第10話 柊木悠真:温もりと好意
悠真は、千代と一緒に過ごす時間に慣れ始めていた。寒々しかった自分の隣に、温もりがあることに、戸惑いよりも安堵を覚え始めていたのだ。
彼女の存在に慣れると、今まで誰にも話していなかった秘密が、ぽろりぽろりと漏れ出すようになった。最初は、家でずっと本を読んでいるという、小さな秘密。それから、父と碌に会話をしたことがないという、変わった家庭環境について。千代がいつも、黙って聞いてくれるものだから、悠真はどんどん自分の話をするようになっていった。
そしてついには、自分の使命についてまで、語るようになった。
「ボクは……この世界を、壊さなきゃいけないんだ。ボクは、そのために生まれてきたから……」
突拍子もない話だ。何の作り話だと笑われてもおかしくないし、頭のおかしい子だと思われても仕方がなかった。けれど、千代は、そんな悠真に微笑んで、励ますように手を握った。その温もりに背中を押されるようにして、悠真は言葉を紡いだ。
「ボクにはそんなことしか、できないから」
千代は、じっと悠真の瞳を見つめる。何もかもを見透かすような、まっすぐな目をして、彼女は言った。
「……キミは、ありがたいよ」
まただ。
また、千代は悠真に「ありがたい」と言った。この言葉が本当に意味するところを、悠真はいまだつかめずにいた。
ミステリアスな女の子だ。
悠真はそう思った。けれど、何度も何度も言われているうちに、自分が何かマイナスな発言をする時に、彼女がその発言をするのだと気が付いた。
ボクを、励ます言葉なのだろうか?
そう思って、再び辞書を開くと、彼女が放つ言葉の持つ意味は、『またとないくらい尊い』なのではないだろうか、と推測できた。そのまま今度は、『尊い』という言葉の意味を、引いていく。
「とうとい……尊い……。すうこうで近よりがたい、しんせいである、こうきである……。きわめて価値が高い、きちょうである……」
美しい言葉だと思った。それは、悠真の存在そのものを、大切に想った言葉のように感じられたからだ。悠真は、文字列をなぞり、そのままぶ厚い辞書を胸に抱いて寝ころんだ。かたくて冷たい床の感触が、なんだか心地よかった。
千代ちゃんは、ボクに価値があると言った。ボクが生きていることを、歓迎してくれているんだ。
悠真にとって、自分の存在意義は、世界を壊すことだけだった。そのために生きて、そのために死ぬことだけを望まれてきた。けれど、千代は、千代だけは、悠真の存在自体を、悠真が生きてここにいるという事実そのものを、喜んでくれているように、悠真は感じた。
なんだか胸のあたりに、ほわほわとしたぬるい熱を感じる。それは、今までに経験のしたことのない、むず痒いような感覚だった。けれど、悪い心地はしなかった。
「ちよちゃん……くふふ、ボクも明日、言ってみようかなあ。ボクにはキミが、ありがたいよって」
くふふ、くふふと、少し変わった笑い声をあげながら、悠真はそっと目を閉じた。いつもなら、どこまでも闇が広がっていくだけだったはずだ。しかしその時は何故か、暗闇の中に千代の顔が浮かんで見えた。
千代ちゃんは、ボクを好きでいてくれる。
悠真は、生まれて初めて、他人から向けられる好意を確信していた。
「僕は早く、ひとりきりにならなきゃいけない」
悠真がそう言うと、千代はそっと悠真に寄り添った。
「みんな、消えちゃえばいいんだ」
自分の使命の重さに口走った言葉にも、千代は微笑んで手を握ってくれた。悠真がどんな言葉を口にしても、千代は悠真のそばを離れなかったのだ。
だから悠真は、千代はどんな自分であっても好きでいてくれるのだと、そう思うようになっていった。そして、千代に居なくなって欲しくない、と思い始めていた。
それと同時に、彼女が隣にいる日々を、『尊い』と感じるようになっている自分に気が付いた。千代さえ隣に居てくれたら、冷たくて嫌いだった世界が、温かくて好きなものだと感じられるのだ。
千代ちゃんは、ボクがどんなボクでも否定したりしない。でも、ボクはそれに甘えていて、いいんだろうか?
悠真がそう考え始めたのは、書庫で見つけた、熟年離婚をした夫婦の物語を読んだからであった。妻に甘えて、好き勝手に振舞ってきた男が、物語の終盤、離婚を申し込まれるのだ。
『君は、どんな俺でも愛していると言っていたじゃないか!』
男がどうか離婚の申し込みを撤回してもらえないか、と縋る。しかし、妻は首を横に振るのだ。
『いいえ。いいですか、愛は、永遠ではないのです。確かに私は、貴方の全てを愛していました。そう思っていました。けれど、貴方の振る舞いや言動の一つ一つが、積み重なって、私を押し潰したのです。やがて愛は枯れ、憎しみが募りました』
冷たい眼差しを向けられた男は、そこでやっと悟る。好意の上に胡坐をかいてばかりいては、愛は失われるものなのだと。
悠真は戦慄した。自分も千代の好意の上に胡坐をかいていては、隣から彼女がいなくなるのも時間の問題だと思ったのだ。
千代ちゃんに、ボクの隣にずっといてほしい! その為にボクは、頑張らなくちゃいけない!
決意をしたものの、具体的に何をすればいいのかわからない。悠真は悩んだ末に、千代に直接尋ねることにした。
「ちよちゃんは……どういう人がすき?」
千代は、こてんと首を横に倒して、悠真の発言の意図がわからないことを示した。
「えっとね……その、どういう人と、いっしょにいたい?」
千代は、その言葉に得心がいったように頷いた。
「優しい人」
「やさしい?」
「うん、優しくて……常識的な人」
「ジョウシキテキ」
帰宅して辞書を引いた悠真は、衝撃を受けた。
ボクは、千代ちゃんが好きな人のタイプとは、かけ離れている!
悠真はわかっていたのだ。世界を滅ぼす人間は、『優しくて常識的』な人間とは、対極に位置する人間だということが。それは勿論、書庫にあった数々の書物から、得た知識によるものだった。
このままじゃ、近い未来で、ボクは千代ちゃんに嫌われてしまうかもしれない!
悠真は決意した。
世界を壊すだとかなんだとか言っている場合じゃない。『優しくて常識的な人』にならなければ……!
ボクが千代ちゃんの好きな人のタイプになれば、千代ちゃんはボクと一緒に過ごす毎日を好きになってくれるに違いない。そうすれば、ボクがそうだったみたいに、千代ちゃんも世界が温かくて、好きだって思ってくれるようになるはず。そうすれば、二人で『幸せ』になれる。いつか読んだ物語みたいに。
悠真の中で、生まれてからずっと刻み込まれていた『使命』を、『千代への好意』が上回った瞬間であった。