第72話 水瀬彗斗:神様
橘千代と名乗った不思議な少女から、半ば強引に連絡先を聞き出して、帰路についた時、彗斗はぼんやりとしていた。
なんだか、夢の中にいるようだった。
少女……千代は、多くを語らなかった。
どうして自分を知っていたのか、何故受け入れてくれたのか。疑問に思ったことをぶつけてみても、彼女から返ってきたのは一つだけだった。
「キミのことは、ずっと前から知ってた……」
彗斗はますます混乱した。彼女の考えていることが、まったく読めなかった。
ただわかったのは、彼女が間違いなく、彗斗がおかしい人間だということを理解した上で、彗斗のことを受け入れてくれたのだということだった。
「橘、千代……」
口からこぼれ出た言葉を聞き取ったようなタイミングで、彗斗の前に立つ影があった。
彼は当然それを避けようとして、進行方向を変えるが、阻むように道を塞がれる。
折角気分が良かったのに。またか。
思わずため息を吐き出しそうになりながら、彗斗は視線をあげた。見知らぬ人間に突如として絡まれることに、慣れすぎていた。
目の前に立つ人物を視界に収めて、彗斗は少し意外に思った。想像していたより、随分と華奢なシルエットだった。
「俺に、何か用だろうか?」
警戒しながら尋ねると、目の前に立った人物は、にこりと笑った。
「千代ちゃんに会ったんだよね?」
途端、彗斗は警戒心を引き上げながら、目前の少年をつぶさに観察する。
よく見ると、随分と整った顔立ちの少年だった。夜の闇に溶けるような髪の下に、ぼんやりと白い肌が浮き上がり、その中で、紫色の瞳が、煌々と光っている。
「……お前は、何者だ?」
ゴクリ、と唾を飲み込む。
不思議な存在感を放つ少年を前に、彗斗は自分が緊張していることに気がついた。
少年は、おかしなことを聞いた、とでも言いたげに、首を傾げる。それから、ああ、と得心がいったように手を打った。
「今晩は。ボクは柊木悠真。千代ちゃんの幼馴染だよ」
「幼馴染……」
「うん。そう。大事な、大事な幼馴染」
そこで彗斗はピンときた。
ああ、そうか。この少年は、彗斗に警告に来たのだ。
その、大事な幼馴染とやらが、彗斗のような恐ろしい噂を持つ人間と関わることが、彼には我慢ならないのだろう。
妙に泰然とした様子の少年だったが、きっと幼馴染のために、勇気を奮い立たせてここに立っているのだろう。
そう思うと、目の前の少年が、やけに眩しく見えた。
彗斗にはない、守るべきものが……大切な存在が、彼にはいるのだ。
「……わかった、いいだろう」
「え?」
彗斗の言葉に、少年……悠真は、きょとんとした。
「俺に、千代に近づくなと言いたいのだろう。わかった」
彗斗の意図を解していなさそうな悠真に重ねて告げると、悠真はなぜかおかしそうに笑った。
「そんなの、意味がないでしょう?」
「は? 意味がない?」
彗斗には、悠真が何を言いたいのか、皆目見当がつかなかった。
悠真は笑みを浮かべたまま、人差し指を立てる。
「あのね、キミは千代ちゃんという人を理解していないんだね」
「それは……当然だろう。彼女とは先ほど知り合ったばかりだ」
「うんうん、そうだね。だから、キミに良いことを教えてあげる」
悠真の弧を描いていた瞳が、大きく開かれて、暗闇の中にバイオレットの光が放たれた。
「千代ちゃんはね、神様なんだよ」
「……は?」
「彼女はね、ボクの神様なんだ。慈悲深くて優しくて、いつだって正しい、唯一無二の存在」
恍惚とした表情を浮かべる悠真を前にして、彗斗は自然と後ずさる。
背中に妙な汗をかいていた。
確かに彗斗も、千代は、不思議な雰囲気を持つ少女だと思っていた。けれどそれは、信仰を向けられるほどの大きな求心力を感じさせるほどでは、ないはずだ。
正体のわからない恐ろしさに、体が引けていると、不意に、悠真は明後日の方向に向けていた視線を彗斗に戻し、にっこりと笑った。
「なんてね」
「……は?」
「あはは、流石に神様なんてのは言い過ぎだけど、そのくらい優しくて素敵な子なのは間違いないよ」
おどけたように首をすくめて見せる悠真に、彗斗はほっと息を吐き出した。
なんだ、冗談だったのか。……いや、冗談にしては、目が……。
一瞬浮かんだその考えを、首を振って追い出す。
今大切なのは、そんな話ではないはずだ。
「……それで、その優しくて素敵な幼馴染について、どんな話があって俺のところに来たんだ?」
「うん、本題だよね。つまり千代ちゃんは……ずっと君を心配していたんだよ」
「心配? 俺を?」
彗斗は目を見開いた。
千代とは面識がなかったはずだ。それなのに、何故?
「だから言ったでしょう? 千代ちゃんはね、神様みたいな人なんだって」
困惑している彗斗の前で、悠真はまた、笑った。