2話
静まり返った会場には、黒服をまとった人々の波が静かにうねっている。
東京都心にある武道館。国葬に近い格式で営まれた葬儀には、歴代の首相経験者から現職閣僚、党幹部、官僚、経済界の重鎮たちが次々と姿を見せていた。
玄関前には車列が延々と連なり、警備も厳重そのもの。葬儀委員長を務める内閣総理大臣が重い表情で弔辞を読み上げる中、参列者たちは沈痛な面持ちで、亡くなった鷲尾 道二郎の遺影を見つめていた。遺影の彼は、温かみのある優しい微笑みで私たちを見つめてくれている。
その背後には、保守の大黒柱、信念の政治家と刻まれた巨大な献花が並び、その横には党旗と国旗が垂れている。
前列には、親族席と共に政権与党幹部の席が並び、その横では秘書団や若手議員たちが深く頭を垂れていた。
ふと一人の若い議員が呟いた。
「……あの人がいなければ、今の私たちはない」
そして続けるように、中堅議員が小さな声を漏らす。
「このままでは男系男子の皇位継承が……これからどうやって革命勢力に対抗し、この国の国体を維持すればいいのか……」
未来への不安と、遺された責任の重さが、議員の背中に静かにのしかかっていた。
テレビ中継用のカメラは同じ場所を映し続けているが、その一方、会場の外にいる報道記者たちは慌ただしく動き回る。
他にも支持者や右翼団体、地方から駆け付けた市民団体までもが長蛇の列を作り、自分たちの焼香の順番を待っている。
その群衆の中では、特に「男系男子の皇位継承」と大きく描かれた横断幕を掲げる者が目立つ。
会場周辺では、時代を大きく動かした大物政治家が逝ってしまったという悲しみだけが漂っていた。
◇◇◇◇◇
「うぅ……ん、んん?」
あれ?
生きてる……のか?
ついさっき包丁で胸を刺されたはずだが……
どういうことだ?
慌てて体を確認してみるが、これといって負傷したところがなく、当然血も出ていない。
なんともない……な
なぜだ?
それにしてもあの女、愛人の分際で日に日に要求がエスカレートしてきて困ったものだったが、
私が妻と別れる気がないと分かったからか、突然発狂して私を刺すなんて……
信じられん奴だ。
ところでここはどこなんだ?
室内の壁には美しい絵画がいくつか飾られ、棚には装飾品がずらりと並んでいる。
私が寝ていたベッドも当然のように大きく、布団の柔らかさもちょうどいい。
どうみても病院ではないな……
どこぞの資産家の家なのか?
あ、そういえば私のスマホは?
近くには見当たらない。
まずいな……
他人に見られるとまずい情報があるんだが……
もしあの件がマスコミにバレてしまったら、私だけではなく私に協力してくれた多くの同志が大変なことになってしまう。
下手したら総理にまで害が及ぶかもしれない。
それだけはなんとか阻止しなければ……
急ぎスマホを探そうとベッドから立ち上がると、若くてきれいな女性がちょうど室内に入って来るところだった。
「あ、ジロー様。申し訳ありません。すでにお目覚めだったとは知らず……」
え、誰だ……?
服装からして看護師ではなさそうだが……
「君は?」
「私は使用人のルリと申します。少し前からこのお屋敷で働かさせていただいております。」
「何?」
使用人?
第一印象としては上品で感じの良い女性だが、使用人なんてどこの家にもいないだろう。
あ、家政婦のことか?
「混乱するのも当然です。ジロー様はこの三日間、ずっと眠り続けていたのですから。この部屋の内装もジロー様が住んでいた10年前とはだいぶ変わっているとお聞きしています。」
「君はさっきから一体何を言ってるんだ。ここはどこなんだ?」
「え?ここはシュトラウス家の邸宅ですよ。」
「シュ、シュトラウス……?うっ!」
突然、頭に知らない人の記憶が流れ込んでくる。
シュトラウス伯爵家の長男、ジロー・シュトラウス。
アルディス魔道学園を首席で卒業した天才魔道士。
学園卒業後、両親を殺した魔道士への復讐の旅に出て10年。
ついに目的を果たして力尽きた男の記憶。
うぅ、どういうことだ……
私は日本の政治家、鷲尾 道二郎だ。
国内で最大の党員数を誇る、政権与党の幹事長のはずだろう。
しかし、この若者の記憶は……
「だ、大丈夫ですか?やっぱりまだ横になっていた方が!」
くそっ、なんなんだこれは。全く知らない世界。全く知らない国。全く知らない文化。
ハイバッハ帝国?皇帝陛下?
魔道学園?魔道士?
使用人の声にも反応できないジローは、頭を抱えてしゃがみ込む。
「すぐに魔道士様を呼んできます!」
今は使用人の女のことを気にしていられない。
それよりこの記憶のほうが問題だ。本当にこの記憶の中の若者が私だというのか?
勇ましく剣を振り、魔法を駆使し、敵を殺し尽くす。
他者を顧みない傲慢な男。
こ、これはまさか……
俗に言う異世界転生というやつではないだろうな?
確か私の支持者の息子が好きだとかなんとか……
し、しかし、私はもう70手前だぞ。そのような小説の設定には詳しくない。
魔法というものには少し興味があるが、よくてその程度だ。
この私が、こんなよく分からない世界で第二の人生を送らなければならないとは。
なんということだ……
ジローは自分の記憶にうめきながらも、時間とともに少しずつ気持ちが落ち着いてきたようで、できるだけ今の自分を受け入れようと努力していた。
それから程なくして、使用人が呼んできたであろう眉間に皺を寄せた険しい表情の男と色気のある白いローブ姿の女がやってきた。
「やっと起きたか。」
男の方を一目見た時に、この人が私の叔父上だということがなぜかすぐに理解できた。
「叔父上……ですか」
クラウス・シュトラウス
伯爵だった私の父の弟であり、氷魔法を得意とする凄腕の魔道士だ。
性格は几帳面で細かい規則にもこだわるタイプ。
「突然家から出て行ったお前が、屋敷の前でボロボロで倒れていると聞いて呆れたものだが、この10年、お前は一体何をしていたんだ?」
家を出る前に書置きを残したようなので、叔父上は理由を知っているはずだ。
別に名前を隠して旅をしていたわけではないし、調べればすぐに裏付けも取れただろう。
「両親の仇を討つためです。もう終わったので気にしなくていいですよ。」
「何?……ああ、諦めたということか?ようやくお前も現実を認識できるようになったか。どうせ奴には誰も勝てん。できもしないことに時間をかけるほど、バカなことはないからな。」
叔父上はいちいち腹の立つ言い方をするな……
「キラーケスは確実に殺しましたよ。なのでもうあいつが悪さすることはありません。」
「……本当か?偽物ではなく?間違いなく奴を殺したというのか?」
「確実です。この手で仕留めましたから。」
「……信じられんな。」
私が奴を殺したことに間違いはないが、叔父上が信じられないのも不思議ではない。
なぜなら奴はこの世界で最も危険とされている闇組織の一つ、アポカリプスの魔道士だからだ。
大昔から世界中で暗躍する闇組織、アポカリプス。
質の良い魔力石を狙って現れる奴らを被害なく防ぐことは難しい。
特にキラーケスという男はその組織の中で最強と目されていた人物。奴は目的のためなら手段を選ばず、どこの国でも、例えそれが貴族だろうが王族だろうが全く気にすることなく襲いかかる、頭のいかれた魔道士だった。しかも今まで一度も失敗したことがないと言われてきた最悪の怪物。
さっき記憶で少し見たが、映画のクライマックスかと思うほどの死闘だったよ。
自分でも信じられないが。
「証拠はないですけど、事実は事実です。」
「証拠がなければ意味がない。」
冷たい顔で私を見つめてくる叔父上は、やっぱり性格があまり良くない。
現状伯爵家で一番偉いのは叔父上だから、誰も文句を言えないだろうが。
でも本当なら学園卒業後、当主になるのは私だった。
過去の自分が全てを捨てて復讐の旅になんて出なければ、とっくに伯爵の立場を引き継いで偉そうにしていたのは私だっただろうに。
過去の私よ、もったいないことをしたんじゃないのか?
叔父上は私が何も言わないのを確認し、魔道士の女に指示を出した。
「ローザ、ジローの状態を確認しておいてくれ。それが終わったらジローは私の書斎まで来るように。これまでのことを色々と聞かなければならない。」
それだけ言うと叔父上はすぐさま仕事に戻っていった。
なんだか仕事が忙しそうだな……
ま、私も国会議員として月300時間ほど働いていたわけだから、同情する気は一切ない。
「ジロー様、魔道士のローザと申します。さっそくですが体を見させていただきますね。」
ルリとかいう使用人が読んできた女か。
「お、おい」
近付いてきた女が突然私の体に触ってきたから、驚いて声を上げてしまう。
「どうしました?」
私が慌てたのに気づいてるのか、それとも気づいてないのか。
動きを止めて微笑みながら尋ねてくる。
「い、いや、何でもない。」
さっきの殺伐とした空気とはうってかわって急に甘ったるい空気になったことに面食らう。
香水の匂いなのか、いい香りも漂ってきた。
これは医療行為の一環として必要なのか?
重要な記憶しか戻ってないから、これが普通のことなのかどうかが分からない。
しかし服装は明らかにおかしいのではないか?
神官が着ていそうな白いローブを着ているくせに、胸元が大きく空いているせいで胸の谷間がはっきりと見えてしまっている。
色っぽくて魅力的な女性なのは間違いない。間違いないが……
「んっ……」
その彼女がなぜか変な声を出し、私の腕や上半身を入念に触ってくる。
何かを確認してるみたいだが、別に問題はないと思う。普通に手足は動くし、痛みも全然ないのだから。
「ジロー様……」
色っぽい声音で優しく呼びかけてくれる。
しかも様付けで顔を寄せてくれて……
って近い、近い!顔が近い!
なんだ!?私にキスするのか?
異世界では気軽にこういうことをしていいのか?
「ふふっ、ジロー様の心臓が高鳴っているのが分かりますわ。」
当たり前じゃないか。
こんな大胆な女性は夜のお店にしか存在しないだろう。
「も、もういいだろう。」
さすがにこれ以上は耐えられないので、ローザの両肩を押して少し離れてもらった。
「あら、残念。」
「いつもこんなふうに診察しているのか?」
「そんなわけありませんわ。ジロー様だけ特別ですよ。」
どうもこの女性からはハニートラップの香りがするな。
どれだけ優秀な議員だったとしても、疲れた時に優しくしてくれる女性にはコロッといってしまうんだ。
そのせいで重要な議員をどれほど失ったことか……
「そ、それで結果はどうだった?」
「大変申し上げにくいのですが、命に関わるほどの酷い怪我だったため、神経を完全には修復することができませんでした。日常生活は問題ありませんが、以前のように剣を振るうことはもうできないかと。」
「……剣か」
「はい……魔法については問題ありませんが、剣の方は……」
「そうか」
うん、全く気にならない……
前世の記憶が戻った以上、もう自分から誰かを殺しにいくことはないだろうし、それに今の私からしたら魔法が使えるだけでもありがたい。
「申し訳ございません。私にもっと力があれば……当然私に対してお怒りのことと思います。私も女です。こうなったらジロー様の気のすむまで、私のお尻を叩いてもかまいませんわ。で、でも、できれば優しく……」
と、どういう理屈だ!?
お、おっと、一瞬彼女のお尻を見てしまった。
気付いてないよな?
「き、気にしていないから大丈夫だ。」
咳払いしながら気持ちを切り替えよう。
「まあ、優しいのですね。ジロー様は傲慢な性格だから気を付けるようにとクラウス様から言われておりましたが、やっぱり嘘でしたね。真実は自分の目で見ないと分かりませんわ。」
「さあ……昔の私はあまり褒められた性格ではなかったかもな。自分でいうのもなんだが、才能があったようだし。」
「ふふふ、並外れた才能があるのであれば、少しくらい性格が悪かったとしてもそれは普通ですわ。私からみればジロー様はとても魅力的です。」
初対面でよくそんなくすぐったいことを言えるものだ。
ある意味羨ましい。
「と、とにかく剣のことは気にしてないから、他に問題がないのならもう下がっていい。」
「分かりましたわ。今日はこれで失礼いたしますね。また明日お会いしましょう。」
「ん、また来るのか?」
「ふふ、当然毎日来ますわよ?ジロー様はいずれこの伯爵家の当主になられるお方。万が一があってはいけませんからね。」
「当主か……」
伯爵というのは政治家みたいな仕事と考えていいんだろうか。
それとも官僚に近い仕事だろうか。
「叔父上がいるから私が当主になる機会はもうないかもしれないぞ。」
「いえいえ、必ずありますわ。クラウス様はジロー様のことを信頼しておられますもの。私には分かります。」
「そうか?」
叔父上に褒められたことはほとんどないんじゃないかなあ。
なんとなくそんな感じがする。
「ええ、間違いありません。それでは私はこれで。もし体に不調を感じたらいつでも呼び出してください。ジロー様のためならすぐ駆けつけますわ。」
「分かった」
はじめはびっくりしたけど、彼女とはいい関係を築けそうだ。
そのうち一夜を共にする関係になったりして……
いかん、いかん。
女に刺されたばかりだというのに、また私の悪い癖が出るところだった。