第52話 蓮実玲児:変な女
「殺したくなるンだよ」
今すぐにでもお前を殺せる、いや、殺したいのだと訴えかけるように、瞳に力を籠める。玲児がこういう視線を向けて、怯えないものはいなかった。
女性相手ならば、その場で泣き出してしまった例もある。
少女は、玲児の煮えたぎる欲望と憤怒の瞳を前に、憂いを帯びた瞳を伏せる。
玲児の頭は、妙に冴えていた。
この女の首に手を添えて、少し力を籠めれば、ぽっきりと折れるだろう。いや、そんなことをしなくても、少し小突くだけでも、この小ささなら体の真ん中からばっきりと折れるかもしれない。
はっきりとした殺意を込めて、玲児は言った。
「お前もそこから消えねェんなら、殺しちまうけど……?」
冗談の介在する隙の無い、ひりついた空気の中、突然、少女は微笑んだ。
玲児が驚く隙も無く、少女は玲児の懐に飛び込んで、胸元にかじりつく。
「構いません!!」
幼い容姿とは裏腹に、どこか超然とした態度をしていた少女が、ここにきて初めて声を荒げた。
玲児が目を見開いていることにも気が付かないまま、少女は必死に玲児の体に縋りついてくる。
それは、玲児がおよそ人生で初めて体験する、抱擁だった。
温かかった。
玲児の心臓が知っているのは、無関心の冷えた感情と、燃え滾る怒りの熱さだった。
ひやりと冷える心臓に、熱い血が通うような感覚は、今まで玲児を夢中にさせてきたものだった。それだけが彼にとっての悦びだった。
けれど、今、ここで。この不思議な少女に与えられている温もりは、それらとは全く違う。
俺のとは違う心臓の音がする……?
尖った感覚が、少女の心臓の音を拾う。
生きている。
これは生きている。
生きた人間の温もりが、自分を包み込んでいる。
その感覚は、玲児を困惑させるのに余りあるものだった。
玲児は、自分のそんな思考が、口から漏れ出していることにも気が付かず、目の前の少女の背中に、そっと手を回した。
少しだけ力を籠めると、折れてしまいそうな頼りなさげな背中に、指先が戸惑う。
どうしてこの女は自分の手の中に大人しく収まっているのだろう、と不思議な心地がした。
そして気が付く。
この少女は、他人の痛みに共感する人間だった。だとしたら彼女は……玲児の衝動に共感を示そうとしているのかもしれない。
玲児は、目を閉じて、必死の形相でしがみついてきている少女に、視線を落とす。
それはどこか、玲児をこの世界に引き留めようとしているようにも見えた。
もしかすると、この少女は、世界で唯一、自分の存在を認め、受け入れようとしてくれているのではないだろうか。
「俺のこんな……獣みてェな衝動でも、お前は受け入れてくれるのか……。それでも俺に、怯えないでいてくれるのか……」
確かめるような言葉に応えるように、玲児の背中に回った腕に、力が籠る。
それこそが、答えだった。
知らず、玲児の頬に涙が伝った。
そこに、どんな感情が籠っているのか、玲児自身にも全く理解できなかった。
少女がそっと顔を上げ、瞳で語り掛ける。
「えっと……?」
あなたのことを教えて欲しい、と。
「俺は、蓮実玲児だ」
玲児は思う。
俺は、これが欲しい、と。
手放すわけにはいかない、と。
だから、尋ねる。
「……お前は?」
少女は戸惑うように瞳を揺らした後、答えた。
「……橘千代……」
「千代……千代……」
噛み締めるように唱えると、少女……いや、千代は、がくりと膝から崩れ落ちる。
「おい、大丈夫か!」
そうしてそのまま、気を失ってしまった。
なんということだろうか、と玲児は思った。
本当はずっと、恐ろしかったのだろう。けれど、玲児の為に千代は、震える体に鞭をうって、これまで気を保ち続けていたのだろう。
玲児の痛みに、寄り添うために。
玲児は、気を失った千代の頬を、そっとなぞる。
「……こんな変な女、お前しかいないよなァ?」
玲児は気が付かなかった。
今まで、人間と深く関わることが無かったのだから、それも仕方がないのかもしれない。
けれど確かに玲児は、千代という小さな少女に、執着し始めていた。