第71話 水瀬彗斗:受容
それから彗斗は、 静かな世界にいた。
正確に言うと、彗斗の周囲は常に騒がしかったが、彼にはあまり関係がなかったのだ。
だってそれは、彗斗の人生には必要のない人たちだったから。
時折、彗斗を利用しようと近づいてくる人たちもいたが、最後にはいつも同じだった。
「気持ち悪い……!」
「化け物……!」
そう言って、彼らは逃げ出した。
彗斗はその度にぼんやりと自分の手を眺めた。本当はそうでない時でも、血がついている気がした。
でも、仕方がないのだ。
だって彗斗は、おかしいのだから。
何もかもが他人事のように過ぎ去っていく日々の中で、ある日、彗斗は目を覚ました。
体が痛い。
唸り声を上げながら、彗斗は周囲を見回す。家でもなく、外でもなかった。
「あれ、ここは……?」
混乱しながら現状を確認しようとすると、予想外の場所から声が聞こえてきた。彗斗の体の真下、だ。
「あの、どいて……」
涼やかな声が耳を打って、彗斗は反射的に謝罪をしながら飛び退いた。
彗斗の下敷きになっていたのは、小柄な少女だった。
少女は、彗斗の謝罪など意にも介さず、乱れた髪を整えていた。
彗斗は不思議だった。
何しろ、彗斗が今まで目を覚まして、至って普通に動いている人間など、初めて目にしたからだ。
怪我をして意識を飛ばした人間か、怯えて震えている人間、または、憎悪と怒りを向けてくる人間。彗斗が覚えのない場所で目を覚ました時、彗斗の近くにいるのは、そういう人間だけだったのだ。
しかし少女は、至って冷静な様子だった。
表情らしい表情を浮かべすに、手櫛で髪を梳いている。
彼女は、彗斗の中にいる悪魔に、会ってはいないのだろうか?
困惑した彗斗が少女の様子を窺い見ていると、不意に目が合った。
「本当にすまない、何かお詫びを……」
咄嗟に目を逸らしながら少女は小さく首を振って、ひたりと彗斗に視線を定める。
そして、言った。
「キミじゃ、ないから」
「え……?」
心臓がどくりと音を立てた。一瞬、少女の言葉を理解できずに、言葉を失う。
彼女は知っているのだ。彗斗の中に、悪魔が棲んでいることを。
「もしかして、もう一人の俺に会ったのか……?」
至って普通の態度を見て、違うのだと思っていたのに。
彗斗の脳内を、様々な記憶が駆け巡った。両親に助けを求める友人だった少女の姿。彗斗を気味が悪いと告げた両親の姿、化け物だと罵った、見知らぬ人々の姿……。
今回も似たような視線を向けられるはずだと、知らず体に力が入る。
しかし予想に反して、少女が彗斗に向ける視線は、凪いだままだった。
その瞳で見つめられると、彗斗は落ち着かなくなった。何かを期待してしまいそうになるからだ。
だから、自身の期待を打ち下したくて、彗斗は口を開いた。
「じゃあお前も、俺を気味が悪いと思うだろう。こんな出来損ないで、一人の体に二人いて、おかしいって言うんだろう」
悪魔を一人、と数えるべきなのだろうか。
彗斗は不意にそんなことを考えながら、少女に吐き捨てた。妙に冷静な自分がいた。
けれど、そんな彗斗の思考を砕くように、少女は言った。
「そんなことない!」
彗斗は目を見開いた。
頬を僅かに赤く染めながら、少女は必死に声を上げる。
「一生懸命生きてるから、生きてたから! だからでしょ! だから、そんな風に、言わないで!」
「お前……」
一体、彗斗の何を知っていると言うのだろうか?
一体、彗斗に何を伝えようとしているのだろうか?
理解できずに、彗斗は困惑した。
けれど、その言葉を飲み込んだのは、少女があまりにもまっすぐに、彗斗の目を見ていたからかもしれない。
その瞳に、彗斗を責める色がない。
彗斗は、祈りを捧げるように、言葉を重ねた。
「でも俺は、それだけじゃないんだ……顔も怖いし、頭もヘンらしいんだ」
少女は彗斗の祈りを聞き届けたかのように、首を横に振った。
どうして彼女は、彗斗に気味が悪いと言わないのだろうか。
どうして彼女は、彗斗に怒らないのだろうか。
どうして彼女は、彗斗を恐れないのだろうか。
疑問が身体中を渦巻いて、指先が震えた。
勘違いをしてはいけない。彗斗はおかしいのだ。だからみんな、彗斗を遠ざけるのだ。
彼女はそれを知らないから……でもだって、彼女は悪魔を知っていた! それでも彗斗は悪くないのだと言ってくれたのだ!
そんなはずはない! そんな都合の良い話が、あるわけがない!
何が起きているのか理解ができずに、相反する考えが次々に浮かんでは消えていく。
彗斗が苦しみに喘ぎ、頭を抱えていると、不意に、温もりが体を包み込んでいた。
抱きしめられている。
理解した瞬間、彗斗は息を呑んだ。
「あ……」
それは、幼い頃の……彗斗がおかしいと、両親がまだ気がついていなかった頃に、与えられた以来の。懐かしい温もりだった。
どうして……と思うと同時に、トントンと背中を優しく叩かれて、理解した。
彼女は彗斗を、慰めようとしてくれている。
「それでも、いいのか……? こんな俺でも、抱きしめてもらえるのか……?」
少女は何も言わなかったが、彗斗を拒絶しなかった。
それは少女が彗斗という存在を、受け入れてくれているという証左に他ならなかった。
彗斗はゆっくりと少女の背中に手を回し、抱きしめ返す。
わからないことだらけだったが、今はどうでも良かった。
ただ、腕の中の温もりだけが、彗斗の心を慰めてくれていた。