第36話 桐原陽太:一番
泡沫の夢のような邂逅は、陽太の胸に焼き付いて離れなかった。
あの人が良い。
あの人と一緒にいたい。
生まれてから一度も我儘を言ったことのない陽太の、初めて抱いた強い感情は、彼を突き動かした。
普段使わないようにしていた能力を使い、別れ際にあの少女にそっと『加護』を与えた。
『加護』は、対象の能力値を一時的に上昇させる力だが、一方で『加護』を与えている間、対象の状態を把握することができる。
それを利用して、彼女の家を探し出した。
「……まあ、あの子のお友達?」
インターフォンを押して出てきたのは、おっとりとした顔つきの大人の女性だった。
陽太は咄嗟に身構えた後、逡巡した末に頷く。
「まあ、まあ。あら、あら。新しいお友達ができていたのね。少し待っていてくれる? 呼んでくるわね」
特に不審がられることもなく、女性は少女……橘千代に会わせてくれた。
再会した千代は、少しだけ目を見開いていた。
「おねーちゃん、久しぶり!」
高鳴る胸を押さえながら声をかけると、千代は小さく唇を開いた。
「なんで?」
シンプルな問いかけに、陽太は瞳を潤ませる。
会いたかったからだ。
ただ、会いたくて……仕方がなかったからだ。
「おねーちゃんに、会いたくて……ダメだった?」
千代は何も答えなかったが、黙って家の中に上げてくれた。
温かい家の中で、彼女と一緒に飲んだミルクティーは、今まで口にしたどんなものより美味しかった。
陽太が頻繁に千代の家に入り浸るようになっても、千代も千代の母も何も言わなかった。
ただ自分が受け入れられているという現実に、陽太は不思議な心地がしながらも、安堵していた。
ここには、オレを見つめる冷たい眼差しも、害そうとする強引な手もない。
すっかり胸を撫でおろしていた陽太だったが、ある日一人の少年に出会うことで、状況が少し変わった。
柊木悠真と名乗ったその少年は、陽太にとっては馴染みのある視線を、彼に向けてきた。
悠真は、陽太と顔を合わせるたびに不快そうな顔をした。
どうやら自分は歓迎されざる客のようだと理解はしつつも、そういった対応をされることに慣れ切っていた陽太は、特に何の感慨も抱かなかった。
そういった陽太の態度が、どうやら気に入らなかったらしい。
ある日、いつものように千代の家に遊びに行った後、普段は無言で別れる悠真が声をかけてきた。
「ねえ」
短く投げかけられた言葉に振り返ると、表情という表情をそぎ落としたような顔の悠真が、小さく口を開いた。
「どういうつもり?」
何を問われているのか、陽太には見当がつかなかった。
その気持ちを表すように首を傾げると、悠真は苛立たし気に眉を寄せた。
「ちよちゃんに取り入って、好きになってもらおうとしてるんでしょう? それなのに、ボクにまで媚を売って、一体どういうつもりなのか、聞いているんだ」
陽太は驚きに目を見開いた。
というのも、千代と三人でいる時と、悠真の様子が随分と違ったからだ。喋り方や、声のトーンすら全く違う。
それは最早、別人なのではないかと思ってしまうほどの違いだ。
「……えっと、悠真の言ってることが、あんまりよくわからないんだけど……?」
ピリピリとした緊張感が、あたり一帯を包んでいた。
肌に触れる空気を感じて、陽太は誤魔化すように頬をかく。
「まさか、本当に何も考えてないの?」
「え……? いや、何も考えてなくはないけど……」
「……じゃあ、ボクのことは、どう思ってる?」
「悠真のこと?」
陽太はきょとんとして、それから笑った。
「なんか……胸のところが、あったかくなる」
悠真は陽太の言葉に、目を丸くした。どうやら、予想外の言葉だったらしい。
しかし、嘘ではなかった。
悠真が千代に懐く姿は、なんだかとても幼く見えた。そんな悠真に千代が優しくしてやっている姿は、羨ましくもあったが、単純に微笑ましく思えた。
だから陽太は、悠真と千代を眺めている時間が、好きだった。
「……そう」
空気が少し変わった。
悠真の肩から、ふっと力が抜けたのを感じる。
「ねえ、陽太は……ちよちゃんが、好きでしょう?」
「うん」
間髪入れずに頷くと、悠真はふいとそっぽを向いた。
「ボクも……ちよちゃんが、好き。世界で一番、好き」
「そうなんだ。一緒だね」
ニコニコしながら言うと、悠真は少し顔を強張らせて、胡乱げな目をした。
「陽太は、思わないの? 自分も、千代ちゃんの一番になりたいって」
問いかける声に、しかし陽太はその意図を汲み取れなかった。
一番になりたい?
陽太は、おかしなことを言うものだと思った。
陽太にとって千代の側にいることは、一番の願いだ。千代の何気ない一言を、この世で最も綺麗な言葉だと思ったし、その言葉に救われた。陽太にとって重要なありとあらゆる物事を、どうでもよいことだと断定した彼女と一緒なら、自分も普通になれる気がした。
だから陽太は、千代の側にいたい。けれど、千代にとって自分が一番になりたいだなんて大それたことは、思いつきさえしなかった。
「なら、いいや。もう少しだけなら、一緒にいても、許してあげる」
悠真の言っていることは、陽太には理解し難しかったが、ただ一つ、わかったことがあった。
それは、悠真が陽太を千代の近くに置くことを許してくれたのだということだ。
陽太はパッと顔を輝かせて、悠真の手を掴んだ。
ギョッとした表情の悠真が、陽太の顔を見て眉を顰めたが、気にならなかった。
陽太にとってみれば、気に食わないことはわかっているのに、それでも側にいることを許してくれる悠真の対応は、甘いにも程があったからだ。
存在するだけで謗られ、排除の対象とされてきた陽太にとって、悠真は心底優しい少年に見えた。
なんて優しい子なんだろう。悠真をみていると、胸の辺りがほわりと暖かくなる。だから、損なわれないようにしてやりたい。
陽太は、自分のそんな気持ちが、どんな言葉で表現すべきものなのか、わからなかった。けれどただ、失われなければ良いと、そう思ったのだ。