片手に、図書室で問題集と睨み合っていた。二学期に学んだことを思い出せず、試験では半分ほどしか解答欄を埋められなかったのだ。英語、数学、生物……得意の現代文さえも空欄が目立っていたように思う。名前を書いた後、問題文を理解できずに暫く鉛筆を止めていた教科が殆どではなかったか。
「順位、初めて三桁いくかも……」
それよりも平均点を取れているかさえ怪しい。寧ろ、補習を免れない可能性が充分にあり得る。
ネガティブな考えが頭の中を駆け巡り、ついにその重みに耐え切れず突っ伏そうとしたそのとき、背後の窓がコンコンと叩かれた。
つられるように振り返れば、ジャージ姿の山岡が立っていた。体を動かしていたらしく頬が紅潮し、額にも汗が滲んでいる。仁と視線が合うと鍵を指し、ロックが掛かっていることを示唆した。
「どうしたの?」
隙間から入ってくる冷気に身構えながら窓を開けると、吐息が白く染まり、外へと流れて出ていく。返答した山岡の息も、それを追うようにして同じ方向へ消えていった。
「去年、鳥羽の家に住むことになったってメール貰ってから、全然話してなかっただろ。だから心配してたんだ」
「風邪がなかなか治らなくて。それに、頻繁にケータイ触ってたら怪しまれるって思ったんだ。……返信できなくてごめん」
「それはいいけど、今ちょっと出れる?図書委員がこっち睨んでる」
顔だけでそちらを見遣れば、眼鏡を掛けた上級生らしき生徒が声に出さず『早く閉めろ』と口パクしていた。
「外出るよ」
「じゃあ校舎裏の水飲み場に」
仁は窓を閉めて散らかしていた机の上を片付けると、足早に図書室を後にした。勿論その際、図書委員に軽く頭を下げることを忘れない。彼は仁を一瞥しただけで、すぐに読んでいた本へと目線を外した。
校舎裏には既に山岡が待ち構えていた。辺りには誰もいなかったが、グラウンドから聞こえてくる幾人ものかけ声が混じり合い、図書室のような静寂さはない。
水飲み場の縁に腰掛けていた山岡は仁の姿を認めると片手を上げた。濡れていないことを確かめると、仁もその横に座る。
「部活中じゃなかったの?」
「今日は自主練。テストで自信なかった人達が多かったみたいで、七十点未満が一つでもありそうな部員は全員部室で勉強中」
「七十、ありそうなんだ……」
「七十五未満なら、僕も部室で缶詰だったけど」
朗らかに景気良く話す山岡の傍ら、仁は影を背負って俯く。
聞けば山岡は中学時代から予習復習を欠かさない努力家で、例え部活後で疲れていようとも家に帰れば必ず勉強するのだという。次男坊とはいえ、病院を経営している父親を持つ息子として、将来医者になるという選択肢も視野に入れているのかもしれない。
そんな彼の隣りに座る仁とて、鳥羽と同居する以前は参考書を片手に鉛筆を握って机に向かっていたのだ。
「杉林、今日は鳥羽と一緒じゃなかったんだね」
のろのろと顔を上げると、眉尻を下げて心配そうに瞳を揺るがせた顔があった。思い返してみれば、大晦日に状況報告をして以降、お互い連絡を取り合っていなかった。
以前仁が胃痛で倒れたのを目の当たりにしたこともあり、山岡は仁に対し深い同情を抱いている。けれども所詮は他人事と見做している部分は、きっとあるのだろう。彼もどちらかといえば押しに弱く、踏鞴を踏むのを避ける内向的な性格をしている。とはいえ、黙って見過ごすには後味が悪いと思っているのは確かだ。
悪人ではないが、頼りにするには心許ない。……いや、そもそも山岡に頼ること事態が間違っている。
これは仁が乗り越えなければならない問題なのだから。
「委員会に出なきゃいけないから図書室で待つよう言われてたんだ。帰りに食材を多めに買うから付き合えって」
「そっか、鳥羽は五組の副委員長だったっけ」
意外だという響きを乗せて言う山岡に、仁は答える。
「基本的に、鳥羽は統率力あるし、頭の回転も速いよ。所謂カリスマ性っていうのかな?小学生の頃から、同級生の中じゃそういう頭角を既に表してたと思う」
「正直な話、僕は一度も鳥羽と同じクラスになったことがないから、杉林の話を中心にしか鳥羽のイメージ像って掴めてないけど……園田も剣も、杉林のことに関さなきゃ、鳥羽は“まとも”に目立つタイプだって言ってた」
ポツリポツリと語った山岡は窺うようにして仁の顔を覗き込み、目の合った次の瞬間大きく息を吐いた。
仁もほぼ同じタイミングで溜息を吐く。
多少内容は異なれど、似たような会話はこれまでにも何度かしてきた。不毛と感じながらも仁は、そして同じように山岡も、語らずにはいられない。堂々巡りの趣旨だと自覚していながら、主婦の井戸端会議のように言葉にして吐露するしか、気持ちの吐け口は見つからないのだから。
「……そうだ、園田と剣で思い出した」
ジャージの上に着込んでいるジャンパーのポケットに両手を突っ込みながら、山岡は少し浮上した面持ちで言う。
「今度の日曜にフットサルやるんだけど、杉林も来ない?」
「フットサル?」
「北中の近くにフットサルコートが新しくできたの知ってる?大文字先輩が最近チーム作って、園田と剣も引き込まれたみたい。それで園田が僕にも入らないかって」
「入るの?」
「とりあえず見学。こっちの部活もあるし。で、よかったら杉林も一緒に来ない?」
野外活動の一日を除けば、中学三年の夏以降、ボールに触れていない。
シューズの底が土を蹴る音。足の甲に触れる固い感触。ゴールに向かってくるボールを跳躍して横へパンチングする動作。声かけ。ミーティング。ボール磨き。キーパーというポジションではあったものの他の部員同様、パス、リフティング、走り込みなど、同じ練習量をこなしてきた。
一年以上が経ち、是が非にやりたかった部活でもなかったというのに、白と黒の重みのある球体にぶつかっていた感覚が足に、掌に、全身に染み付いている。
「……久しぶりにやってみたい、な」
気付けばそう声に出していた。
「太ってからは体の動きも鈍くなって、怒られたり影で笑われたりして、嫌な思いしたときもあったけど、ボール蹴ったり投げたりすること自体は楽しかった。見学だけでもいいから、行ってみたいかも」
仁の言葉に山岡は破顔し頷いた。恐らく仁がフットサルに来ることを予測していたのだろう。
「じゃあ園田に連絡しとくね。一応場所は聞いてるけど行ったことないし、待ち合わせしよう。それより杉林、日曜朝からだけど……鳥羽にバレずに抜け出せる?」
再び困惑した表情になる山岡が安心できるよう、首を大きく縦に振る。
「鳥羽は朝が凄く弱いんだ。山岡も一度、中学のとき見たことあるはずだけど……」
「……あぁ、修学旅行」
あれは昨年行った修学旅行三泊目のときだ。
仁と山岡の二人部屋に鳥羽が現れ、不機嫌を露にして急に仁を抱き締めると、そのまま就寝したのだ。来訪者の突飛な行動を目の当たりにした山岡と、身動きの取れない仁は当然熟睡できるはずもなく、漸くカーテンの隙間から日が差した頃には揃って目の下にクマをつくっていた。二人をそんな状態にした元凶は起床時間になっても目を覚まさず、山岡が肩に手を掛けた瞬間唐突に瞼を開き、そして据わった目できつく睨みつけた。
「気安く触るな」
普段より一オクターブ低いその声は、修学旅行が終わった後も暫く山岡の耳の奥に残っていた。
「日曜なら尚更早起きなんてしないよ」
「そっか。じゃあ待ち合わせも早い方がいいよね。鳥羽の家の近くにあるバス停ってどこ?」
「えっと……甘利だったかな」
仁が答えた直後、ポケットに入れていた携帯電話から着信音が鳴った。登録している唯一の洋楽で、それを設定しているのは――――
「……鳥羽?」
一目瞭然に表情を歪めてしまったらしい。
「日曜日、八時台最初の北区行きのバスに乗って。それに合わせて僕も同じバスに乗るから」
「それじゃ」と手を上げ、山岡は去って行った。
足音がグラウンドの掛け声の中に紛れ込んだのを確認し、仁は通話ボタンを押した。