第76話 水瀬彗斗:記憶より
慧斗はなにやら妙な納得感が腹の底に落ちてくるのを感じた。
そうして、少しだけ玲児のことを見直した。
「貴様は……」
もう少し話をしてみるべきかと顔を上げる。しかし、激しい怒声が聞こえてきて、自然と視線がそちらに向いた。
「千代……?」
どうやら、知らぬ間に千代が妙な男に絡まれているようだ。反射的に助けに入ろうと足を踏み出す横で、それより早く動く影があった。玲児である。
「おいおい、お前は真面目ちゃんなワケだし、引っ込んでろよ」
軽く慧斗を振り返りながら、玲児がニヤリと笑った。
「なっ……!」
その背中に追いつく間もなく、玲児は千代の前に立ちはだかり、大柄な男と怒鳴り合い始めてしまった。
慧斗はため息を吐いて、不安げな表情をしている千代の肩を叩く。
詳しい事情を尋ねると、どうやら千代が男性にぶつかったことをきっかけに、恫喝されていたらしい。
謝罪も、服を汚してしまった分のクリーニング代の支払いの提案もしたというのに、未だに突っかかってくるというのなら、千代が困ってしまうのも当然であろう。凡そ子供に対する大人の態度ではない。
慧斗は目に涙を浮かべる千代を不憫に思って、そっとその頭を撫でつけてやった。
自分たちが目を話しているうちに、怖い目に遭わせてしまったことに対する罪悪感もあった。
「泣くな、千代。大丈夫だ、俺が守ってやる」
できるだけ優しい声で語り掛けると、千代はなぜか頭を横に振った。
自分のせいで、騒動に巻き込んでしまうのが、心苦しいのだろう。自分でなんとかする、とでも言わんばかりに駆けだそうとするのを、慧斗は何とか押しとどめる。
行かせてくれ、と訴える瞳を見て、慧斗は微笑んで、眼鏡を預けた。
少なくとも、千代があの騒ぎに突っ込んでいくよりも、自分が仲裁に回る方が良いだろう。
そうして駆けだした先で、目の前に拳が迫り、慧斗の視界はブラックアウトした。
気が付くと、目の前で悠真が手を振っていた。
「おはよう、慧斗くん」
「ああ……おはよう、悠真」
既に何度か見た光景に、慧斗は動揺することなく返事をする。周囲を見ると、未だに柄の悪い男たちがいた。
「さて、慧斗くんも起きたことだし……。お兄さんたち」
悠真が男たちの方に体を向けると、明らかにその肩が跳ね上がった。
じりじりと後退していく様子を見て、慧斗は目を細める。
只者ではないと思っていたが、どうやら慧斗以外の人間の目から見ても、悠真は特別に映るらしい。
「ボク達、一緒に花火を見たくて集まったんです。友達と一緒に花火を見たいっていうこの気持ち……。わかっていただけますよね?」
夢をみるように輝く悠真の瞳を見て、男性たちは口々に「あー」だとか「まあ……」だとか、意味のなさない声を漏らしながら、足早にその場を去っていった。
その背中を、手を振って見送っていた悠真が、くるりと振り返って、言った。
「さあ、それじゃあ、皆で花火を見に行こうね!」
なんだかよくわからなかったが、うまいこと事態は収まったらしい。
慧斗は頷いて、悠真と、悠真に連行されていく千代の背中を追った。
「……オイ、アイツ、どうなってんだよ」
黙ってついて来ていたらしい玲児が、背中から小声で話しかけてきた。
慧斗は眉を寄せて、普通の声量で言葉を返す。
「どう、とは?」
「だから、あー、クソ! 見てたのはお前の方じゃねェのか」
苛立った様子で頭を掻く玲児に対して、慧斗は無言で続きを促す。
「アイツ、やべェ能力持ってるっぽいンだけど、お前知ってたか?」
「能力?」
「知らねェのか」
慧斗が首を傾げるのを見て、玲児は何か考え込み始めた。
「それは……」
「慧斗くーん、玲児くーん! 花火見に行かないのー?」
慧斗は詳細を尋ねようと口を開いたが、先を歩いていた悠真の大声に、続きを飲み込んだ。
「今、行く!」
負けじと大声を出した彗斗に、悠真は楽しそう笑った。
「花火って、綺麗なのかな?」
悠真と千代に追いつくと、不意に悠真がそんなことを言い出した。
怪訝そうな顔をした玲児が、じっと悠真の顔を見ながら、口を開く。
「ア? お前、花火見たことねェの?」
「うん、家から出してもらえなかったから」
さらりとした返事に、彗斗は目を瞠り、じっくりとその横顔を眺めた。
以前、悠真は、化け物の気持ちがわかると言っていた。もしかすると彼にも、あったのかもしれない。自分を化け物だと感じるような、時間が。
「俺も幼い頃に家族と見た以来だ」
親近感、と言えば良いのだろうか。
悠真がとても、身近な存在であるように感じられて、その感覚が彗斗の口を自然と動かしていた。
自分が意図して口にした訳ではない言葉に、彗斗は一瞬はっとする。
「そうなんだ。じゃあ、今日のことは良い思い出になるね」
しかし、悠真が穏やかに微笑むのを見て、彗斗は自分が何か正しいことができたような気がした。
会場には、人が増え始めていた。
彗斗が人混みに流されかけると、その手を誰かに取られた。顔をあげると、微かに眉を寄せる千代の顔があった。
目が合うと、ほんの少しあった強張りが解ける。微笑んだのかもしれない。
「あっ! 見て!」
悠真の大きな声が響いて、そちらを向く。その視線は、真っ直ぐに空へと向かっていた。
視線の先を追いかけるように、顔を上げる。
ほとんど同時に、大きな音が響いて、光に包まれた。
ずっと昔に、両親と共に見上げた花火は、綺麗だったはずだ。けれど、時が経つとともに、その記憶は色褪せていった。
悠真の嬉しげな声に返事をしながら、彗斗は密かに感動していた。
記憶の中のものよりずっと、美しい。
「一緒に見られて、嬉しいねー!」
悠真がそう言ったのと同時に、彗斗の手が、強く握られた。
驚いて顔をあげると、千代が微笑んでいる。
そうか、彼女も、思っているのだ。一緒に花火を見られて嬉しいと。
もしかすると、記憶の花火より、今目にしているこの花火が美しいと思うのは。彗斗も思っているからなのかもしれない。
この友人たちと、共に花火を見上げられて嬉しいと。
「そうだな」
返事をする彗斗の口角は、自然と上がっていた。




