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狂い回る歯車 【Ⅴ】

あれから一晩経ったというのに、左耳は未だ痛みに苛まれているような違和感がある。熱を含んでいるかのような錯覚に、思わず耳朶に指先を当てて確かめてしまう。

もうこれで何度目になるだろう。起床してからのこの仕草は。何回繰り返しても、そこには無機質な冷たさしかないというのに。

「おはよう、杉林」

声をかけられ振り返ってみれば、瀬川が真後ろに立っていた。出席番号順の座席なので、十番の杉林の後ろに座るのは十一番の瀬川だ。

美術室に顔を出してから来たのか、元々衣服に染み付いていたのか。微かに絵の具の匂いがした。

「……おはよう」

「あれ?ピアス開けたんだ!」

さすがは美術部員のホープ。観察力が鋭い。耳元で光ったらしい石の輝きを逃さなかったようだ。

「ちょっと意外かも。杉林、ピアス開けたりするようには見えなかったから」

「うん、まぁ……ちょっと」

言い淀む仁に構わず、瀬川は遠慮なくピアスを色々な角度から観察する。興味本位というよりはモデルを眺めるような、そんな眼差し。きりっと引き締まったその顔付きは、普段のおっとりとした雰囲気を全く感じさせない真剣なものだ。元々端整な顔立ちをしているだけに、見慣れないシリアスな表情をされると例え同性とはいえ、心拍数を上げてしまう。

「片耳だけ開けたんだ?やっぱり痛かった?」

一通り観察し終えたらしく、瀬川は席に着くと同時に尖らせていた神経を霧散させた。

仁は相手に悟られぬよう小さく息を吐く。

「あんまりよくは覚えてないけど……悲鳴を上げそうなくらい痛かったかな」

「そんなに痛かったのに覚えてないの?」

刺されたときのことは一瞬しか記憶にない。

プツという音と共に血が湧き出た。ついでに痛かった。……その程度の感覚だ。

あの歪んだ燻りを秘めた瞳を前にすれば、全てが霞み、萎縮してしまう。

鳥羽が杉林家を後にするまでの間ではっきりと記憶している唯一のこと、それは――――

仁は一瞬にして茹蛸のように顔を真っ赤にして、両手で口元を押さえる。

突然そのような行動をされて、瀬川も思わず目を白黒させる。

「え?ちょ……もしかして具合悪い?」

「いや、吃驚しただけで……!」

「でも顔赤いって!」

「いや、だから、これは違うんだってっ」

わたわたと慌てふためく互いを宥めようと、二人はより一層忙しなく首を動かしたり手を振ったりするのだが、余裕を失くして切羽詰った状態でそのような行動を試みても、当然空回りするだけだ。

何をやっているのだろうと周囲が気にし出した最中、第三者が二人に近寄り、手に持っていた本で瀬川の机を叩きながら「落ち着け」と声をかけた。

「うわ、ユキ!び、吃驚したぁ~」

「お、おはよう羽生」

「おはよう」

眼鏡のブリッジを押し上げてどこか声に重みを含ませながら、羽生は挨拶をする。わざわざ本を持ってやって来たことから、読書の邪魔になるほど大声を上げていたらしいと、漸く仁と瀬川は気付く。

「……サファイア、だな」

「え?」

「そのピアス」

注がれる視線に促されるように、耳朶の石に触れる。爪が当たってカツンと小さな音が立つ。

「九月の誕生石。宝石言葉は慈愛、誠実。愛の不変を誓う切実の石とも云われている」

「ユキ、まさか誕生月の石全部覚えてんの?」

「ああ。因みにミキの誕生月、十一月はトパーズ。友情、潔白の石だ」

暇さえあれば文学、専門書問わず本を手にしているとあって、羽生は雑学に長けている。けれども雑学だけではなく、頭もきれる。廊下に貼りだされる試験結果では、常に一桁の順位をキープしているのだから、瀬川がこうして感嘆の溜息を吐くのも無理はない。

そういえばもう一つ、昨日の鳥羽とのことで目に焼きついている光景がある。仁が彼の耳朶をピアッサーで貫通させた後に付けられた、赤の色。

「羽生、赤い石が何月の誕生石か分かる?」

「赤は一月だな。ガーネット。貞節、忠実が宝石言葉で、持つ者に変わらぬ愛情を注ぐというこの石は、他の宝石と一緒に持つと効果が薄れるらしい」

「へぇ、堅実というか何というか。浮気を許さない、束縛系っぽい」

瀬川の台詞に、仁も同意する。まさしく鳥羽に相応しい石だと思った。

一月は仁の誕生月だ。けれどもその誕生石を身に着けたのは、九月生まれの鳥羽。

どうしてその赤い石を誕生月でもないのに耳に飾ったのか、羽生の説明を聞いて分かった気がした。これから鳥羽と顔を合わす度に、自分は必ず彼の左耳に目を向けてしまうだろう。

言外に、彼は語るつもりなのだ。

自分以外の者に気を向けるな、と――――



四限目終了後、一分と経たない間に現れた鳥羽に手を引かれ、気が付けば空き教室に連れ込まれていた。閉め忘れられていたのか、半端に開けられた窓から入る風に揺られ、純白のカーテンはゆらゆらと泳いでいる。

……誰もいない、二つの扉を隔てて人気を遮断された一室。

「さ、昼飯にしようぜ。今日は春巻き入れてきたんだ。結構自信あり!」

嬉々して弁当の包みを広げる鳥羽を前に、仁はある箇所に注視する。

彼の左耳。仁のそれと同じように、けれども色の異なる赤い石の付いた金具が柔らかそうな耳朶を貫通し、存在を強調していた。

「……そんなに気になる?このピアス」

ハッとして目線を真横にずらすと、チェシャ猫のように眦を細めた双眸とかち合った。

慈しむような眼差しの傍ら、舌舐めずりをして今か今かと獲物が罠に掛かるのを待ち構える、そんな粘着質染みたものが感じられた。

絡み付こうとする視線をどうにか引き離し、仁は箸を取って弁当に手を付ける。

「どう?美味い?」

「う、ん……」

正直味なんて分からない。砂を噛んでいるよう、とはまさしくこのことだ。

ただ目の前の人物が指一本動かさず、ジッと自分を見つめていることだけが気になって仕方がない。

「……鳥羽、食べないの?」

「実は三限終わった頃に腹減ってさ、早弁したんだよ。おやつ用にクッキー作ったから、また腹減ったらそれ食べることにする。あ、勿論仁の分もあるからな」

「ありがと……」

食べることに集中しようとしても、やはり気が削がれてしまう。瞼、唇、首筋……色々な場所にちりちりと視線を感じるが、ダントツに凝視されたのは案の定、左耳だ。顔を仰ぎ見なくとも分かる。

笑んでいる。恍惚と、愛玩動物を愛でるように。

自分のモノだと主張できる形ができて、満足を、愉悦を、しみじみと噛み締めているのが手に取るように分かってしまう。

味を察知できない食物を歯で砕いて喉に通すという作業を幾度と繰り返し、漸く弁当の中を空にすることができた。

「……ご馳走様でした」

「お粗末様でした」

弁当に蓋をしてそれを鳥羽に突き出すと、彼は中身を失った箱を布に包んだ。今にも鼻歌を歌いだしそうな浮かれ具合に、仁は密かに唇を噛む。

「今日の弁当の味、どうだった?」

食後、鳥羽は必ずこの質問をする。

いつもなら警戒心を秘めつつ、少々戸惑いながらも感じたままの味覚を律儀に口に出していたのだが、今日の仁は一欠けらの冷静さも保てない状態だった。

猫に飛びかかられそうな鼠。そんな心地で口に運んでいたので、味の分析などできたものではない。

なので、ここは無難に「美味しかったよ、特に春巻き」とだけ言った。春巻きには自信があると、予め聞いていたのが助かった。

けれども鳥羽は何故か口の両角だけを横に広げ、無機質な笑みを浮かべた。全くといっていいほど目が笑っていない。

「嘘吐き」

「え?」

「俺のことが気になって気になって、味なんて分かんなかったでしょ?」

心臓が一瞬、大きく跳ねた。

「実は早弁したとき、間違って仁の弁当食っちゃったんだよね~。だから今仁が食ったのは、俺用のちょっと濃い味付けの方」

無意識に唇を舐める。確かにいつもに比べて刺激が強い気がした。口腔内に塩っ辛さが広がってゆく。

「味の評価が聞けないのはちょっと残念だけど、それ以上に、仁の頭ん中が俺で占めてくれたのは何よりも嬉しい」

伸ばされた長い指先が、左の耳に触れた。

「黄色とかオレンジの方が似合うと思ってたけど、青も凄く良いな。貯めた小遣いで買った物だから、紛い物の宝石だけど……悪くない」

「………」

親指の腹で石の表面を撫でられる。そこから伝染するように全身が小刻みに震え、冷えてゆく。まるで氷で嬲られているみたいだ。

「誕生日までまだ三日あったけど、嬉しいよ。仁と同じ箇所にピアス開けれて」

薄いカッターシャツの下には鳥肌が立っていたが、愛撫されている左の耳朶だけは熱が篭っていた。心なしか、ピアッサーで貫通と共に発された熱がじわじわと蘇ってくる。

「どうして……」

「うん?」

「どうしてキス、したの?」

脳裏ははためくカーテンと同じ白一色に侵されていたのに、口は何故か、昨日からこびり付いていた疑問を吐いていた。

以前頬で、眦で感じたことのある鳥羽の唇。しかし昨日初めてそれを己の唇で体感した。

漠然とした昨夕の中で一際強く残る記憶。あれは恐らく忘れられない出来事の一つとして、一生脳に焼きつくだろう。

「鳥羽が考えてること、分かんない。僕を……僕に、何をしたいのか……」

「……ホントに?」

「え?」

「ホントは分かってるくせに。どうして俺がキスしたのかも、ちゃんと分かってるはずだ」

茫然と首を振る仁に、鳥羽はますます笑みを深めるばかりだ。

「言ったろ。お前を俺なしでは生きてけないようにしてやりたいって」

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