狂宴が幕を開けた 【Ⅰ】
「杉林、最近また太った?」
近いうちに親かクラスメイト辺りに釘を刺されるだろうとは思っていたが、ついに山岡から指摘されてしまった。
「鳥羽からの菓子、また増え始めたの?高校に入ってからは中学のときより減ったって言ってなかったっけ?」
「勧められるお菓子の量は相変わらずだけど……やっぱ太ってきたの分かる?」
「八十キロ超えてそうに見える」
「ギリギリそこまではいってないよ。でも、この一ヶ月で五、六キロは増えた」
ソファーに腰掛ければ腹の肉がぶよん、と二つに割れた。百六十六センチで体重八十キロ間近は明らかに肥満体だ。サッカーをしていた中学のときと比べ、体脂肪も十パーセントは増えている。
同じくらいの背丈である姫宮と比べてみれば、横幅の違いは一目瞭然だろう。
「一体どんな食生活してるわけ?朝食べた物から順に言ってみなよ」
「朝食は鮭フレークを乗せたご飯二杯としじみ汁とサラダ、あとフルーツの盛り合わせ。お昼は鳥羽のお手製弁当にマドレーヌを十個」
「十個?!」
「そういえば部活で饅頭の差し入れがあった。二つだけ貰ったけど」
「……晩御飯は?もう食べたの?」
「まだ。朝と晩は家族揃って食べることにしてるんだ。今日はハンバーグ定食。ファミレスと大差ない量だよ」
「……昼は確かに食べ過ぎだと思うけど、ここ最近で一気に太り出したのはさすがにおかしいよ」
「うん……。でも暴飲暴食は自業自得なんだ」
「え……?」
電話の向こう側で山岡が困惑しているのが伝わってくる。
指でいとも簡単に摘めるようになった己の下っ腹に苦笑しつつ、理由を告げた。
最近、両親の帰宅が遅くなるのを尻目に、長時間キッチンに立って料理に没頭していた。夕食とは別に、自分用の菓子を大量に作ってしまうのだ。そしてそれを処理する。
もはやここまでくれば摂食障害だ。けれども嘔吐や薬物使用といった反動がない為、過食症というわけではない。むちゃ食い障害というらしい。いけないと思いつつも、どうしても手を伸ばしてしまう。
自暴自棄になりつつあるそんな自分に、戸惑いを隠せない。
「処理って、自分で食べてるの?!」
「うん。電話かかってくるまでさっきもドーナツを七個か八個食べてたよ。親がもうすぐ帰ってくるから、これから夕飯も食べる」
「ちょ……さすがに腹壊すって!」
「あはは。また胃を荒らして山岡の病院に入院するかもね」
意図して乾いた笑い声を立てれば、仁の名を呼ぶ弱々しく気落ちした音が鼓膜を震わせた。
同情を含む声色がずしん、と胸に落ちる。
そんな哀れみを向けてくるくらいなら、この状況をどうにかしてほしいと願ったことは、何も一度や二度のことではない。だが自分が山岡の立場だったとしても、鳥羽に意見を述べることは到底できないだろう。傍から見れば親しみやすく明るい一生徒だというのに、仁のこととなると、彼は目の色を変えて豹変する。
それを目の当たりにする度に、本能が警戒信号を発するのだ。危険だ、逆らうな、と。
勇気を奮って牙を向き、異を唱えようと試みる意志が、いとも簡単に尻尾を巻いて縮こまってしまう。
一言、二言喋って山岡との会話を絶つと、玄関の扉が開く音がした。
「ただいまぁ~」
「おかえり。すぐ夕飯の支度するから」
夕飯といってももう十一時前だ。残業で帰宅が遅くなることは度々あったが、一月前からそれに拍車がかかっている。休日出勤も当たり前となりつつあった。
両親が勤めている会社は、株価ニュースでもよく耳にする大企業だ。そこの専務と社長秘書なのだから、当然多忙の業務をこなしているのだろう。けれどもここ最近の忙しなさは、どこか不安を覚えてしまう。
「もしかして今週末も仕事?」
仁の正面に座る父母は顔を見合わせ、互いの疲労の色に表情を曇らせた。父に至っては溜息まで吐いた。
母は父よりも一回り年下のはずなのに、その顔は父の年齢と偽っても納得できるまでに老けて見えた。目の下のクマなど特に酷い。
「明日からは父さん達を待たなくてもいいからな」
どうやら仁の疑問は、こんな時間まで夕飯を待たなくてはいけないのかという不満と捉えられたらしい。
父親の言葉に緩く首を振る。
「待ってるよ。そういう意味で言ったんじゃなくて、先週も土日、休日出勤だったから……疲れてるはずなのに」
「ありがとね、心配してくれて。でも大丈夫だから。こうして仁が家事してくれるから、お母さんもお父さんも大助かり」
笑顔を浮かべた母親の目尻に皺が深く刻まれる。父が見初めた母の若かりし頃の写真が脳裏を過ぎり、今の疲労で老け込んだ姿が胸に苦しかった。
仁の不安が的中したのは、この会話から三ヶ月後の寒い冬の日。スクランブル交差点の信号が青に変わるのを待っていて、ふと顔を上げたときだった。
不景気によって多大な損害を煽られ、株が暴落し、倒産は免れないというニュースが流れていた。金融危機と騒がれているご時世とあって、損失を受けて潰れる会社は今ではそう珍しくもないが、こうして街頭ビジョンに流されるとなると、よほどの企業と見受けられる。
どこの会社だろうかと何気なく眺めていた次の瞬間、息を呑んで目を瞠った。
「仁、青になったよ。……仁?」
さすがにこのときばかりは真横に並んでいた男の存在を忘れていた。
切り替わった画面には六十歳半ばのスーツ姿の男が暗い面持ちで報道陣のマイクを避けていて、すぐ後ろには今朝見たばかりの母親の姿があった。
画面越しでも判別できる、青褪めた顔。全くの無表情ではあったが、拳が硬く握られているのがチラリと見えた。
「母さん……」
絶句する仁を一瞥し、鳥羽はその視線の先を追う。大々的に取り上げられた大企業の倒産。
隣人に気付かれぬよう口角を吊り上げ、男は声を立てず薄っすらと哂った。