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第93話 柊木梓馬:異物

「おはようございます」


 ある日、いきなりその娘はやって来た。悠真と幼稚園時代から友人だというその娘は、口数こそ少なく、表情筋もほとんど機能していないような子供だったが、その行動はおせっかいそのものだった。


 悠真と梓馬、それから家のことをさせている家政婦しか存在しなかった柊木の家に、簡単に、我が物顔で押し入って来た彼女は、家中のカーテンを開け放った。


 そうして、何故か柊木の家で食事を作るようになった。


「ご飯はちゃんと食べないと……元気、でませんから。私、作ります」

「千代ちゃんの作ったご飯が食べられるなんて、ボク幸せだなあ」


 無表情の千代の横で、気づけば随分と表情豊かになった悠真が相好を崩している。その様子は、まるで妻が生きていた時の自分と、彼女のようで……。梓馬は憎悪を募らせた。


「他人の家に押し入って、何をしているんだ。親の顔が見たいものだな」


 梓馬の言葉に、悠真の顔からすっと表情が消える。けれど、千代はただ微笑むばかりだった。


「父さん、貴方は……」


 見るからに殺気立った様子の悠真が、梓馬を責め立てようと口を開く。けれど、それすらも千代は押しとどめてしまった。


「いいの。……悠真のお父さんには、元気でいてほしいから」

「千代ちゃん……! 気にしなくていいんだよ。この人、ボクが生まれた時からずっとこうなんだ」


 どうやら、悠真の為を想って、千代は柊木の家に足を踏み入れたらしい。


 今更、悠真との仲でも取り持つつもりなのか……?


 しかし、梓馬にそのつもりは毛頭ない。所詮は中学生のやることだ。すぐに飽きるだろう。そう判断した梓馬は、鼻を鳴らして一人、家政婦の作った食事を摂った。


 けれど、予想に反して千代のお節介は続いた。それだけでなく、それとなく梓馬が一人のタイミングを狙って、話しかけてくるようになったのだ。





「悠真のお父さんは、意志が固くて素敵ですね」


 そう言われたのは、梓馬が千代の存在を無視し続けて、ひと月が経ったあたりのことだった。


 最初は馬鹿にされているのかと思った。しかし、顔を上げて千代の方を見ると、彼女はいつもと変わらぬ無表情だ。


 梓馬は自分の調子が崩されているような心地がして、ぐっと千代を睨みつけた。


「……媚でも売っているのか」


 千代は、微笑んで首を横に振った。


「いいえ、貴方は私にとって、大切な人ですから」


 そうして千代の目線が、いつも悠真が座っている席に向かう。彼女が悠真を大切に想っているからこそ、梓馬のことも大切にしようと思っているのだと、その視線が語っていた。


「ハッ、大層なことだ。お前は柊木の家のことを何も知らないから、そんなことが言えるのだろう」


 梓馬は嘲笑した。過去の自分自身が、何も知らずに大切な人を失ったように、この小娘も悠真と永遠に別れる運命なのだと、あざ笑った。


 けれど千代は、それにも首を振った。


 そうして、言った。


「……知っていますよ」


 と。その時の千代の表情を、何と表現すればいいのかわからない。それほどまでに彼女は、美しい微笑みを浮かべていた。


 普段の千代の微笑みは、ほんの少し口の端を持ち上げただけの、本当に微かな笑みだ。けれど、その時だけは、彼女は心の底から……慈愛の笑みを浮かべていたように見えた。


「お前、まさか……」


 話したのだろうか、と梓馬は悟った。自分の息子が、彼女に対して、幼少から刻み込まれた一族の秘密を話したことが、信じられなかった。


 けれど同時に、そこまで悠真の信頼を勝ち得た千代という少女に、妻の幻影を重ねてしまう梓馬がいた。


 ああ、そうだ。彼女もああいう目で俺を見ていた。


 一瞬自分の頭に浮かんだ思考に、梓馬ははっとして首を振る。


 そんな梓馬の心情を知らず、千代は口を開いた。


「貴方が本当にしたいことを、してください」


 千代の澄んだ瞳が、まっすぐに梓馬を貫く。


「私は、貴方の意見を、尊重します」


 ああ、やめてくれ。


 梓馬の脳が、感情を無視して過去を振り返る。


 妻も、こういう人だった。何もかもを見透かすような、澄んだ瞳で梓馬を見つめてきた。そうして、自分の醜い部分を晒した梓馬に、言うのだ。


『貴方が本当にしたいことを、していいのよ。貴方が望むことなら、私はなんだって応援するわ』


 彼女の純粋な瞳に、たまらず『それがもし、人を殺すようなことでも?』と梓馬が尋ねると、彼女はきょとんとした後、快活に笑い飛ばした。


『何かよっぽど嫌なことをされたのね! 人を殺す手伝いはできないかもしれないけれど、悪口の手伝いなら全力でするわ』


 彼女は信じていたのだ。梓馬は決してそんなことはしないと。梓馬はそんな彼女を裏切る訳にはいけないと思った。だからこそ、変わろうと思ったのだ。


 彼女と過ごした記憶を思い起こして、梓馬は急に苦しくなった。


 俺は、彼女が信じて、愛してくれた俺のままだろうか……?


 答えは、否だ。


「……悠真の、お父さん?」


 千代に声をかけられて、梓馬ははっと顔を上げる。いつのまにか、見てとれるほどの汗をかいていた。


 酷い動悸がする胸を押さえながら、梓馬は千代を睨みつけるようにして見つめる。全てはお前のせいだと言わんばかりに。


「……他人の家族の事情に、口を出すな」


 強い語気の言葉だった。けれど、千代は全く意に介す様子もなく、ただ黙って微笑んでいた。彼女の慈愛に満ちた眼差しが、妻の訴えのように感じて、痛かった。


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