第8話 柊木悠真:橘千代という少女
橘千代という、最近の子にしては珍しく古風な名前の女の子は、近所一帯では有名人だった。というのも、天才児なのではないかという噂が広まっていたからだ。
実際に彼女に会ったことのある近所のマダムは、感心したように息を吐きながら言うものである。
「橘さん家の千代ちゃん、落ち着きがあってお行儀が良くて、とても五歳児とは思えないくらいよ。何か特別な教育でもしてるんですかって、奥さんに聞いたけど、特に何もしてないって言うし……。ウチ息子に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだわあ」
近所で評判の彼女だが、その実態が自作乙女ゲームに転生し、世界滅亡を企む危ない精神年齢アラサー幼女だということは、誰にも知られていない。とんだ詐欺であるが、それを知るのは千代ただ一人だけだ。
彼女が通っている幼稚園でも、彼女の評判は上々だ。
「千代ちゃん、正直言ってすごく助けられてるんですよね……。私たちが声を張り上げても話を聞いてくれない子でも、千代ちゃんの言うことなら聞いてくれるし。絶対に危ないことはしないし、させないし……。あ、それに、最近園の中でも扱いに困っていた子のお世話までしてくれるようになって……!」
幼稚園の先生が語るように、近頃彼女はある男の子に構うようになっていた。
柊木悠真という名前のその男の子は、先生たちの手にも余っていた。何をしても、表情が変わらず、口を開くこともない。子供たちに仲間外れにされようとも、ただただ黙って静かに座り込んでいるだけで、泣き出すことすらしなかった。
見かねた担任が、仲間外れはよくないことだと園児たちに説いて、一緒に遊ぶように促しても、気が付けば輪から外れている。外されているのではなく、自然と外れているのだ。どうやら本人の意思で一人になっているらしいと理解したはいいものの、幼稚園は他人と過ごすことに慣らす場でもある。放置しているわけにもいかない。
どうしたものかと頭を悩ませているうちに、スッと彼のそばに寄って行ったのが、橘千代だったのだ。
最初は、彼女も相手にされていないようだった。けれど、何も言わず、ただ隣に居続けるだけの存在に、最初はどこか居心地が悪そうにしていた彼も、徐々に慣れていったようだ。やがて、ポツリポツリと言葉を漏らすようになっていった。
「どうして、キミはボクと一緒にいるの?」
悠真の口から最初に飛び出たのは、そんな純粋な疑問の言葉だった。けれど、それはどこか切ない響きを持っていて、何かを懇願しているようにも聞こえた。
千代は、その言葉に表情を変えることなく、ポツリと呟いた。
「ありがたいから……」
千代の言葉に、悠真は人生で最も混乱することとなった。
ありがたいから? 彼女の言っている意味が、まったくわからない。
悠真は、家の中に所蔵されている本を読み漁っていたので、他の子どもたちよりずっと多くの言葉を知っている自信があったし、実際に知識も深かった。けれど、千代の放った言葉の本意が、一切合切理解できなかった。
困惑した悠真は、帰宅してすぐに辞書を開いた。有難い、という言葉を指先でなぞって、丁寧に意味を拾っていく。
「人のこういに対して、かんしゃする……。これは、ちがう。つごうよく事がすすんでうれしく思う……ちがう。ボクは何もしていないんだから、つごうのよいことは、ないはずだし。じゃあ、またとないくらいとうとい……もったいない……?」
悠真の脳内は混迷を極めた。彼女の放った言葉の意味が、全くつかめそうになかったからだ。
困惑した悠真が次に思いついたのは、彼女の言葉には実は何の意味もないのではないだろうか、という発想だった。考えてみれば、自分の周りにいる子供たちというのは、ものをよく知らないし、大人の真似をしたがるものだ。だから、彼女も言葉の意味などよく知りもせずに、適当に聞いたことのある単語を発しただけに過ぎなかったのではないか、と思ったのだ。
けれど、そんな疑念は、すぐに払拭されることとなった。彼女は、周囲から明らかに特別扱いをされるほど、賢い子供だったからだ。
幼稚園の先生も、彼女が子供たちの近くにいれば、安心しているようだったし、評判に聞き耳を立ててみれば、絶賛されるばかり。それに、時折漏らす彼女の言葉を聞いてみても、彼女の思慮深さが透けているように思えた。だからこそ、悠真はますます混乱した。
ありがたいって、一体どういう意味で言ったんだろうか?
疑問が深まった彼は、少しだけ、千代のことを知ろうとした。
「ちよ……ちゃんは、なにがすき?」
「好きなもの……わからない」
「じゃあ、きらいなものは?」
「……現実」
大人びたことを言う子だと思った。そして、悠真はその回答に深く共感した。悠真にとっても、現実というものは、冷たく、厳しいものだったからだ。