第85話 百田七緒:僕の王子様
世界から全ての音が消えて、固く閉ざした瞼の下、ガキン、と音がした。
七緒は何事かと目を見開く。その拍子に、頬を、瞳に溜まっていた水が流れていった。
そこには、闇があった。
それが、少女を守るように包み込み、凶刃を退けている。
状況に全くついていけていなかった。
困惑するばかりの七緒の前で、闇が広がる。本能的に恐怖を覚えるが、それより先に、視覚に会った変化に、七緒は目を奪われた。
その闇の中から、つま先がにゅっと出てきて、それからスラリと伸びた足が現れる。それから、白いシャツが出現し、顔がぼんやりと浮かんで、それが人間であるとわかった。
闇の中から現れたそれと、目が合って、微笑まれる。
ヴァイオレットの瞳が描く線が、なんとなく既視感を感じさせた。
誰?
知らない誰かは、何も言わずに七緒の体の戒めを解いてくれた。
混乱しながらも七緒は、自分を守ってくれた少女の元へと向かう。少女は固く目を閉じていて、その目じりには涙が浮かんでいる。
それを見ると、胸がきゅっと痛んだ。
彼女が受けていた恐怖、そして固めた覚悟を想うと、自然と涙があふれ出た。
良かった。
無事で、良かった。
七緒が少女に縋りついて泣いてると、目を開いた少女が、必死に体を起こそうともがき始める。
状況を把握しようときょろきょろしている少女に、七緒の背後から手が伸びてきた。その手が優しく彼女の背中を助け起こし、後ろを振り向かせる。
それにつられて振り返ると、そこには四人の少年がいた。
いつの間に?
内心驚愕しながら、七緒はさっと彼らを観察する。
大体皆、七緒と同じくらいか、少し上位の年頃だろうか?
彼らは、強い能力を持っているようで、瞬く間に誘拐犯を制圧し、拘束してしまっていた。
助かったのだ、自分たちは。
安堵の息を吐いていると、七緒を解放してくれたヴァイオレット瞳の少年が、そっと千代の拘束を解いていく。
その姿をじっと見つめていると、また目が合った。優しく微笑まれて、七緒は気が付いた。
そうか、彼の笑顔は、何だかこの少女の微笑みと似ているのだ、と。
「ねえ、キミ、大丈夫?」
「え……?」
急に話しかけられて、七緒は戸惑いの声を上げた。いままでずっと、黙って行動していた彼が、急に声を上げたことに、驚いたのだ。
「お兄さんたちは……誰? どうして……ここに?」
質問に答えるより先に、ずっと七緒の中に渦巻いていた疑問が顔を出した。
極度の緊張状態から解放されて、気が緩んでいたからかもしれない。
少年は、少し目を丸くさせると、再び微笑んで言った。
「助けに来たんだよ、キミたちを」
「僕たちを……?」
その時、他の三人と会話をしていた少女の顔が、少年に向いて、彼は顔を輝かせながら、彼女に告げた。「助けに来たよ、千代ちゃん」と。
少女は苦し気に頭を抱えて、しゃがみ込む。
様子のおかしな彼女を心配していると、少年が彼女に寄り添って、そっとその肩を撫で始めた。
「ねえ、気にしないで、千代ちゃん。ボクたちが来たくてここに来たんだから。それに、千代ちゃんも知っているでしょう? ボクたち、そんなに弱くないよ。だから……ね? 気にしないで?」
その言葉を聞いて、七緒は気が付いた。
彼らを巻き込んでしまったことに、彼女は心を痛めているのだ。
それから、思い出す。彼女が、優しく声をかけてくれたこと。誘拐犯の手から、七緒を庇って殴られていたこと。そして――。包丁を前にしても、ひるむことなく、身を挺して七緒を助けようとしてくれたこと。
「あの! 違うんだ! 僕が……僕が、悪いんだ! あの人に狙われていたのは僕で、お姉さんはそれに巻き込まれただけで、それなのに、お姉さんは僕を助けてくれて! だから、だから僕が……!」
少年に、わかってもらいたくて。少女に、元気を出してもらいたくて。七緒は必死に言い募った。けれど、七緒の唇の前に、白い指先がそっと立てられて、ゆっくりと左右に振られる。
それは、少女の人差し指で、その手が、七緒に続きの言葉を飲み込むように促していた。
七緒が黙り込むと、少女の口角がほんのりと上がる。目が合うと、その瞳が微かな弧を描いていることに気が付く。
彼女は、微笑んでいた。
「君は……悪くない」
少女の手が、七緒の頭に伸びて、その髪をさらりと撫でつける。
「よく……頑張った……。ごめんね……」
優しい少女の手つきに、七緒はなんだか泣きそうになってしまった。
少女の優しさに、胸が痛む。けれど、どうして謝るのだろう、と考えたところで、気が付いた。
そうか、彼女はずっと。助けてあげられなくてごめんね、と。そう謝っていたのだ。自分の力が足りないことを、ずっと……。
きゅうっと、胸が掴まれたような感覚になって、七緒は自身の胸に手を当てた。ドキドキと、鼓動が高鳴っていた。
足りなくなんて、なかった。確かに、君に救われたんだから。
その気持ちを伝えたくて、ありがとうと告げるだけでは、足りない気がして。
七緒は、自分の持つ最高の賛辞を送りながら、彼女に抱き着いた。
「ありがとう……! 僕の、王子様……!」
その瞬間から、少女は七緒の世界で、一番輝く人になったのだ。




