第92話 柊木梓馬:喪失と復讐
柊木梓馬にとって、この世で唯一愛した女性……妻を失ってからの人生は、海の底を歩いているような、息苦しく、ただただ重たいだけの、陰鬱なものだった。
梓馬の妻は、明るく美しい人だった。
梓馬は、お世辞にも良いと言えないような家庭環境で育った。俗にいう、ネグレクトというやつである。
梓馬の母は、水商売をしている女性で、梓馬の父は、客の内の一人だったらしい。彼女曰く、「どれがそうなのかわからないわ」ということらしいが、梓馬にその意味が分かったのは、大分年齢を重ねてからだった。
そんな母親だったからか、自分が母親であるという意識も極端に低かったらしい。梓馬は、幼い時から放置されて育った。幼少期に命を落とさずに済んだのは、運が良かったのか、悪かったのか。まだ赤子だった頃は、母に文句を言いながら、梓馬の面倒を見てくれる祖母がいたものだが、幼稚園に入るような年齢のころにはその祖母も亡くなってしまった。
自分の死期が近いことも、自分の娘が今更何を言ってもどうしようもないことも、わかっていたのだろうか。祖母は、まだ幼い梓馬に言い聞かせて育てた。
「賢くありなさい。一人でも生きていけるほど、賢く」
幸い、梓馬は祖母が望んだように、賢く成長した。だから、自分の母親があてにならないことも、自分の父親が存在しないのと同義なのだということも、よく理解していた。
金さえ出してもらえればいい。生きてさえいられれば御の字だ。
梓馬はそう思って、一人で生きてきた。けれど、そんな梓馬の人生は、中学卒業を目前に控えたある日に、大きく変わった。彼の父を名乗る人物が、彼の前に姿を現したのである。そうして梓馬の父を名乗る男は、彼に言った。
「お前を生かしてやる。その変わり、一族の使命を果たしなさい」
梓馬は一も二もなく頷いた。
梓馬には、生きる意味も、人生の楽しさも、よくわからない。けれど、幼いころから死が身近にあったせいか、生存本能だけは、刻み込まれていたのだ。
梓馬は本能に従って柊木の家に引き取られ、そして、本家のお嬢様と結婚するようにと命令された。
それこそが、彼の妻だった。
「ウチの実家、ちょっと変わってるの。貴方も急なことで、戸惑ったでしょう」
初対面で苦笑しながらそう言った彼女を、梓馬は変な女だと思った。柊木の一族はみんな、梓馬のように陰鬱な空気をまとっていたのに、彼女だけは、春の日差しのような陽気を放っていたからだ。
彼女は太陽のような女性だった。
梓馬の暗い人生を、笑顔と明るい笑い声で吹き飛ばして、極彩色のものに変えてしまうような、パワーを持った女性だった。
そして、彼女は梓馬の全てを、受け入れて、抱きしめてくれた。
「そんな風に自分を卑下しないで、貴女はとっても素敵な人よ。だって、私の好きになった人なんだから!」
「どうしてすぐ『僕なんか』って言うの! 私の好きな人の悪口を言うなら、いくらあなたでも許さないわよ!」
「もっと自信を持っていいの。貴方は存在してくれているだけで、私を幸せにしてくれているの。本当よ!」
彼女の放つ言葉の一つ一つが、宝石のような輝きを放っていた。梓馬は、心の宝箱にそれを一つずつ仕舞っていって、たまにそれらを取り出して眺めることで、少しずつ心に空いた穴が満たされていく心地がしていた。
いつしか、彼女との結婚は義務ではなく、梓馬自身の願いになっていた。
ああ、自分は彼女に出会うために生まれてきたんだ! 今まで辛かったことも、苦しかったことも、全て彼女と出会って幸せになる為に。その辻褄合わせの為に、必要なことだったんだ!
梓馬はそう思って、彼女と共に過ごす日々の幸福を享受していた。
その幸福に影が差したのは、彼女と梓馬の間に、子供ができてからだった。
子供ができると、彼女は寝込むことが増えた。出産というのはこういうものなのかと思いながら、梓馬は必死に看病をしたが、彼女が良くなることはなかった。
「大丈夫、私は大丈夫よ。それより、お腹の中の子は大丈夫なのかしら?」
「子供のことより、まずは自分の心配をしてくれ。君に何かあったら、ボクはもう生きてはいけない」
「まあ、なんてことを言うの。貴方はこれから、お父さんになるのよ。私のことより、この子のことを想ってちょうだい」
そう言って、慈しみの表情でお腹を撫でる彼女に、いつしか梓馬は不満を抱くようになった。いや、正確に言えば、梓馬が不満を抱いたのは、彼女ではなく、彼女のお腹に居座る子供である。
あれのせいで、俺の幸福が脅かされている。
自分の子供に向かって、梓馬は恨みに近い感情を抱き始めていた。
それが決定的になったのは、悠真が生まれてしばらく――彼女が亡くなってからだった。
「よくやった、アレは柊木の使命を軽く捉えていたようだが、お前に出会って子供を産みたいと言い始めるようになった。お前のおかげで、柊木の悲願は受け継がれた」
彼女の葬式で、彼女の父に言われた言葉がそれだった。そこで初めて、梓馬は柊木の一族の能力の特性のことを知ったのだ。
どうでもよかった。そんなどうでもいいことの為に、彼女の命が失われたことが、梓馬にはどうしても受け入れられなかった。
そうして、全ての憤りは、彼女の命を吸った息子に向けられた。
柊木の一族の悲願など、知ったものか。けれど、これには彼女の命を奪われた恨みがある。ならば、ちょうどいい。自分と同じ苦しみを知ればいい。世界で一人きりになるような、この苦しみを。途方もない、孤独を。
そうして息子に呪いをかけた。柊木の一族が背負うものとは、また少し違った呪いを。
「呪いなさい、悠真。この世界こそが、お前に苦痛を与えている。生に意味などない。何も求めるな、何も知るな、孤独であれ。そしてそのまま――死んでくれ」
それこそが……その復讐を果たすことだけが、梓馬の生きる意味になると信じて。
それが梓馬の全てであった……はずだったのだ。けれど、ここに来てそれが、たった一人の小娘によって脅かされようとしていた。




