第70話 水瀬彗斗:悪いのは
別れは唐突だったが、必然と言えた。
無垢に慧斗を慕ってくれた少女が、慧斗の『中身』に用があるという連中に捕らわれたことが、すべてのきっかけだった。
呼び出しの手紙を手にし、慧斗は沼の底に沈んでいくような、とてつもない虚脱感に襲われた。
膝をついてしまいそうな体に鞭をうち、ひたすらに空滑りする視線を手紙へと向ける。
水瀬翠斗へ、と書かれた、出だしから何もかもが理解できない内容だった。
いったいこれは、誰に向けた手紙なんだ。
そう思う一方で、悲しいほどに理解していた。
慧斗はこの呼び出しに、応じなければならない。
身に覚えがないのだと言ったところで、少女は戻ってなど来ないのだから。
奥歯を噛み締め、嘆き、苦しみ、自身を憐れみたくなる心を圧し潰す。
そうして慧斗は呼び出しに応じ……気が付けば、少女は怯えた瞳を慧斗に向け、小さな声で、繰り返した。
「来ないで……! 助けて、助けてパパ……! 助けて、ママ……!」
次々と流れる涙を拭うことすら許されずに、慧斗は黙ってその場を去ることしかできなかった。
それから何日経っても、少女は学校にやっては来なかった。
それも当然のことかもしれない。知らない人間にかどわかされたことも、慧斗の恐ろしい一面を見たことも、少女の柔く純粋な心を傷つけるには、十分すぎる出来事だっただろう。
真っ当な判断だと言わざるを得なかった。
だが、慧斗は忘れられなかった。
甘やかな信頼を向けてくれていた瞳が、憎しみと怒りを孕んだ恐怖に染まっていたことを。
たった二人だけになった空間で、彼女のすすり泣く声と、両親に助けを求める悲痛な囁きだけが響いていたことを。
その瞬間確かに慧斗は理解したのだ。
己が身に棲みついているのは、人の心を解さない悪魔なのだ、と。
少女を助けようとして起きた出来事は、慧斗の心に深い傷として残った。
しかし慧斗は、未だ希望を捨てきることができずにいた。
それも当然のことかもしれない。なにしろ少女は、慧斗にとって人生で初めてできた友であり、幼子の頃から久方振りに心を許した人間だったのだから。
少女が学校に来なくなって、ひと月が経った頃、悩みに悩みぬいた慧斗は、少女の家を尋ねることに決めた。
家に誘われて、遊びに行ったことが何度かあったため、家の場所は知っていた。
だから慧斗が心を決めさえすれば、彼女の家を尋ねることは、難しい事ではなかったのだ。
家を尋ねる、そう決めた瞬間から、妙に息が浅くなって、どくどくと心臓が早鐘をうった。
慧斗がそんな風に緊張しているのは、随分と久しぶりのことだった。
前回がどんな時だったのか、思い出せないほどだ。
何故かその時慧斗は、「ああ、自分は生きているのだ」と生の実感をしたのだった。
そうして、妙な高揚感に包まれたまま、学校を終え、放課後、速足で少女の家へと向かう。
一歩歩みを進めるごとに、自分にかかる重量が増えていくような錯覚を覚えながら、それでもひたすらに足を動かし続けた。
そうして、ついにインターホンに指をかける。
指先が震えていた。はあ、はあ、と自分の呼吸が耳についた。
唇を舐めて、大きく息を吐き、慧斗はついにインターホンを鳴らした。
ピンポーン、と間の抜けた音が響いて……しかし、誰も出なかった。
留守なのだろうかと思いながらも、二度三度とインターホンを鳴らしていると、慧斗の背後を通りすぎていた人が、急に声をかけてきた。
「きみ、そこの家の人に用があるの?」
若い男性の突然の問いに、慧斗は飛び上がりかけたが、黙って頷いた。
「あちゃあ、残念だったね。そこの家の人たちは、昨日引っ越したらしいよ」
「え……?」
言葉が出なかった。
音が、急速に世界から遠のいていった。
声をかけてきた男性が、慧斗の前で手を振りながら、何かを言っている。
けれど、何と言っているのか、聞こえなかった。
呼吸が苦しくなり、胸元を押さえる。礼を告げる余裕すらなく、慧斗はその場を逃げ出した。
逃げられた。
少女は逃げ出したのだ。彗斗の中にいる悪魔から。
いや、本当にそうだろうか?
少女は彗斗から逃げ出したのではないだろうか?
だって、おかしいだろう。
こんな、自分の中に得体の知れない悪魔を飼っている存在なんて、恐ろしいだろう。
それに、父や母だって、彗斗を気味が悪いと言っていた。
あの時は、まだ悪魔はいなかったはずなのに。
ああ、そうか。
悪魔がいるから悪いんじゃない。彗斗がおかしいのが悪いのだ。
「気持ち悪いのは……俺だったんだ。恐ろしいのは……俺だったんだ」
彗斗は嗤った。
何故か視界が、ぼやけていた。