第34話 桐原陽太:それが欲しい
繰り返される日常に、精神は摩耗していく。
たった一人、毎日を生きながらえ続けて、一体何年の時が経ったのだろうか? 数年ぽっちの様な気もするし、数十年の時が経ったようにも思える。
悠久とすら思える時を過ごしているうちに、陽太はある願望を抱くようになる。
……終わらせたい。この生を、終わりにしてしまいたい。変わらぬ明日を、迎えたくない。
けれど、そんな考えが過ると必ず、あの夢を見た。優し気な顔をした女性が、何かを言い残す夢を。
陽太は何故だか、その言葉を思い出すまでは、生きなければならない気がした。
おかしな話だ。覚えてもいないことなのなら、きっと、そんなに大切なことではないはずなのに。
どうしてか、それを大切にしなければいけない気がするだなんて。
「おい、買い出しだ」
いつものように連れ出され、監視役の後ろを歩いていく。
ニヤニヤと薄気味の悪い笑みを浮かべた子供に石を投げられ、「忌み子」と囁かれる声を聞きながら、陽太は黙って歩き続けた。
本を読もう。そうだ、本を読まなければ。
だって今日は、本が読める日なんだから。
自分に言い聞かせながら、歩く。空を見ると、べったりとした青色が、目に痛かった。
いつものごとく置き去りにされた店内で、陽太はぐるりと周囲を見回した。
色とりどりの野菜が、瑞々しく輝くのを見つめながら、やれやれと首を振る。
兎にも角にも、これでやっと息ができる。
すぐに踵を返そうとして、不意に、ある光景が目に入った。
「やだやだやだ! お菓子買ってくれなきゃ帰らない!」
「もー、我儘言わないの! ほら、帰るよ」
それは、なんてことのない光景だった。駄々をこねる子供と、それを宥める母親の姿。至ってありふれた、普通の光景。けれど、陽太にとってはそうではなかった。
陽太は食い入るように目の前の光景を見つめる。
「だって、だって」
「だってじゃないの。お家に帰ったらあるでしょう?」
母親の手が伸びて、子供を抱き起す。そうして、その手がそっと子供の頭を撫でた。
「いい子だから、帰ろう?」
子供は未だ不服そうに唇を尖らせていたが、やや強引に母親がその手を引いて、去っていった。
すっかりなくなった後姿を見つめたまま、陽太は動けなかった。
いいな。
羨ましかった。
あれが、欲しい。あの手が……あの優しい声が、オレの物だったなら、良かったのに。
生を受けてから、もう随分と長い時間が経っていた。それなのに、急に子供の癇癪のような気持ちが、腹の底から這いあがってくるのを感じた。
ずるい。
ずるい、ずるい、ずるい、ずるい。
いいな、いいな、いいな、いいな。
感情が爆発することが、抑えられない。
気が付けば陽太は、幼子のように声を上げて泣いていた。
自分でも気が付かないうちに、随分と心が弱っていたらしい。
陽太に向けられる声は、あんなに冷たいのに。触れる手は、強引で、暴力的で、やはりとても、冷たいのに。
あの子に触れる手は、あんなに優しくて。
あの子にかけられる声には、あんなに慈しみがこもっている。
何が違うと言うのだろう。
自分とあの子の、何が。
わんわんと泣きながら、陽太はついには膝を抱えてうずくまった。
ああ、ここが人間の住まう地で良かった。だってここでは、陽太は透明な存在なのだから。
そんなことを思いながら泣き続ける陽太に、声をかける人など、いるはずもなかった。
「……どうしたの」
不意に、澄んだ柔らかな声が耳に入った。けれども陽太は、それが自分にかけられた声なのだと己惚れることはなかった。
当たり前だ。
だってそれは、オレのものじゃない。オレの手に入るようなものではないのだ。
けれども、何かがおかしい。すぐ近くに、人の体温を感じる。
いいな、と陽太は思った。オレもこれが欲しい。オレにもこれが、あったらいいのに。
望んでしまう自分に、思わず苦笑した。
そんなの、叶うわけがないだろう。
胸中の言葉が聞こえていたようなタイミングで、もう一度声が響いて、それから柔らかな手が、そっと陽太の腕に触れる。
壊れ物に触れるような、繊細な手つきにぎょっとして顔を上げると、陽太の視界に飛び込んできたのは、一人の小さな女の子の姿だった。
長い黒髪が、サラリと揺れて、白い肌の中、くっきりと浮かび上がる黒い目が、まん丸に見開かれている。
よほど驚いたのか、そのまま駆けだしそうな様子の少女に、陽太は咄嗟に手を伸ばした。
待って!
今、もしかして今、オレに声をかけてくれてたの?
オレの為にかけられた声だったの?
オレに向けて伸ばしてくれた手だったの?
それなら、待ってよ。行かないでよ。
オレの側に、いてよ!
必死に縋りついた手は、少女の手を見事に掴み、少女は目を丸くしたまま、じっと陽太を見つめていた。
掴んだ手の中に、温かな少女の体温があった。
それは陽太の人生の中で、初めて感じられた温もりだった。
陽太は唇を舐めて湿らせると、慎重に言葉を吐き出す。
少しでも長く、自分の為に声をかけてくれたこの少女と一緒に過ごしたかった。
「オレ、迷子なんだ……」
咄嗟の言葉は、なんとも恰好悪かったけれど、でも、嘘じゃなかった。
迷子なんだ、オレ。帰る場所がない。一緒にいてくれる人も、オレの為に声をかけてくれる人もいない。だから……今だけでいいから、一緒にいて。
陽太の気持ちを知らない少女は、ひとつ息を吐いて、言った。
「……サービスカウンター、行く?」
少女を前に、陽太は思考を巡らせる。
どういう風に振舞ったら、この子に優しく声をかけてもらえるだろうか。手を差し伸べてもらえるだろうか。
あの母親のように、優しく……。
少女は勿論、あの母親のような大人の容貌はしていない。けれど、陽太にわざわざ声をかけてきたあたり、面倒見が良いのではないか、というのは察せられた。
それならば、こう呼ぶのが恐らく正解だろう。
「うん……連れてって、おねーちゃん」
どこでもいいから、一緒に。