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第84話 百田七緒:女の子

 七緒の勇気を振り絞った懇願によって、時が止まった。


 正確には、時が止まったのかと錯覚してしまうような、沈黙が訪れた。


 ぴたり、という擬音が聞こえてきそうなほど、急激に動きを止めた誘拐犯が、七緒の名前を呟きながら、ギョロリと目玉を動かす。


 その濁った瞳に、七緒の姿が映りこむと、彼女はまるで光を仰ぎ見ているように、眩しそうに目を細めた。


 七緒がその変化に戸惑いを浮かべるより先に、彼女の厚い唇から、呪詛のごとく言葉が滑り落ちる。


「ナナくん、ナナくん、ああ、ナナくん! 私よ、ほら、わかるでしょう! あなたの愛するお姉さんよ! ああ、やっとあなたと愛し合える時が来た、嬉しいでしょう? 嬉しいわよね、そうよね! ああ、あなたと一つになりたいの、あなたと混ざり合いたいの、あなたのその綺麗な顔と、同じ顔をした子供も欲しいの!」


 何を言っているのか、全く理解ができなかった。もしかすると、理解したくなかったのかもしれない。


 愛するお姉さん? 知らないよ。会ったこともない。


 愛し合える? 嬉しい? 誰なんだよ、どうして知らない人を、好きになると思えるんだ。


 誘拐犯の視線が、七緒の全身を舐め回す。ほんのりと上気した頬と、荒い息を吐き出す口が、獣を想起させた。

 

 ゾワリ、と七緒の背筋が粟立った。


 一つになりたい? 子供が欲しい? 一体、この人は何を言っているんだ?


 いや、これは本当に、人なのか?


 これは一体、何なんだ?


 知らない。こんな生き物、知らない。


 七緒は身動きの取れない体を揺らして、何とか引き下がろうとする。


 自然と悲鳴が唇からこぼれ出た。


「それなのに、どうしてそんな女があなたのそばにいるの、どうしてあなたを抱きしめているの、どうして私じゃないの。どうして……どうして、どうして、どうして、どうして!」


 七緒の知っている『女の子』は、親切で優しい生き物だった。たまに、女の子同士で喧嘩をしている姿を見せることはあるけれど、七緒に対して強く当たってくる子は、ほとんどいなかった。


 だから女の子は、そういう生き物なのだと思っていた。


 七緒を好きになってくれる、七緒に優しい生き物。


 だけど、これは? それなら一体、何だと言うんだ?


 七緒の意志を無視して、誘拐して。自分の勘違いを本当だと思い込んでいる、恐ろしい生き物。自分の欲望さえ満たせれば、七緒の気持ちなんて無視する、身勝手な生き物。


 一つも言葉が通じない、化け物。


 これが……『女の子』の正体なの?


「私のものにならないなら……せめて、一つになりましょう?」


 誘拐犯の表情が、抜け落ちる。そうして、何を考えているのか理解できないような、伽藍洞の目をしたまま、くるりと踵を返して、部屋を出て行った。


 視界から、誘拐犯が消えて、七緒は正直ほっとした。けれど、すぐにまた帰ってくるだろう。


 落ち着け、考えなきゃ。どうにか逃げ出さなきゃ。


 落ち着け、落ち着け。


 必死に己を落ち着かせようと試みるも、震えが止まらない。奥歯が上手く噛み締められなくて、歯が擦れあうカチカチという音が響く。


 まるで、生命力が吸われているみたいに、指先が冷えていた。


 七緒が落ち着きを取り戻すより先に、誘拐犯は部屋に戻ってきてしまった。


 その手の中に光るものを見て、七緒は呼吸が止まった。


 包丁だ。


 僕を殺す気なんだ。


 どうして? 自分の思い通りにならないから?


 そんなの、当たり前じゃないか。


 僕だって、生きているんだから。ボクの意志があって、当然なのに。


 そんなことすら、わからないの?


 七緒の喉が、ひゅーひゅーと音を立てる。呼吸が上手くできなかった。


 恐ろしくて、たまらなかった。


 怖い。女の子が、怖い。


 目の奥が熱くなって、視界がぼやけた。


 未だかつて経験したことのない恐怖を前にして、七緒の思考回路は混沌としていた。


 恐怖と嫌悪が、一つの属性に結びつこうとしていた、その時。


「殺すなら、私を……!」


 七緒の視界に、小さな背中が割り込んできて、そこで七緒は、ようやく思い出した。


 自分を守ろうとした、小さな『女の子』の存在を。


 ああ、そうだ。


 僕を守ってくれたのも、この『女の子』だった。


 そうだ。『女の子』が怖いんじゃない。この誘拐犯が、おかしいんだ。


 でも、どうして?


 どうしてこの子は、命を懸けて、七緒を守ってくれるのだろうか。


 わからない。


 わからないけれど、自分を守ろうとしてくれた少女は、憧れていた物語の、王子様のように凛としていた。


 格好いいな、と自然と思った。


 だから……失ってはいけないと、ただそう思ったのだ。


「なんで……! ダメ、ダメだよ、やめてよおばさん! お姉さんも、そんなこと言わないでよ……!」


 喉が焼けるように熱くて、痛かった。


 けれど七緒は、必死に懇願した。


 少女は、七緒の声に振り向いて、何故か、申し訳なさそうに、微笑んだ。


「……ごめんね」


 何に対する謝罪なのか、どうして謝るのか。


 理解できないまま、大きく振り上げられた誘拐犯の手が、吸い込まれるように少女に向かって、振り下ろされる。


 七緒は必死に体を揺らして、何もできずに、それを見ていた。


「あああああああああ!」


 絶叫が、七緒の口から滑り落ちていく。


 それは、どこか別の世界の出来事のように、他人事みたいに、遠くで、響いた。



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