狂宴が幕を開けた 【Ⅱ】
両親の働いていた会社が倒産したその日の夜、父方の祖父から電話があった。
子機を持って書斎へと場所を移した父はそれから二時間、部屋から出てこなかった。リビングを後にする際に口に出していた言葉の端々に嗚咽が混じっていたことは、聞き間違いではないだろう。
大学を卒業して三十年余り、父はあの会社に尽くしていたのだ。辛いことも勿論あっただろうが、それを含めて強い思い入れがあったに違いない。
「……父さんが、あっちで暮らさないかと言ってきてくれた」
再びリビングに戻った父の言葉に、母も仁も異論はなかった。
経営圧迫で資金が上手く回らなくなってから、両親は会社という組織に必要以上に拘束されていたのだ。緑の多い長閑な田舎暮らしは、コンピュータや腹の探り合いが常だった今までとは全く環境が異なるとはいえ、陰鬱とした今の状態を少なからず和らげてくれるはずだ。
そうなると、仁は学校を転校することになる。寮から通うという方法もあったが、すぐにその考えは打ち消した。
引っ込み思案というより陰気という言い回しの方がしっくりとくる自分に、毎度挨拶をくれるクラスメイト。休日、隙を見てはサッカーに誘ってくれた剣や園田。毎日のように心配してくれた山岡。
彼らと別れるのはすごく悲しい。だからこそ今回のことを非常に残念に思うし、両親を失業に追いやった会社が憎かった。
しかしそれ以上に、冷たい悦びが胸の内を密かに湿らせた。
鳥羽の束縛から解放される――――
それは今、何よりも仁が望んでいることだ。
不謹慎を自覚しながらも口の端を不器用に歪ませたそのとき、チャイムが鳴った。
「はい」
ふと時計を見上げればもう十時を過ぎようとしていた。こんな時間に来客など、非常に珍しい。
「……鳥羽さん?ちょっと待ってください、今開けますから」
母がドアホンに向かって言った言葉に目を見開く。
知り合いに鳥羽の姓を持つ家は一つしかない。何故母の口からその言葉が出てきたのか、動揺を隠せない。
「鳥羽が来た……?」
耳を疑い、異常なまでの喉の渇きを自覚している間に、来客が招き入れられた。
彼と似た精悍な顔付きの、一見三十代後半にしか見えない彼の父親。秘書をしていた所為か鋭利に見える自分の母とは正反対に、柔和で愛らしい印象の彼の母親。そして最後に姿を見せた、仁にとって精神的支配者といえる彼。
三人の客と父、そして自分がソファに座り、最後に茶菓子を出した母が腰を落とす。暫くは誰も言葉を発しなかったが、最初に封を切ったのは湯飲みから口を離した鳥羽の父親だった。
「何の知らせもなくこのような時間に突然訪問して、申し訳ございません」
まず父に、次に母に、最後に仁へと視線が巡らされる。
居心地の悪さに咄嗟に鳥羽の方を見遣るが、彼は自身の父親でもテーブルの上でもなく、真っ直ぐ仁へと視線を向けていた。
得体の知れない、けれども強い眼差しに耐えられるはずもなく、仁は顎を引いて俯くと、それ以降は大人達の会話に耳を傾けた。
「ニュースを見ました。今回のこと、胸中お察しします」
「あの、それでご用件というのは?」
母の問いに、鳥羽父は一つ頷く。そして持っていた鞄から何枚かの資料を取り出した。
「アメリカにいる友人と立ち上げる会社の資料です」
「立ち上げるって……鳥羽さん、独立されるんですか?」
驚愕する杉林一家に鳥羽の父親は肯定を口にする。彼の代わりに言葉を続けたのはその妻だ。
「実は杉林さんにお願いがあって来たんです。恐縮ながらその会社、主人を中心として立ち上げることになったのですが、恥ずかしながら人材に飢えています。そこで杉林さん御夫妻にお力を貸していただけないかと思いまして」
「杉林さんはお二人とも留学を経験されて、英語だけでなくドイツ語も堪能だとか」
「確かに私も妻も英語、ドイツ語、あと日常会話程度の中国語が話せますが……」
戸惑いの声を上げる父を安心させるように、若き経営者は表情を綻ばす。けれども次の瞬間にはその頬を引き締めた。
「ただ、私と妻は渡米しますが、息子はこのまま日本に残すつもりです。それが息子の希望でもありますし、仮に息子とアメリカに渡っても展望が不鮮明な今の段階では、一緒にいても大人の都合で振り回しかねませんから。……そこでもう一つお願いがあります。もし杉林さんが私達と共にアメリカに渡ってくださるのなら、仁君を恭士の世話係として日本に置いてくださいませんか?」
鳥羽父の発言に、仁は目を見開いた。
要約すれば、仁を鳥羽と共に鳥籠に閉じ込めるということだ。
「……いつまでにお返事すればよろしいでしょう?」
「大晦日の日に私達は発ちます。急かすようで申し訳ないですが、一週間後までにお返事をいただけますか?」
隣りに座る両親の顔を仰ぐと、二人は互いの顔を見合わせていた。父の表情は背を向けられていた所為で分からなかったものの、反対に母の面持ちは窺えた。
困惑している様子が手に取るように分かる。しかし瞳の奥は強い期待に輝いていた。大学院卒業後、キャリアウーマンとして生きてきた彼女としては、田舎の田畑で生活を送るより、パソコンや取引先との外交で動く方が性に合っているのだろう。仁もその方が母らしい生き様だと納得できる。
しかし――――
恐る恐る、正面に座る同級生を仰ぎ見る。視線が絡まった瞬間、相手の瞳が愉悦の色に染まった。
いつかの放課後のことが脳裏に蘇る。細まった瞳は獲物が罠に掛かるのを今か今かと待つ獰猛な肉食獣のそれに似ていて、今にも舌を舐めそうな音が聞こえてきそうだ。
「言ったろ。お前を俺なしでは生きてけないようにしてやりたいって」――――
蛇と蛙、その二匹を籠の中に閉じ込めたらどうなるかなんて、想像に難くない。
「仁、お願いだから我侭言わないで!」
「だったらお母さんとお父さんがアメリカで働きたいっていうのは我侭じゃないの?!一度は田舎に帰るって決めてたのに!」
「今までの暮らしを続けていけるのに、どこに不満があるんだ?」
「今までと同じなら文句なんて言わない!お父さん達がどうしてもアメリカ行くっていうなら、僕はお祖父ちゃんのところで暮らす。その方が父さん達も安心だろ?」
「じゃあ恭士君は一人じゃない。仁、恭士君とお友達でしょう」
「世話係なんてなくても、鳥羽は一人で家事も勉強も両立できるよ。父さんも母さんも、僕に鳥羽と暮らせって強く言うのは、上司の顔色窺ってるからだろ!とにかく鳥羽と二人だけで日本に残るなんて絶対嫌だ!」
「仁!」
パンという音と共に、仁の左頬に痛みがはしる。
「……もうすぐ十六歳になるんだ。いつまでも融通の利かないことばかり言うんじゃない」
「去年、あなたが麻生学院を受験するって聞いたときは受かるはずないって思ってたけど、有言実行して見事成し遂げたときは本当に驚いたわ。でもそれは私達の見えない所で凄く努力した結果でしょう?その努力を一年足らずで捨てるのはどうかと思うわ。成績表を見る限り、勉強に追いついてないこともないみたいだし、クラスの子達と仲が悪いってわけでもないんでしょう?」
自分を説得しようとする父と母の姿を、仁は真正面から見ることができなかった。
左耳のピアスに触れる。その冷たさを確かめるのは、三ヶ月経った今では癖となってしまった。
麻生学院を受験した最大の理由は、鳥羽から逃れるためだ。だのに一体どうして、こんなにも空回りして、鳥羽という存在が絡みつくのだろうか。
叩かれた頬の痛みよりも、耳を針で貫通させられた痛みよりも、それら以上に胸が軋んで悲鳴を上げて――――
堪らず一粒だけ、透明な雫が目頭から零れ落ちた。