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第95話 柊木梓馬:本当の望み

 朝。梓馬は、ぱちりと目を覚ました。


 どうやら、寝ている間にすっかり具合は良くなったようだ。


 喉が渇いている。


 梓馬はぐっと伸びをすると、自室から出て、リビングに向かった。どうやら、今日も千代が柊木の屋敷にはやってきているらしく、屋敷中のカーテンが開け放たれている。朝日が目にまぶしく、梓馬は思わず目を眇めた。


 リビングに近寄っていくと、良い匂いがした。朝食を作っているようだ。微かに聞こえてくる鼻歌は、千代のものらしい。


 ああ、彼女もこんなふうに、鼻歌を歌いながら朝食を作っていた。


 梓馬は一瞬ためらってから、リビングのドアを開いた。最初に感じたのは、ベーコンの焼ける良い匂いだった。光が差し込む室内で、千代がフライパンに向かっている。その姿を、悠真が幸せそうな表情で眺めていた。


 それを見た瞬間、梓馬はなんだか泣きそうな気持ちになった。


 まだ、体調が万全ではなかったのかもしれない。


 梓馬はそう結論付けて、自分の不可解な心の動きを誤魔化す。


「おはよう、父さん。よく眠れた?」


 悠真が、にっこりと笑って梓馬を迎え入れる。昨日まで、梓馬に冷たい視線を向けていたのとは、別人のような態度だ。


 昨日は、あれから大変だった……。


 千代に、「お父さんに優しい人の方が好き」と聞いた悠真は、千代に代わって張り切って梓馬の看病を名乗り出た。額に冷却シートを張られ、強引に体を拭かれ、無理やり薬を水で流し込まれた梓馬は、体をうまく動かせないので本当にやられたい放題だったのだ。


 それを機に、悠真はどうやら幼少から刻み込まれてきた梓馬に対する恐怖心を、多少払拭したようだ。

 昨日、看病を終えて梓馬の部屋を出るころには、もう普通の顔をしてお休みのあいさつをするようになっていた。


 梓馬はそれを思い返しながら、冷蔵庫に向かい、冷やしてあるミネラルウォーターのペットボトルを取り出そうとする。自分の背後を通ろうとする梓馬の為に、自然と道を譲った千代に、また奇妙な心地がしたが、まずは喉の渇きを潤すことを優先した。


 食卓について、水を飲んでいると、ことりと音を立てて目の前に皿が置かれた。顔を上げると、千代が次々に食卓に皿を並べていく。


 内容は簡単なものだった。ベーコンエッグやサラダ、コンソメスープにトースト。難しい料理なんて一つもなく、中学生の彼女でも作るのに困ることはないだろうと容易に想像が付くようなメニューだ。


「千代ちゃんが作ってくれるご飯は、何時も美味しいなあ。いつもありがとう!」


 ニコニコとしながら、悠真が言う。


「簡単なものしか、作ってないから……。誰が作っても、一緒」


 千代はそんな悠真に対して、謙遜して見せる。けれど悠真はそれに大げさに首を振った。


「そんなことないよ! 千代ちゃんが作ってくれるご飯は、いつも温かくて、優しい味がする。千代ちゃんみたい! だから、ボクはこんなに美味しいと思うんだよ」


 ああ、似たようなことを、彼女に言ったことがある。


 梓馬はぼんやりと過去の映像を目前の二人に重ね合わせる。


『簡単なものばかりで、ごめんね』

『そんな! キミが作ってくれるものは、いつも温かくて優しい味がする。世界で一番好きな食べ物だよ』


 気が付けば梓馬は、その手にスプーンを持っていた。そして、頑なに手を付けてこなかった千代の料理を口に運んだ。最初に食べたのは、湯気の出ているスープだ。


 ……温かい。


 一口スープを飲んだ梓馬は、そう思った。そうして、今度はごろごろと入っている野菜を口に含む。

 ……優しい、味がする。


 梓馬の瞳から、ボロボロと水分が流れ出る。それは、彼が意図したものではなく、勝手に流れ出る感情だった。


「……父さん?」


 怪訝そうな表情を浮かべて、悠真が梓馬の顔を覗き込む。それから逃れるように視線を逸らすと、すぐ横に千代がいて、彼女はそっと梓馬の肩に手を置いた。


「……悲しいことを、思い出しているんですか?」


 千代の言葉に、梓馬は内心首を振る。


 違う。俺は今、過去の幸せを今に重ね合わせていた。


「……大丈夫」


 千代は、澄んだ瞳で梓馬の瞳を見つめた。


「貴方の本当の望みは、素晴らしい」


 急な言葉に、梓馬の脳は一瞬混乱する。けれど、すぐにそれが言葉通りの意味を持ったものではないことに気が付き、はっとした。


 違う。これは、「貴方の望みは、本当に世界を滅ぼすことなのですか」と問い掛けられているのだ。

 千代が、一層強い瞳で、梓馬に訴えかける。


「貴方の望みを、叶えましょう」


 何もかもを理解しているとでも言いたげな、千代の表情を前にして、梓馬は考えた。自分の本当の望みはなんなのか、と。


 千代が毎日律儀に開いていくカーテン。それによって陽光であふれる屋敷は、妻が生きていたころのように、光にあふれた場所になった。


 千代がずっと自分を肯定してくれたから、かつて妻が愛した梓馬の姿が、今の梓馬とは全く異なっていたことを理解した。


 千代が「お父さんに優しく」と言ったおかげで、悠真は自分の息子なのだと、血の繋がりを色濃く感じた。


 千代の作った食事が温かくて、優しくて。世界一好きだった料理を……人生で最も幸福だった時間を、思い出すことができた。


 そうして梓馬は気が付いた。


 ああ、この少女が言いたいのは、こういうことなのだと。


「違う……」


 梓馬の口から、否定の言葉が滑り落ちた。


「え?」


 尋ね返した千代に、今度こそ力強く、梓馬は答えた。


「違う、俺は……! 世界なんか、滅ぼしたかったわけじゃない! 俺はただ彼女と……! 彼女と、息子の、家族三人で……! 温かいご飯を食べて、明るい家の中で、ただ幸せに……! 毎日ただ一緒に、幸せに暮らせれば、それだけでよかったんだ……!」


 梓馬の魂の叫びに、悠真がはっとした表情を浮かべる。


「父さん……」

「俺は、彼女を失いたくなかっただけだし、世界なんか滅ぼしたくないし、息子を恨みたくもなかった!」


 子供のような言い分だった。けれど、悠真の心には、かえってわかりやすく響いたようだった。


 悠真は、父の瞳に浮かぶ涙を見ながら、ひとりごとのように呟いた。


「なんだ、父さんも……ボクと同じだったんだ……。ただ母さんが、好きだっただけで……。それを失ったから、誰かを恨まずにはいられなかった……そういうことなんだね」


 梓馬はその呟きに、顔を上げる。


 悠真と目が合って、不思議と、彼と自分の中の何かが、繋がったような感覚に陥った。


 恐らくそれは、悠真が生まれてから初めて、梓馬と悠真の心が通じ合った瞬間だった。


「ボクが、千代ちゃんのことを好きなように、父さんも、母さんのことが、好きだったんだ……」


 その言葉を聞いて、遊馬の肩からすうっと力が抜けていくのがわかった。


 ああ、ただずっと。一人で孤独を感じて、誰も自分の苦しみを理解してはくれないと思っていた。だからこそ、悠真に……俺の幸福を奪った息子に、同じ苦しみを味合わせようとしてきた。そうすることでやっと、自分たちは同じステージに立てるのだと、思っていた。けれど、そうではなかったのだ。


 梓馬は、千代に視線を向ける。


 この少女はずっと、それを俺に伝えようとしていたのだ。


 事態についていけていないのか、千代は困惑したように目を見開いて固まっている。けれど、その姿すらも、最早神々しくさえ見えた。


 妻はもう、帰ってこない。けれど、俺の気持ちを理解してくれる息子も、妻に似た、義理の娘になってくれそうな、優しい少女も、俺のそばにはいるのだ。


 もう一度また、始めよう。憎悪にまみれた今の俺の世界を壊して、かつての本当の望みを……。幸せな家族を作って、一緒に生きる夢を、今度こそ叶えるのだ。


 決意した梓馬を祝福するように、柊木家のリビングに、お湯の沸騰を告げるケトルの音が響いた。


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