第35話 桐原陽太:変な人
腕に縋りついたまま歩き出すと、少女はチラリと此方を見た。
……歩きづらかったのだろうか。
そう思ったけれど、離したくはなかった。誤魔化すように眉を下げて笑うと、仕方がなさそうに口角を少しだけ持ち上げて見せてくれた。
優しい子なのだろう。
それもそうだろう。見ず知らずの陽太に、声をかけてくれたような子なのだから。
縋りついた腕の温度が、温かい。振り払われる気配がない事に甘えて、少しだけ頬を寄せてみた。
「……どうして、迷子になったの?」
顔を上げると、少女が陽太を見つめていた。
……どうやら、質問をされているようだ。
気が付いたけれど、何と返事をすればよいのか、見当がつかなかった。
この子に、好かれたい。一緒にいたい。そう思って脳を回転させるけれど、考えてみればこの方、生まれてきてから碌に他人と対話してこなかったのだ。
どのように会話をすれば、好かれるのかなんて、わかるはずがない。
陽太は少女の目を見ていられず、俯いた。
「……オレ、嫌われてるから」
「どうして?」
どうして?
どうしてだって?
おかしなことを聞くものだ、と陽太は思った。
だって、常識でしょう?
青空の下で、今日の天気を尋ねてくるようなものじゃないか。
「ヘンなんだって、オレ」
思わず唇が震えた。本当は、もっと沢山の相応しい言葉があるのだろうことを、理解していた。けれど、それ以上の言葉を口にするのは、あまりにも惨めな気がしたのだ。
少女を陽太の言葉に、悲し気に目を伏せた。
「変じゃないよ……ごめんね、変なのは、私の方」
妙なことを言う少女だと思った。
変じゃないよ、という言葉だけだったのなら、単純に陽太を励まそうとして言った言葉なのだと感じただろう。けれど、どうして自分の方が変だなどと言うのだろう。どうしてそんなことが、言い切れるのだろう。
陽太は首を傾げて、少女の顔を覗き込むようにして見つめる。
「なんで……? オレ、皆から嫌われてるんだよ?」
心底不思議に思って放った言葉に、しかし少女は首を振って見せる。
「私の方が……罪深いから」
陽太は、首をひねる。
罪深い?
罪深い、という言葉は、陽太にとって馴染み深い言葉だった。
高貴な妖怪を堕とした女との間に生まれた、罪深い子供。妖怪を破滅に導く、罪深い能力を持った子供。考えれば考えるほど、それは陽太の為にある言葉で……。だからこそ、彼女がどうして自分を指してその言葉を使ったのか。それが陽太には、わからなかった。
「わからない!」
陽太は大声を上げた。考えたところで、陽太と少女は知り合ったばかりの他人なのだ。わかるはずがない。
そう、わかるはずがないのだ。
陽太は歩みを止めた。自然、彼に腕を掴まれている少女の歩みも止まる。
「あのさあ……」
服の裾を伸ばしながら、陽太は決意して顔を上げた。
口にしなければ、わかるはずがない。
それは先ほどの少女の言葉で、よくわかった。
だからこそ、言いたくなった。
言ってみれば、少女はもう、言えなくなるんじゃないかと思ったのだ。
自分の方が変だなんて、そんな悲しいことは。
妙な感覚だった。陽太は確かに先ほどまで、どうにかして彼女に好かれたという気持ちで喋っていたはずなのに。どうしてか今は、ただ彼女が、自分は変だなんて悲しいことを言わないようになれば良いと、そう望んでいるのだから。
「オレ、実は妖怪なんだ……」
体の震えを誤魔化そうとして、頬をかく。
なんでもない事のように言いながら、全身が恐怖でこわばっていた。
「……へえ」
けれど、返って来たのはそんな気のない返事だった。
「……それだけ?」
「うん、特になんとも……」
「あ、信じてないでしょ! オレ、本当に妖怪なんだよ! なんなら証拠だって見せられるし!」
一体何を言っているのかと、陽太は混乱していた。信じてもらえないならもらえない方が良いだろうと、冷静な部分では思っていた。
けれど一方でやはり、彼女に、自分より陽太の方が変なのだと、知ってもらわなければいけないような気がしていた。
そうして、笑って欲しかったのだ。
けれど、そんな陽太の気持ちとは裏腹に、彼女は首を横に振った。
「あ、ううん。違うの。……信じてないんじゃなくて、どうでもいいなって」
「どうでもいい?」
眉を寄せる陽太に対して、彼女は大きく頷いた。
「キミが、どんな生き物でも、関係ないから」
その言葉を耳にした瞬間、陽太の世界は確かに変わった。
星が瞬いているみたいだ、と陽太は思った。
少女の小さな唇から、星が飛び出している。それが陽太の周りをくるくると回りながら、絶えず優しい光を放っているような錯覚がした。
「オレが、どんなでも……関係ない?」
綺麗だ、と陽太は瞳を輝かせる。
光の元を辿ろうとして、すぐに少女の光を反射しているのだと気が付いた。
そうか。この子の言葉が綺麗だから、こんな風にキラキラして見えたんだ。
少女はもう一度頷いた。
まるで、当然だとでも言いたげな態度だ。
「おねーちゃん、オレより変な人だ」
陽太は、顔いっぱいに笑顔を浮かべた。
陽太にとって、自分と言う存在は最大の弱点であり、汚点であった。……いや、そうだと思い込まされてきた。
だって陽太が生まれたから、両親は死んで。
陽太が存在するから、里の者たちはいつも不快そうなのだ。
何故なら陽太は、そう生まれついたからだ。
それが彼にとっての常識で、世界のど真ん中にある決まり事だった。
それなのに、少女はそれらの全てを……陽太が生まれついて、散々耳にしてきたありとあらゆる罵倒の言葉を、その内容を、「どうでもいい」ことだと断言した。
関係ないのだ、彼女にとっては。
陽太が半妖の子でも、忌み子でも、親なしでも、気味の悪い能力を持っていても。何もかも、関係ないのだ。
陽太は頭から水を打たれたような衝撃を受け、同時に心の奥底に溜まり続けた淀が洗い流されたような、すっきりとした心地の良さを感じた。
そうして、澄んだ綺麗な世界の中、ひとり佇む少女に、目を奪われた。
この人が良い。
たまたま手を差し伸べてくれる人でも、気まぐれに優しい声をかけてくれる人でもなくて。この人が良い。
この人と、一緒にいたい。
だって、この人なら、気にしないのだ。
陽太が妖怪であろうと、人間であろうと。
おかしくても、そうじゃなくても。
陽太は縋りついた手に、力を加える。少女は不思議そうにまばたきをしたけれど、そのままサービスカウンターまで陽太を送り届けてくれた。
それから、少女は何故か店員を呼びつけ、一体何のつもりだろうかと首をひねったのも束の間。彼女は当然のように館内放送で監視役の妖怪を呼びつけ、あろうことか説教をして見せた。
陽太は目を白黒させた。しかし、陽太にとって恐怖でしかなかった存在が、小さな少女に説教をされている姿と言うのは、妙におかしくて。
陽太は数年ぶりに、声を立てて笑ったのだった。