第51話 蓮実玲児:痛み
「馬鹿がよォ。弱いくせにオレに難癖つけようたァ、太ェ神経だ」
既に意識を失っている男の襟首を掴んでいた手で、そのまま男を放り投げる。
そのままパンパンと手を払って、周囲に転がる有象無象のうめき声を無視したまま、玲児はぼんやりと思考を飛ばしていた。
つまらない。
最近めっきりと、玲児の心を打つ事象がなかった。
喧嘩をするのは楽しい。拳や心臓から伝わる熱だけが、鮮烈に玲児に「生」を実感させてくれる。
だが、喧嘩に慣れてくると、手ごたえのある相手という存在が、どんどん減っていった。すると、あれほど感じていた熱が、徐々に失われていくのを感じた。
冷たい。
玲児は自分の心臓が入っている場所に手を当てる。鼓動を刻んではいるが、熱を感じない。
ずっと燃えていたはずだった。
冷たい心臓を、己が憎悪と憤怒で燃やすことで動かしてきたはずだった。
けれど、両親を下し、敵対するもの全てを足元にひれ伏させた今、完全にその熱は失われていた。
正体不明の不快感に舌打ちをこぼし、頭を掻き回す。
冷えた心臓を抱えていくと、玲児の人生そのものが凍り付いていくような、不思議な錯覚がするのだ。
苛立つたびに玲児が喧嘩をし、けれど、その心臓は凍り付くばかりだった。
何が足りないというのか。
一体自分に、何が。
何を手に入れれば、あの燃える鼓動の熱を再び手に入れられるのか。
そんなことを考えていると、偶然通りがかった人間の悲鳴で、意識が強引に戻された。
他の人間にとっては、恐ろしい光景だったらしい。
そう思いだした玲児は、なんとなく軽い片付けをしてやることにした。
片付けとは言っても、その辺に落ちている人間を積み上げて、通るためのスペースを確保してやっているだけなのだが。
その作業を始めて少し経った頃、玲児は一人の少女が座り込んでいることに気が付いた。
華奢で小さなシルエットだった。
あんなガキがいただろうか? と思いながらも、偶然通りがかったのであれば悲鳴の一つくらいあげているだろう、考えた玲児は、その背中に声をかける。
「あれェ、お前もあいつらの仲間ァ?」
玲児の声に、少女が振り向く。長い黒髪が、立ち上がったのに合わせてたなびく。
少女の真っ白な顔の中には、およそ表情という表情が浮かんでいなかった。
自分を前にして、鋼のような無表情を崩さない少女に、玲児は眉を持ち上げる。
その目がじっくりと玲児の顔を見て……ガクリと膝をついた。
玲児を前にして、恐れているのだろう。
玲児は鼻を鳴らして少女を見つめる。
きっと今にでも逃げ出すだろう。見た目からして弱そうな少女だ。喧嘩をして楽しめそうな相手でもない。
逃がしてやるつもりだった。
けれど、玲児の予想に反して、少女はその場を動こうとはしなかった。
じっと玲児を見据えたまま、ピクリともしない。
その瞳は、妙に澄んでいた。
玲児はその目で見つめられると、妙に居心地が悪くなるのを感じた。不思議な感覚だ。まるで、自分の内側をまさぐられているような……。
玲児は不快感を誤魔化すように、声を上げる。
「俺を前にして逃げないなンて、胆の据わった女じゃン」
玲児の言葉に、少女は相変わらず表情を崩さず、何故かそのまま涙を流し始めた。
「……泣いてンの?」
いよいよもって玲児は困惑した。
泣くほど恐ろしい想いをしているならば、すぐにでも立ち上がって走り去れば良いのに。
もしかして、腰を抜かして動くことができないのだろうか。
そう考えた玲児は、じっと少女を観察する。
相も変わらず無表情ではあるが、唯一その瞳からは、温度を感じる。生暖かいその眼差しは、どこか覚えのあるもので……。
哀れまれている?
気が付いた瞬間、足元から虫が這いあがってきていることに気が付いた時のような、凄まじい嫌悪感が全身を包んだ。
同時に、目の前が真っ赤に染まる。
「……何、バカにしてンの? それとも……同情してンの?」
衝動のままに体を突き動かそうとして……。玲児はある違和感に気が付く。
これはなんだ?
少女は、玲児を見つめてなどいなかった。どこかずっと遠くを見るような、茫洋とした目をしている。
少女はぼんやりとした様子のまま、首を横に振った。
「違う……痛いの」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。そのくらい、現状から程遠い言葉だったのだ。
玲児は思考を回転させ、可能性を探り出す。
いつだったか、哀れんだ表情を浮かべた大人に、「痛々しい」と言われたことがある。あれはたしか、喧嘩で怪我をして、路地裏に座り込んでいた時のことだ。
それと、おなじだろうか。
「痛い? 俺が?」
けれど、少女は再び首を横に振った。
それから、自分の胸元をぎゅうと掴み、潤んだ瞳で言った。
「ここが……痛い」
それは、本当に苦しそうな表情で、玲児ははっとした。
もしかすると、この子供は病気だったのだろうか。突然立ち止まったり、泣き出したりしたのはただ、急な痛みに襲われただけのことだったのかもしれない。
けれど、そう尋ねても少女はまた首を横に振った。
玲児はだんだんと苛々してきた。
生来、そんなに気の長い方ではないのだ。それなのに、煙に巻くような態度を取られ続けて、いい加減に気が立っていたのだ。
「キミが……痛い」
「あ?」
「キミが……痛くて、私は……痛い」
玲児は、一瞬前まで感じていた苛立ちを忘れて、あっけにとられた。
少女が、再び激しく涙を流し始めたからだ。
一体この生き物は、何を言っている?
本格的に、玲児は困惑していた。全く得体の知れない生命体と、相対しているような心地がしていた。
玲児が痛いと、自分も痛いと少女は言った。玲児の痛みなど、少女には何の関係もない話だ。それなのに、何故……。
考え込んでいると、突然閃いた。
「あ……? もしかして、俺の怪我のコト? 俺の怪我で、自分の胸が痛むって言ってンの……?」
それは、どこかで聞いたおとぎ話のような話だと思った。
他人の痛みは、他人の痛みだ。それに、玲児の痛みは、玲児だけのものだ……。
そのはずだった。
そうでなければ、何故あれほど痛みに弱い両親が、玲児をあれほど痛めつけられたのか。
けれど、少女はおとぎ話を現実にするように、頷いて見せた。
玲児の困惑は、ますます大きくなる。
これほどおかしな人間に、玲児は今まで会ったことがなかった。
他人の痛みに共感する人間がいるという話は、聞いたことはあった。けれどそれは、綺麗ごとを真実のように吹聴するずる賢い人間か、物語の世界の住人くらいのものだと思っていたのだ。
けれど、今目の前にいる少女には、そんなことを言うメリットというものが存在しないように思えた。
玲児と少女は正真正銘の初対面だったし、ただ黙って通り過ぎさえすれば、彼らが関り合いになることなどなかったはずなのだから。
それなのに、少女はわざわざ玲児の目の前で立ち止まり、そして涙を流した。
何故わざわざ、玲児に関わったのか。何故少女は、玲児の痛みで泣くのか。全く理解できそうもなかった。
不思議な少女を前にして、けれどどこか、頭の芯の方が、妙に冷たくなるような感覚を覚えた。
善人面を暴いて、めちゃくちゃにしてやりたいという破壊的衝動が、玲児の中に湧き出していた。
だから玲児は、語ることにした。玲児の半生……そうして、彼の中にある強い衝動を。そうすれば、この少女の表情も、見慣れた人間たちと同じ……。恐怖と侮蔑に染まるものだと。そう信じていた。
だから玲児は言った。