第37話 桐原陽太:家族
そんなやりとりがあってから、悠真は目に見えて陽太に対する態度を和らげた。
自分の言葉を受けて変化した悠真の様子に、陽太は驚嘆した。
今まで、陽太の言葉を聞いてくれる存在も、陽太の言葉を信じてくれる存在も、彼の周りには、いなかったからだ。
千代の側にいたいと願った。だから、その近くにいる悠真にも、存在を許容してほしくて、縋るような心地で言った。
味方になる、と。それ以上に、陽太に差し出せそうなものも、価値のあるものも、彼の手の中にはなかった。
そして同時にそれは、陽太が喉から手が出そうなほどに焦がれた……憧れのものだった。絶対的な味方。何の理由も見返りも無しに、ただ自身を許容してくれる存在。それは本来、親だったり、同族の誰かだったりが負うべき役目で、だからこそ、陽太にとっては無縁の存在だったもの。
御伽話を信じるように、陽太は言葉をなぞったのだ。
「ずっと味方」だと。
けれども正直なところ、自分が味方になることに、一体何の意味があるのだろうとも、陽太は思っていた。
だって、オレは里では存在してはいけないもので。人間の中では、透明人間なんだ。いてもいなくても、変わらない。……いや、むしろ、邪魔になることはあっても、役に立つことはない。そんな存在なんだ。
無価値なものを差し出して、一体何のつもりなのかと、罵倒されることすら覚悟していた。
けれど、悠真はそんな陽太の予想を裏切って、随分と穏やかに接してくれるようになった。それが陽太にとっては何より驚くべきことであり、望外の喜びをもたらしてくれることでもあった。
「えへへ」
そんな陽太の気持ちが漏れ出したように溢れた声に、隣を歩いていた悠真が顔を上げた。
「何?」
相変わらず、千代のいないところでは恐ろしいほどの無表情ではあったが、陽太はすっかりそれに慣れきっていた。
「いや、えっとね。嬉しくて」
「嬉しい?」
悠真は表情を一切変えずに、ただコテンと首を横に倒して見せた。
「悠真が、オレを受け入れてくれたような気がして」
陽太は、頬に熱が集まるのを感じながら、小さな声で告げた。
「オレがおねーちゃんの側にいるのを、許してくれたから」
悠真は目をゆっくりと細めると、小さく口を開いた。
「……陽太は、ちょっと変だよね」
「変」という言葉に、陽太の心臓がドクリと鳴った。妙に冷たい汗が噴き出て、唇が震える。
「オレ、ヘンかなあ? 悠真は、どういうところがヘンだと思った?」
止まらない動悸を無視して、へにゃりと笑いかけながら尋ねると、悠真は逡巡するように視線を宙に彷徨わせる。
「ボクも、そんなに詳しいわけじゃないけれど。普通は、許可なんかいらないって、怒るところなんじゃない?」
「怒る? オレが?」
陽太はギョッと目を見開いた。
怒るだなんて、とんでもない。陽太にはそんな感情を懐くことなど、許されていないのだから。
「どうして?」
困った顔のまま微笑むと、悠真は不自然に動きを止めて、じっと陽太の顔を覗き込んだ。
感情の映らない悠真の瞳に見つめられると、居心地が悪い。
陽太はソワソワとしながら、「どうしたの?」と悠真に重ねて尋ねた。
「……もしかして」
そうっと囁かれるような、小さな悠真の声に、陽太は息を飲んだ。
「優しくて、常識的……。こういうのが、参考になるのかな」
それでも聞き取れなかった言葉を、陽太は慌てて聞き返す。
悠真は暫くの間黙り込んで、それから小さく首を横に振った。
「……ううん、何でもない」
「そうなの?」
「うん」
「なら、いいんだけど」
陽太は納得がいかなかったが、そんな感情を飲み込んで頷いた。
「陽太」
不意に、名前を呼ばれて顔を上げると、悠真はまっすぐに陽太を見つめていた。
「君がボクからちよちゃんを奪わないなら……ボクも、君の味方になってあげる」
信じがたい言葉に、陽太は一度だけ瞬きをした。
「……ほんと?」
尋ねると、悠真は静かに頷く。
陽太の知る存在の中で、悠真は信頼できる存在だった。
悠真は陽太の話を聞いてくれるし、まともに受け入れてくれる。その悠真が言うことであれば、陽太には疑う必要がなかった。
「じゃあ、ずっと三人でいてくれる?」
だからこそ陽太は、咄嗟に自分の願いを口にすることができたのだ。
陽太の言葉に、悠真はまたしても、こてりと首を横に倒す。
「三人で?」
「うん。ずっと……オレを、一人に、しないでくれる?」
手は小刻みに震えていて、声も途切れ途切れだった。
悠真は顎に手を当てて、数瞬何ごとか考えた後で、ゆっくりと言った。
「じゃあ、千代ちゃんの一番は、ボクに譲ってくれる?」
「一番……」
随分とそれにこだわるのだな、と思いながら、陽太はすぐに頷いた。
自分にとって彼女が一等特別な存在であることは間違いなかったが、彼女にとってもそうなるなんてことは、陽太には、想像すらできなかったから。
「いいよ、オレにとってはお姉ちゃんが一番だけど、お姉ちゃんの一番がオレになるだなんて、あり得ないもの」
陽太の言葉に、悠真は少しだけ目を見開いて、それから微笑んだ。
それは、おおよそ悠真が陽太に対して初めて向けてくれた微笑みで、陽太の心を弾ませるのには十分なものだった。
それなのに悠真は、更に陽太を喜ばせる言葉を吐いた。
「じゃあ、陽太は本当にボクの味方で……ボクの、お兄ちゃんになってくれるんだね」
お兄ちゃん!
陽太の心に、光が差し込んだ。まるで、雲間に隠れていた太陽が、姿を現した時の様な、心地の良い光が。
それは、陽太にとっては憧れの言葉だった。
憧れていたからこそ、悠真のこぼした「お兄ちゃんみたい」という言葉に喜び、提案したのだ。
「なって、いいの? 悠真のお兄ちゃんに?」
戯れの言葉じゃなくて、本当に。そんなつもりになっても良いのだろうか。
陽太の言葉に、悠真の笑みが深まる。
「いいよ。だって、陽太はボクの味方になってくれるんでしょう?」
「うん、なる。なるよ! 世界中の人が悠真の敵になっても、オレは悠真の味方でいる!」
「くふふ……うん。ちよちゃんがね、言ってた。誠実な気持ちには、真摯な態度を返す人が好きなんだって。だからボクも、陽太を守ってあげる。君がボクに誠意を示してくれる限り、ボクも君を大切にするよ」
その言葉を聞いた瞬間、パッと悠真の周囲が輝いた気がした。
悠真の言葉を口の中で転がすように繰り返して、咀嚼する。
随分と大人びた言葉だと思ったが、どこか浮世離れした雰囲気のある悠真の放つ言葉としては、しっくりとくる気もした。
「オレが悠真を守るんじゃなくって、悠真もオレを守ってくれるの?」
物語で読んだ兄は、下の兄弟たちを守るのが自分の役目なのだと言っていた。けれど、悠真は自分も陽太のことを守ってくれるのだという。
「あのね」
悠真は声を潜ませて、内緒話をするように、人差し指を立てた。
「家族って、お互いを守り合うものらしいんだ」
「……そうなの?」
悠真は真剣な顔で頷いた。
そうなのか、と陽太は思った。
そうして、なんて素敵な話なのだろう、と心を震わせた。
一方的な気持ちではないのだ。お互いに手を取り合って、一緒に生きていくのが家族という集合体なのか。
すごい。それが、オレの手の届くところに今、差し出されている。
手を伸ばせば届く距離に、それがあるのだ。
「すごい……すごい、すごい! オレ、絶対に悠真のこと、守るよ! だから悠真も…!」
「うん。陽太のこと、守るよ」
それは陽太が今まで聴いてきた中で、一番優しい声だった。