第50話 蓮実玲児:快感
彼を苛んでいた暴力は、すっかり鳴りをひそめた。
どうやら、両親は彼の火の能力を恐れているようだった。
玲児は鼻で笑った。
臆病なやつらだ。そんな程度のことで、やめてしまえるようなことなら、最初からしなければいいものを。
しかし、玲児にとってすでに両親は、関心の外にあった。
彼らに制限される必要がなくなったと言うのであれば、家に留まる意味も、必要もない。
玲児は軽やかな足取りで家を出て、自分の狭い世界を破壊することにした。
しかし、どうにも世間一般では、子供が一人でうろついていると言うのは、目立つ行為らしい。
物珍しそうな、奇異の目で見られることがしばしあって、それで初めて気がついたのだ。
睨みつけてやると、不愉快げに顔を顰めて足早にその場を去っていく。一体、何がしたいのかと鼻を鳴らすと、ニヤニヤとした笑みを浮かべた子供に声をかけられた。
「おい、お前、ひとりぼっちで何やってんだよ」
まるまると太った少年は、玲児より幾分か身長が高く、その体格を見た限りでは、いくつか年上のように思えた。
「ア?」
機嫌の悪い時の父親のような声が咄嗟に漏れて、不愉快な気持ちに舌打ちをこぼす。
すると、自分に舌打ちをしたと思ったのか、声をかけてきた少年がいきり立つ。
「お前、何年生だよ!」
「はァ? つかお前、誰だよ。俺に何の用だよ」
答える必要性を感じない質問に、玲児の方も苛立ち始める。
「ぼっちのくせに、偉そうにしやがって! この辺の小学生なら、俺が一番強いんだからな!」
「意味わかんねェ。つかジャマなんだけど?」
「こいつ!」
激昂した少年の腕が動いて、玲児の頬を強かに打つ。
少年は、満足げに笑みを浮かべて……。玲児の顔を見て、すぐに凍った。
玲児は笑っていた。
頬を殴られて感じたのは、「生ぬるい」と、それだけのことだった。
こんなものではなかった。
玲児が向けられていた悪意も、暴力も、こんなものではなかったのだ。
たかが少年の、たかが一発。そんなもので、今更玲児が怯むことも、ましてや痛がることも、なかった。
「お返しだ」
そうして、玲児は初めての暴力に身を任せる。
加減の感じられない体重の乗った一発。さらには、笑みを絶やさない不気味な佇まいに、少年は早々に白旗を上げた。
根性のねえやつ、と鼻白みながら、玲児は自分が興奮の最中にいることに気がついた。
握った拳には、じわりとした痛みが広がり、一方で、今まで得たことのない満足感が、自分の中に広かっていくのを感じたのだ。
そうか。これが、これこそが。
両親の愛していたもの。
知らず、玲児の口角が上がっていた。存外簡単なことだったのだと、彼は初めて気がついたのだ。
次は……次にまた、両親が腕を振り上げた時には。その時には、彼らに対しても、これをしよう。
そう考えるだけで、脳髄が痺れるような陶酔が、玲児の拳から広がるのだった。
玲児は、自分には二つの大きな武器があるのだと学んだ。
一つ目は、暴力を振るうことに対して、全く躊躇を感じないところだ。
人に殴られ、殴って初めて気が付いたことなのだが、ある程度以上の年齢になると、どうやら人は人に対して暴力を振るう際、多少なりともためらいを感じるものらしい。無意識の内に手加減をしているのを如実に感じた。
しかし、玲児の中にはそのブレーキは存在しない。何故なら彼にとって暴力は、日常であり、何よりも自身に近いものだからだ。
二つ目の武器は、言わずと知れた玲児の能力だ。両親をひるませた炎の力は、他の人間にとっても恐ろしいものであるらしかった。
そもそも、火の能力と言っても、普通は指先にライター程度の小さな火が灯せるとか、その程度の力が大半であるらしい。それに比べて、玲児の使える力は、人ひとりを燃やすことなど容易いほどの、大きな炎だ。いうなれば、歩く火炎放射器のようなもので。そんな彼が恐れられるのは、当然といえば当然といえた。
暴力が暴力を呼び寄せるのか。玲児は気が付けば、殴っては殴られるの繰り返しの中で、すっかり有名人になっていた。
曰く、手の付けられない問題児。
悪い大人たちに目を付けられるのも早かったが、幸い、玲児の能力はそれらをけん制することにも使えた。
玲児が問題を起こすようになると、当然「世間体」とやらを大事にしてきた両親はいきり立った。
しかし、暴力と能力を駆使するようになった玲児にとって、最早彼らは脅威でもなんでもなかった。
ただ、今まで愉悦に歪んでいた顔が、恐怖に引き攣り、涙を浮かべて床に額をこすりつけて慈悲を乞う両親の姿を見た時――。
玲児は腹の底から這いあがるゾクゾクとした感覚に、笑い声を止めることができなかった。そうして、その快感に、酔いしれた。
彼はその時、生まれて初めて、心が満たされると言う感覚を味わったのだ。
ああ、そうか。お前たちはいままでこんな――。
こんなに楽しいことを、独占していたってことか――。
こうして、玲児の中で暴力は快感と結びつき、いつか脳内で何者かが語っていたように、許さず、排除し、燃やし尽くす。
そんな毎日を送るようになっていた。