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第41話 桐原陽太:事の顛末

 おかしな空間だった。


 恐怖に息を呑む妖怪たちの中で、千代はゆっくりと悠真の頭を撫でていた。


 そう、千代を傷つけられた悠真が、暴走して、相対した妖怪たちを皆殺しにしようとしたその時……千代は何も言わずに、ただ悠真の頭を撫で始めたのだ。


 もうやめて、と。


 そんなことはしないで、と。


 そう優しく告げるように、柔らかな眼差しで、千代は悠真の頭を撫で続ける。


 広間はしんと静まり返り、誰も彼もが固唾を飲んで目の前の光景をただただ見つめていた。


 その空間を完全に支配していたのは、まだ齢七つにもならない小さな小さな少年と、少女たちだった。


 陽太も息を詰めたまま、回顧する。


 なぜこの様な事態になったのだろうか、と。


 ええと、そう。座敷牢を連れ出され、詰問を受けていたところだったはずだ。何故人間がここにいるのかと。


 その後の流れは、普段と対して変わらなかったはずだ。普段のように、陽太を詰って……。けれど、その手が千代に伸ばされたところから、大きく流れが変わった。


 陽太ではなく、人間である悠真と千代が害されそうになり、千代を傷つけようとした妖怪に対して、悠真が激昂した。


 圧倒的な力を見せつかた悠真を前にして、妖怪たちはただ恐怖することしかできなかった。けれど、そんな中で一人だけ……。


 そう、彼女だけは、悠真を恐れず、立ち上がったのだ。


 悠真の瞳が、何故止めるのだと問いかける。


 こんな奴らには、生きている価値すらないだろう、と。


 けれど千代は、穏やかな表情のまま、ひたすらに優しく悠真の頭を撫でるばかりだ。


 悠真がその瞳から感情を読み取ろうとして、じっと千代の顔を覗き込んだ。


 慈しむような、光を湛えた瞳からは、愛情だけが感じられた。それに悠真はほうと息を吐いてーーそして、気づいた。


 そうか、彼女は妖怪たちの為に、自分を止めようとしているのではない。


 悠真のために……悠真が血に塗れた時、その時の心を心配して、止めているのだ。


 自分の命が危険に晒されたというのに、彼女の中に存在するのは、恐怖でも、ましては復讐心でもない。悠真に対しての慈愛の心だけなのだ。


 気がついた瞬間に、悠真の瞳に光が戻り、千代を振り返る。


 泣き笑いをするような千代の顔を見て、悠真の瞳に涙が浮かんだ。


「ごめん……。ごめん、千代ちゃん」


 悠真の謝罪に、千代はゆっくりと首を振った。


「ううん……。いいの。気にしないで。……ゆっくりで、いいから」

「ボク、ボクは……。『優しくて常識的』な人になるって、決めたのに……。こんな……こんな」


 頭に血が上って、相手を殺しかけるなんて。自分はなんて恐ろしい、怪物なんだ。


 悠真の悲しみの声が、陽太にも届いている気がした。


 自分を蔑む悠真に、千代は強い声で言った。


「やめて」


 悠真が、その声に、俯いていた顔を上げた。


「……やめて」


 千代は決して、悠真が自身を蔑むことを、許さなかった。


 あなたは素晴らしい人なの。だけど、偶には間違うこともあるでしょう。


 だから、自分をそんな風に責めないで。


 そんな風に、悠真を励ましているのだ。


 悠真は千代を見つめたまま、動きを止めた。


 陽太には、悠真の気持ちが痛い程わかった。


 千代は、いつもそうだ。


 苦しみも、悲しみも、全てを包み込んで、受け入れてくれる。そうして、何でもないことみたいに、微笑んでくれる。


 それがどれほど自分たちを救っているのか、わかっているのだろうか。


 女神の様な千代の微笑みの前に、悠真も泣き笑いの顔をして、頷いた。


「……わかったよ。ごめん……ううん、ありがとう、千代ちゃん」


 千代は泰然としたようすで悠真の言葉に頷くと、すっと恐怖に震える長を見据えて、口を開いた。


 静まり返った空間の中で、千代の澄んだ声は、よく響いた。


「……こんなの、許せない」


 自然と皆が、千代の言葉に耳をそばだてるのがわかる。


「陽太は、自由になるの」


 頭をハンマーで思い切り殴られたような衝撃が、陽太を襲った。


 千代は、自分の命の危機を前にしながら、陽太を自由に……この里に続く因習から、解放しようとしているのだ!


「……陽太を一人にしたのは、貴方達、でしょう? 陽太は何も、悪くない」


 なんという強い人なのだろうか。


 衝撃に打ち震えながら、千代を見つめる。


「おねーちゃん……」


 その声が震えていたことに気が付いて、陽太は再び衝撃を受けた。


 この人は、確かに命の危機を前にして、怯えている。それなのに……その上でなお、陽太の為に声をあげているのだ。


 なんという得難い人なのだろう。


 なんという……。


 陽太は千代の気持ちに応えたいと、震える喉を振り絞って、声を出す。


 けれど、そんな陽太の魂の叫びすらも、長の前では、無意味だった。


「どうして……」


 千代が身を震わせて、崩れ落ちる。


 その瞳から、透明な涙が、ほろほろと流れ落ちた。


「なんで……こんな……!」


 悔しそうに床に拳を叩きつける千代の姿を見て、陽太は自分が不思議なほど落ち着いているのを感じていた。


 それは、千代が自分の代わりに憤り、悲しみ、悔しがってくれるからだった。


 ああ、千代は心の底から、信じているのだ。


 話し合えば、心が通じ合うに違いないと。


 会話さえできれば、きっと分かり合うことができると、そう心から……。


 綺麗だ、と思う一方で、陽太は現実を静かに受け止めていた。


 陽太にとっての常識と、千代にとっての常識が違うように、長にとっての当たり前と、千代にとっての当たり前も、違う。


 陽太は妙に落ち着いた心地で、ゆっくりと長の前に歩み寄った。


 それに気が付いた悠真が、目くばせをしてくる。それに頷いて返すと、心得たというように、長の目の前にまあるい影が出現する。


「ヒッ!」


 息を呑んだ長の目の前で、歩み寄って来た悠真が微笑みながら、人差し指を立てて見せる。


 怯えた様子の長は、すぐに視線を逸らした。


「今後、オレの事には関わらないでいただけますか?」


 話し合いは無意味なのだと、目の前にいる長自身が、教えてくれた。


 ならば、最初のプランの通りだ。


 脅しかけて、こちらの話を通す。


 良心は痛まない。十分譲歩はした。それを断ったのは、彼らの方なのだから。


 それに何より……こいつらは、あの優しい千代を泣かせたのだ。


 陽太の鋭い視線を前に、長は顔を上げて、それからちらりと悠真の方を見て、逡巡の末、頷いた。


「わ……かった。今後、お前の事には口を出さん。だから……」


 陽太はニコリと笑った。


「ええ、そうしていただけるうちは、オレも、悠真も、暴れたりはしません」


 だから二度と、おねーちゃんの前に姿を現さないでくださいね。


 耳元で囁いた言葉に、長はもう一度頷いた。

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